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from: 生成門さん
2010年09月17日 14時36分31秒
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哲学をガウス平面に配置する
哲学をガウス平面に配置する
<PSとの共振>
「主語論理と述語論理をPS理論で解明する」の続きです。
分極による二つの世界と対称性と対称性の破れによる三つの世界、合わせて、六つの世界が生成・形成されるとしました。
-1(凸i) +1(凸i)
-1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
-1(凹i) +1(凹i)
非在{-1・(凸i)・-1(凹i)・・・実在{-1(凸i)・-1・(凹i)}
更に、非在も実在も対称性を持っているが、それが破れて生成・形成されると言うことです。
哲学や芸術、宗教や倫理にも、これが当てはまると言うことです。具体的どう当てはまるのでしょうか。
非在(-1)・・・実在(+1)
芸術的思考の世界{ }・・・芸術の世界{ }
哲学的思考の世界{ }・・・哲学の世界{ }
宗教的思考の世界{ }・・・宗教の世界{ }
倫理的思考の世界{ }・・・倫理の世界{ }
としましたが、{ }は、非在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)と実在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)}という対応があります。これを個々に吟味していきましょう。
先ず、哲学に当てはめます。
凸i優位:原主語論理(S)による西洋哲学的思考
中間状態:曖昧論理による中間哲学的思考
凹i優位:原述語論理(P)による東洋哲学的思考
となるでしょう。主語論理と述語論理の簡単な定義はこちらを参照してください。
http://monroe.jugem.jp/?eid=349
以下、編集して引用しました。
主語論理(S):主語の同一性から結論を導くロジッです。ex)太郎は陰金だ。太郎は田虫だ。だから、陰金は田虫だ。
述語論理(P):述語の同一性から結論を導くロジックです。ex)太郎は日本人だ。次郎も日本人だ。だから、太郎は次郎だ。
―――
「場所の論理」と言えば、西田幾多郎ですが、それを紹介している「主語と述語・・・判断のメカニズム」が参考になるでしょう。http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida10.html
以下、編集して引用しました。
西田哲学の真髄は「述語的論理」が「場所の論理」であるということであり、主語は述語に依拠しているのです。
述語が<意識の野>に映し出されて自覚というものが生じ、述語が主語を包摂して判断というものが生じるのですから、述語というものが基本的に大事です。主語(主体)より述語(客体)を重視すべきなのです。
「われ思う、故にわれあり」ではなくて、「われ語る、故にわれありなのです。すべて何ものかとの「響き合い」です。「場所」であるのです。
―――
西田幾多郎の場所論を受け継いで発展させているのが、城戸雪照氏の場所論ですが、詳しくはこちらを参照してください。http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/107304/1/18804306_61_58.pdf
http://basho.image.coocan.jp/CCP007.html
「主語はない場所はある」も面白いでしょう。
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1169/1/18804314_57_08.pdf
一々、これらを紹介する余裕はないのですが、後に、量子力学の場とも関係してくるので、又取り上げると思います。
木戸氏は、場所論に基づいた場所の認識の枠組みを作ることを目論んでいるのですが、PS理論では既にそれをガウス平面として提供しています。
ガウス平面を認識の場と解釈すれば、それは既に完成されているのです。
分極による実在と非在の六つの場{+1(凸i)・+1・+1(凹i)}{-1(凸i)・-1・-1(凹i))、それに認識の発生する無の場、即ち、共立の場(MP1)と共役の場(MP2)、根源としての凸i、凹iを加えて10の場があります。
余談ですが、場を次元とすると10次元、これは超「ひも」理論の次元数と一致します。余り関係ないですが。。。。
さて、もろもろの認識をPS理論の場(ガウス平面)に適用しているのですが、その際、注意することがあります。
西洋哲学的思考を原主語論理(S)優位であり-1(凸i)、中間的な思考を-1、東洋哲学的思考(西田哲学)を原述語論理(P)優位であり-1(凸i)と配置したのですが、これは、MP1:S*P⇒-1の虚軸から実軸への分岐プロセスを示したということです。
この-1(哲学的な思考)は、非在の場の思考であり、内面の思考ですから、これが反転して、実在の場+1に出てこないと認知されないわけです。
認知とは記号化されて初めて可能となるものです。記号化されたものとは哲学の論文や議論のことです。これらは、すべて表現され、観察されたものです。これが、私達が哲学と呼ぶものです。
私達は日常生活に於いては、余り、というか、殆ど、非在の場と実在の場を区別していないのです。区別しなくても、何も生活には何も困らないのですが、一旦、精神的に挫折をして、その窮地から脱出しなければならならない様な状況に追い込まれると、この区別が必要になってくるのです。
