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from: 生成門さん
2010年09月10日 11時23分33秒
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外部化された自己は自我
外部化された自己は自我
<PSとの共振>
実在とは物質世界に存在するもののことですから、実在に対して、非物質が存在するということで、非在としたのですが、非在が存在すると言い方はやっぱりおかしいような気もします。ないものがあるということになるからです。
+1を正の物質として-1を負の物質とすれば、負在とは負債のように聞こえてしまうので、どうもいただけません。やはり当面は、非在(非物質的存在)で行きます。
Renshi氏は-1を超越的存在として超在と表現していますので、非在は超在と解釈してください。
前の記事で、三つの自己{+1・0・-1}があることになりましたが、自己の位置は固定されたているのではなく、同時に起きているということです。自己とは回転するガウス平面そのものなのだということです。
ですから、トラがバターになった話のように、回転を止めなければどこにいるかなど外部からは皆目検討がつかないのです。
ただ、新たな疑問としては、自己とか自我がといった場合、それは実在ではなく、非在ではないのかということです。身体は実在でしょうが、心をもった身体、即ち、心身はどう扱えばよいのかということが分からなくなってきたのではないでしょうか。
また、凸iを自己(自)、凹iを他者(他)としたり、凸iを意識、自我、凹iを無意識、無我としたりしてきましたので、ますます混迷を深めてきたようです。何とか巧く整理しないと収拾が付かなくなりそうです。
こういう場合は、renshi氏のテキストに戻ることです。 http://protophilosophy.noblog.net/blog/f/index.htmlから編集して引用しました。
差異(凸iと凹i)の共振(共役)とは、MP2(虚軸のMedia Point、ゼロ点)から+1へ現れる前のエネルギー的なダイナミックス(抱き合いのダンス)を表わしています。
一方、差異(凸iと凹i)の共立はMP1(実軸のMedia Point、ゼロ点)からから-1へ現れる前のエネルギー的なダイナミックス(絡み合いのダンス)を表わしています。
同じダンスでも、「抱き合い」と「縺れ合い」では大きな違いがあります。イメージ的に言えば、共振のダンスは、ブルースやタンゴやワルツであり、共立のダンスは、ルンバやマンボやジルバといったところでしょうか。
ただ、抱き合いの共振ダンスは、凸iと凹iの対称性が破れて、一人ダンスに変わることがあるようです。この三次元の世界が物質だけでできていて、反物質しかないという状況もそれに近いようです。また、ペアは組んでいるのですが、その回転が「脳神経は右ねじ方向に回転する」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100096757065で示したように、どうしたわけか偏ってしまうのです。
一方、縺れ合いの共立ダンスは、凸iと凹iの対称性が破れることはなく、一人ダンスに変わることがないようです。どんなに遠く離れていても、互いに時空を超えて、互いを意識して踊っているということがあるのです。
量子の世界では、このようなダンスを、量子テレポーターション(二つの凸と凹の電子が遠く離れていても、互いのステップが合っている、つまり勝手に踊ってはいないという意味)という現象が発見されています。この量子の縺れのことをエンタングルメントと呼んでいます。
三次元の世界でも、磁気のように、モノポ-ル(単極)がない、つまり、必ず、双極が現れて対称性が守られているというお行儀の良い現象があります。
多少の偏りはありますが、オスとメス同数であることや、私達がシンメトリックな形に美を感じるというのは、共立ダンスが関係しているのではないでしょうか。
これまで、即非は凸iと凹iの共振を意味していると述べてきましたが、共振=即非とすると、凸iと凹iとは、もともとが、iと-iの虚軸を構成する、相対立するイデアですから、軸自体が融合したり、転換したりすることありません。
ですから、凸iを自、凹iを他とすれば、自が他となるようなことは有り得ないわけです。
しかし、抱き合いのダンスを見ていると、相互に転化しているようにも見えますし、まして、一人ダンスになってしますと、相手がいないにあたかもいるかのようにしているのですから、外部から見ていると、おかしな格好なのですが、本人は、二人で踊っていると思い込んでいるので、それに気がついていないわけです。
このような状態になると、それが錯覚や幻想であっても、虚の自と他が、実では、自=他になっているということです。
こうなると、凸i凹i共振は、即非の本質が無化してしまったということになるでしょう。つまり、これが、凸iと凹iの対称性の破れということの意味なのです。
ですから、共振の結果は、
凸優位:凸iと凹i⇒+1(凸)・・・一人ダンス
凸凹バランス:凸iと凹i⇒+1(凸凹)
凹優位:凸iと凹i⇒+1(凹)・・・一人ダンス
という三つのパターンが考えられるわけです。
新しいPS理論は反共振、つまり、i*(-i)という状態を捨てましたので、それに変わって、凸i♯凹iという共立状態を提案されたのですが、これによってMP1における真の即非が解明されたと言えるでしょう。
その重要な特徴は、凸iと凹iの対称性は破れることはなく、一人ダンスに変わることがないということです。
ただ、抱き合いや縺れのダンスが何時までも続くわけではありません。共に、曲が終わればパートナーを解消するように、どこともなく消えてしまうのです。
