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from: 生成門さん
2010年09月08日 16時08分27秒
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-1:非在への分岐
-1:非在への分岐
<PSとの共振>
三つの自己があるということになりました。そして+1が外部としても自己、-1は内部の自己、0がMPです。
前回は、MP1は差異の共立(凸i♯凹i)とMP2は差異の共役・共振(凸i*凹i)の相互作用によって⇒+1と⇒-1のどちらかに分岐するということで、+1への分岐について説明しました。
では、-1に分岐するとはどうことでしょう。
+1分岐には⇒+1と+1の違いがあったように、-1分岐にも⇒-1と-1の状態があるのでしょうか。
先ず、MPの作用としては、MP1の差異の共立(凸i♯凹i)から、凸i♯凹i⇒となり、⇒-1となり、-1となるでしょう。
凸i♯凹iとは、差異=即非=対立するイデアが共に存在しているというとことです。実在しない非在な観念や概念が存在するというような言い方になってしまっていますので、混乱するかもしれません。
これはこのように理解してください。
一般には、物質的な実体が実在することを存在するといいますが、同様に、イデアや非物質的なものも存在すると理解してください。ですから、イデアが存在する、非物質的なものが存在する、概念が存在する、つまり、非在が存在するということになります。
そこで、凸i♯凹iの差異の共立とは、自と他が妨げあわないで、非在が同時に共存している状態ということになります。
イデアの共立からすべてが始まります。つまり、MPが凸i♯凹i⇒として作用します。その結果、共役では、心が対象に向かい、自→他の構図になるのですが、共立では、そのようにはなりません。
共立では、心のMP作用は凸i♯凹i⇒、つまり、(自+他)⇒となり、⇒-1となるのです。この仕組みは複雑なので、数学的な記号を使わないと説明が出来ないので、少し使って説明します。
自=a+ib、他=a-ibとします。(自+他)=(a+ib)+(a-ib)=2aとなりますが、ガウス平面では、これが1/2回転(π)の位置なので、1/2(2a)=aとなります。ここで、a=cosθとすればθ=π=180度ではa=-1(cosπと検索すれば答えがでてきます)となります。
数学的にはこうなのですが、これが心の問題とどう関係するのでしょうか。
共立の心の作用は凸i♯凹i⇒、つまり、(自+他)⇒は、自己と他者ないし、自己と対象物が一体となって重なっているということです。
このイメージがなかなか、つかめないと思いますが、一心同体、人馬一体などといわれる熱中、放心、恍惚、無我夢中の状態です。
このような無意識的な無我状態は、凸i♯凹iから生成されるのであり、このような内部状態とは波の状態なのです。
言ってみれば、これは量子力学が光を追い求めて来た結果、実体のない幽霊の波として認めることになった状況と同じ状態なのです。
つまり、観測されるまでは、波であり、その位置は特定できないのであり、波ですから、いくらでも重ねあわせができ、可能な状態がいくらでもあるということです。
内部(波)は外部から観測できないので、外部の観測者からは、内部は確定できないという意味なのです。確定できないということは、多くの可能性が潜在しているということです。
今、私はある人(A)の事を考えているとします。つまり、(自+A)⇒の状態にあるということにします。考えている間は、観察者ではありませんから、+1に出ることはありません。
しかし、⇒-1に出るときがあります。それはどのようなときでしょうか。
自=a+ib、他=a-ibとして、(自+他)=(a+ib)+(a-ib)=2aから1/2(2a)=aを導いた過程を思い出してください。1/2回転したことが、この答えなのです。
つまり、私がある人(A)の事を考えているときは、多くの可能性があり、その中から、特定の私とある人(A)が、1/2回転でa=-1、つまり、自と他が完全に融合して一体となり、それが-1の位置に現れ出るのです。
現れ出るといっても、この位置は観測される位置ではありませんから、外部からは見えない位置です。
それを、変な言い方になりますが、内部の自己が内部に現れ出るということです。
つまり、これが内部の覚醒、閃き、直感的な認識、悟り、数学的閃き、などなどなのです。私がある人(A)の事を考えているときの例で言えば、私がある人(A)の事を理解した瞬間であるということでしょう。
数学的閃きと俗人の勘では、その内容の質や水準などには大きな差異があるでしょうが、それは又別の問題であり、ガウス平面上においては、「思う」ことの結果は、すべて、非在の位置、つまり、-1に現れ出るのです。
この場合、⇒+1と+1の場合のように、⇒-1と-1にも違いがあるのでしょうか。当然あります。
⇒-1は、思考の過程であり、まだ、覚醒、閃き、直感的な認識、悟り、数学的閃きがない状態です。そこに向かっている途中の状態です。その結果が、明確に現れたときが、-1と解釈すればよいでしょう。
ただし、注意しなければならないことは、これは、+1ではないということです。-1は心の内部のことであり、私の一人舞台なのです。私はまだ、観察者にはなっていないのです。
私が、これを閃いたといって、叫んだとしましょう。その瞬間に私は私の観察者になったのです。つまり、-1から+1に反転して、外部の位置に現れたのです。
悟り場合も同じことが言えるでしょう。座禅をしている途中では、無念無想の位置、つまり、0の位置、そこから、悟りを得ようともがいているときが⇒-1、悟りを得たと確信したときが-1、そして、その悟りを得たと表現したときが、突然に反転して+1の位置となるでしょう。
私という自己は、もともと内部にあって、0と-1のどちらかにあり、その過程から+1の外部に表れ出るということです。
植物状態と自閉と無念無想は0の位置であるでしょうが、これらが同じ状態かというとそうではありません。MP2の作用が劣化しているのが、植物状態と自閉であり、かろうじてMP1が生命を支えているのでしょう。
また、動物が生まれてくるときは、-1からではなく、MPからダイレクトに、+1に出てくるのでしょう。
普通の人間の自己は、-1を経由して+1に反転して出てくるということです。その場合、MPが関与していることは申すまでもありません。この仕組みを解明することが、PS理論の大きな課題なのです。
この仕組み=メカニズムを、更に詳細に解明しなければなりませんが、言えることは、0と+1と-1の自己の位置は固定されたているのではなく、ガウス平面は光速度で回転していますので、絶えず相互に入れ替わっているということです。
光速度ですから、それは瞬間であり、つまり、時間がかからない、つまり、同時に起きているということです。
自己とは回転するガウス平面そのものなのです。
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