もう一つ注意することは、実在の場+1に出てくるルートが、もう一つあるということです。それはMP2:S*P⇒+1の共役プロセスであり、これによって+1に出てくる哲学もあるわけです。この哲学と反転して出てきた哲学とを区別しなければなりません。
つまり、MP2⇒+1の哲学とMP1⇒-1から反転した哲学とが同時にあるわけです。これをどのように考えるのかという問題があるのです。
今はこう考えておきます。
MP2⇒+1の哲学は、既成の観念による自我で認知される哲学です。
一方、-1から反転した+1の哲学は出来立てほやほやの哲学です。日常の生活で考えればもっと分かりやすいかもしれません。日常とは伝統的な習慣や仕来た、前例、固定観念といった常識があり、それに従っています。例えば、ドアを開けるときに、いちいち、右回りに回すか左に回すかなどを考えてはまわしていません。
何故そうするのかを、考えなくてもちゃんとやっていけるのです。そのようにすることが、波風が立たなくて、しかも、効率的なのです。このような効率性や快適さを与える仕組みが人間には備わっているということです。それがMP2プロセスなのです。
ところが、そのようなやり方が通用しないときがあります。そのときこそが思考の出番なのです。
そのような時とは、旧態依然としてやり方と革新的な力とがせめぎあうことになるでしょう。これは個人の心の中の出来事です。それが集団的な鬩ぎ合いになっていくのですが、次第に政治的な闘争となり、時には喧嘩や戦争になっていくのです。
哲学のことで言えば、個人の心の中のでも、常に、唯物論か唯心論か、実在論か非実在論かなどの鬩ぎ合いがあるでしょう。それが哲学者同士の鬩ぎ合いになって哲学的な論争となり、現在に至っているのです。
つまり、+1では二つの哲学が絶えず鬩ぎ合っているのです。個人の場合、このような心理的な鬩ぎ合いは、どのように決着が付くのでしょうか。
その様子を見ていきましょう。
ガウス平面は、様々な場が関連して多重に重なっています。人間にとって基底となるのは自己のガウス平面でしょう。そして、その+1には自己が外部化した自我があるとします。
この自我とは、MP2⇒+1のプロセス、つまり、凸i*凹i⇒+1(自己同一性:自我)で形成された自我ですから、MP2⇒+1から反転して出てきた哲学を同一視してしまいます。
つまり、-1の凹iの優位の哲学的思考-1(凹i)が+1に反転してきた哲学を否定するのです。
逆に-1から反転してきた凸i優位の哲学はMP1から出てきた既成の凸i哲学と同一視されますので、大歓迎され、むしろ、自我を強化するために利用されるのです。
こうしてMP2の哲学が自我とともに形成され、それが、+1→MP1プロセスによってMP2に蓄積されるのです。
これによって、何故、自我が保守的であり、革新的なものを否定・隠蔽・排除するかという一般的な心理プロセスを解明したことになるでしょう。
凸i優位とは、どんな場合でも、主語論理ですから自我を強化します。ですから、それは自我に付くとは、固定観念に縛られるという意味であり、主語論理の特徴であるピラミッド志向による官僚思考(-1)となって、それが反転して、主語論理の言動となって、つまり、保守的な態度として+1に表れるのです。これが心理と行動の関係なのです。
纏めると、
1> MP2:⇒+1
凸i優位の場合:原主語論理(S)*原述語論理(P)⇒自我の哲学(の形成)ですが、長いので省略して、S⇒自我の哲学とします。以下同様です。
凹i優位の場合:P⇒無我の哲学
2>MP1⇒-1
凸i優位の場合:原主語論理による哲学的思考♯原述語論理による哲学的思考⇒西洋哲学的思考、長いので省略して、S⇒西洋哲学の思考とします。以下同様です。
凹i優位の場合:P⇒東洋哲学の思考
3>-1から+1への反転
どのように反転するのかの詳しいメカニズムは分かっていません。Renshi氏のブログhttp://protophilosophy.noblog.net/blog/f/index.htmlにそのヒントがあると思います。まだ、それがどれであるのかを確認できていませんので省略します。
いずれにしても、-1のS⇒西洋哲学の思考-1(凸i)が+1に言語化されて西洋哲学(凸i)となり、-1のP⇒東洋哲学の思考(凹i)が+1に言語化されて東洋哲学(凹i)となり、そのどちらかが自我に選好されるということです。
-1のS⇒中間哲学の思考が+1に言語化されて中間哲学になるということがあるのかどうかはこれからの検討とします。
先にあげた城戸氏の場所の哲学は、主語と述語論理を統合するということ言っていますので、中間哲学を目指しているのかもしれません。
-1とは共立の形であり、対称性が破れていないということですから、中間哲学というよりは、即非の哲学とも言えるかもしれません。
いずれにしても、それが言語化されるとどうなるのでしょうか。西田幾多郎の呪文(絶対矛盾的自己同一)のような表現になるのでしょうか。それとも禅問答のようなことになるのでしょうか。
4>+1での交錯(鬩ぎ合い)
MP2で凸i優位の場合:MP1由来の西洋哲学の方が受容され、東洋哲学は無視・否定・排除される。
MP2で凹i優位の場合:MP1由来の西洋哲学が無視・否定・排除され、東洋哲学が受容される。
この後で、他のカテゴリーについて吟味をしますが、MPプロセスは同じなので省略して共立の場合だけを示します。
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