量子力学ではこれを対消滅と呼んでいます。そして再び新たなパートナーを見つけて、対生成となって新しいダンスを踊るのですが、それが、抱き合いの共振のダンスなのか、縺れの共立のダンスなのかは曲(光)次第というわけです。
共振と共立のダンスについては、明確になったと思うのですが、まだまだ、解明しなければならないことが沢山あります。
それは、場という問題です。ダンスをしている場には、沢山のペアがいて、それぞれがそれぞれの思いで踊っています。
私達の三次元の場では、お互いが重ならないように、巧くステップを踏んで、互いに衝突を避けながら、狭い空間を共有して踊っているのですが、これがガウス平面という場になると、幽霊のパートナーが沢山出てくるのです。彼らは、互いに重なっても困らないといいますか、いくらでも重なるのであり、空間というイメージが違っているのです。ですから、ダンスの場は三次元の場とは変わっているのです。
この場とはMPであり、そこにはMP1からMP2の相互作用があり、虚との関係があり、それが共立や共振して-1や+1に分岐するという関係がありますが、それに加えて、フィ-ドバック(畳み込み)があります。
つまり、MPから±1、-1から+1、±1からMP、MP1→MP2、MP2→ MP1などの多様なダイナミックスがあるのです。
これらのメカニズムが解明されないといけないのです。
その一貫としてですが、何故、自我が+1に出てくるのかを解明しておきましょう。renshi氏http://protophilosophy.noblog.net/blog/f/index.html
の解釈によると、自己認識方程式、即ち、
凸i*を原自己、凹iを原他者とすると、
凸i*凹i⇒+1(自 己同一性:自我)
となります。
これは典型的な対称性の破れの例であり、一人ダンスの例なのです。
相手がいなくなっても、相手がいると思って、踊っているのです。つまり、自己の中の原他者と踊っているのです。
この状態が、+1(自己同一性:自我)ということになるでしょう。自己同一性とは他者を自己と同一視するということです。その意識の状態を自我と呼んでいるわけです。
言ってみれば、凹iの原他者が+1、つまり、自我となったのです。自我状態とは、「私は他人として生きる」とうことと同一なのです。
これを式で表わすと、
+1(自己同一性:自我)=凹i(原他者)
となるでしょう。
更に、言い換えれば、
凸i(原自己)*凹i(原他者)⇒+1(同一性)
となるでしょう。
ここで、+1は自己同一性(自己が自己になる)であり、他者同一性(自己が他者になる)だということです。
更に、自己が物質になるということも言えるでしょう。
自我が物質になるということのは分かりにくい表現かもしれませんが、簡単に言えば、私達が物質自体を見たり触ったりしていると思っているのですが、それは幻想であり、それは脳が、視覚や触角を通して生成したものなのだということです。
つまり、電子によって記号化された物質という概念でしか接していないということです。これが相手と踊っているつもりが、相手はいないということの意味なのです。相手の心はもうそこにはなく、いるのは肉体でありで物質なのです。しかも、記号としての物質なのです。
これはすでに、相手の心はつかめないと説明したことです。「失恋を受け入れられますか」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097186019を参照してください。
さて、こうしてみると、+1を実在と言ってきたのですが、正確に言うなら、それも概念だということです。非在を概念だといってきたのに、物質や自我も概念だということになると、+1と-1に配置した意味はどうなるのでしょうか。
これはこう考えてください。
ガウス平面は、心の内面だということです。私達は心がなければ、外界を認識できないわけです。それでも、外界があると信じるだけの状況がそろっています。
しかし、やはり、それは脳があってのことです。ですから、外界に物質があるというのは、そう思うからでああって、思えなければ、物質はないわけです。
それでも「ある」と言うでしょう。これはどちらが正しいとかいえない未解決の問題なのです。ですから、私達は対話することを余儀なくされているのです。「二つの世界」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100092667735
を参照してください。
四次元能では脳の中に能であるとして、外界が、客観的に存在するのは、すべ錯覚・妄想・幻想であるとして、これまで何度も繰り返してきたことです。
心で思った「物」は物自体ではないということです。それでも+1に物質世界を配置したことの意味は、それは幻想としての物質世界だということです。つまり、すべてはフィクションなのです。この世界にノンフィクションなどないのです。
ただ、それでは、小説と事実との区別がつかないし、現実と空想の区別が付かない精神病となってしまいますので、一応、+1を実在=事実としたのです。でもこれを、心と離れて存在すると思わないとう約束さえ守られれば、+1を実在とすることは良いと言うことです。
ですから、本当は実在も非在なのです。
しかし、それでは、-1の非在と区別ができませんから、フィクション思考は-1、フィクション小説は+1とするのです。これと同じように、物質に対する思考は-1、物質として概念化されたものは+1、内部の自己は-1、+1は外部化された自己を自我とするのです。
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