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from: 生成門さん
2010年09月17日 19時28分47秒
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数学はイデアを必要としない
数学はイデアを必要としない
<PSとの共振>
ここまでの主語論理と述語論理と、それぞれの対称性の対応について、纏めておきます。
1:非在も実在も対称性を持っている。
2:そして、その対称性が破れる。
3:MP1とMP2の交錯がある。
4:MP2で自我優位なら、MP1からの反転したもの、凸i優位(例えば質点量子力学)が受け入れられる。
5:人間の場合は、MP作用は複雑である。
6:MP1⇒-1を経由しないMP1⇒+1もありうる。
7:MP2では自我優位の反動がおきることがある。その場合、MP1からの反転したもの、凹i優位(例えば場の量子力学)が受け入れられる。
8:大概、7:のケースは破綻する。
ここまでは、非在と実在の対称性の対応と交錯などは比較的容易に整理できましたが、これと同じように数学にも展開できるのでしょうか。
数学というのは曲者なのです。
分極による二つの世界と対称性と対称性の破れによる三つの世界、合わせて、六つの世界が生成形成されると言いましたので、ここから始めます。
-1(凸i) +1(凸i)
-1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
-1(凹i) +1(凹i)
以下、非在{-1(凸i)・-1・-1(凸i)、実在{+1(凸i)・+1・+(凸i)}を{ }とします。
-1・・・・・・・・・・+1
想像世界{ }・・・記号世界{ }
-1で思考されたものは想像したものであり、非言語的なイメージや直観の位置です。それを言語や記号で表現した物や観測された物であり、表現された物は+1、記号の世界であり、+1の位置です。
これを数学に適用すると、
-1 ・・・ +1
数学的思考の世界{ }・・・数学の世界{ }
数学的思考とは思考されたものであり、非言語的イメージや直観のことです。それを言語や記号で表現した物が数学の世界です。
更に、{ }の中を吟味して見ましょう。
凸i優位:主語論理による数学(ユークリッド幾何学、微分積分?)
中間状態:曖昧論理による中間数学
凹i優位:述語論理による数学(非ユークリッド幾何学、経路積分?)
うーん、これには無理がありそうです。何故でしょうか。
数学的な思考というのは傾斜を受けないのではないでしょうか。量子力学に使われる数学は光子の反光子が光子であるように、その区別がつかないのではないでしょうか。中性として+1に出てくるのではにでしょうか。
言い換えれば、数学的な思考は、凸iと凹iの中間態として、つまり、対称性が破れないまま-1に現れるのではないでしょうか。しかし、+1に反転するときに自我との交錯作用によって、対称性が破れてしまうのではないでしょうか。
それは、+1に現れた数学が道具化しているということと関係すると思うのです。「数学は非在でありながら実在を支える」
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097185234でも述べましたが、
ですから、数学というのは思考の媒体(道具)であり、思考そのものではないと思うのです。又、科学そのものではないと思うのです。
しかし、数学は科学の厳密性を保証するのはなくてならないものです。科学的に思考するためには数学的に思考しなければならないのです。数学的に思考するためには、数学という道具が必要なのです。
道具とは物ですから+1の実在であり、記号です。数学的思考とは-1の非在であり、他の思考と同じ位置にあります。
数学は、他の思考と同じように対称性があるわけですから、凸i優位の数学的思考、凹i優位の数学的思考があってもよいのですが、どういうわけか傾斜が見られないのです。
ですから、ユークリッド幾何学を凸i優位として、非ユークリッド幾何学を凹i優位とするのは無理があると思うのです。
数学には果して傾斜があるのかないのかをもう少し別の観点から吟味してみましょう。
数学は、極論すると演算と演算対象(実体)と等号・不等号などからできていると看做せます。
3+1=4というのは、3という実体と1という実体を加える(演算)して、それを4という実体と同一視するという意味を持っています。この同一視は主語の同一視とも解釈できますし、述語の同一視とも解釈できるからです。
述語の同一視と解釈してみましょう。左辺の実体の数と右辺の実体の数を、実体の属性を述語と看做せば、数が同じということで、左辺と右辺を=で結び付けているのです。これなら立派な述語論理です。
一方、右辺の4は3と1から構成されていると解釈すれば、4という実体があり、それが3と1であるという思考ですから、主語が先に来るわけです。これなら立派な主語論理です。
言いたいとは、解釈者によって数学の意味が変わるということです。これは数学が道具と解釈したことからも言えることであり、道具自体に意味があるわけではありません。
喩えはよくありませんが、馬鹿も鋏も使いようというように、一般に道具は中性なのです。ですから、絵の具は西洋的な絵画にも東洋的な絵画にも使われるように、絵の具自体に東洋的な思考をもっているとか、西洋的な思考を持った道具とは言えないのです。
そうすると、数学は初めから、つまり、-1に於いても中間(中性)ということになるのでしょう。
これによって修正すると、
凸i優位:なし
中間状態:思考的に中間にある純粋の数学
凹i優位:なし
となるのではないでしょうか。
つまり、古典科学を支える数学と新しい科学を支える数学という区別はあるでしょうが、それが主語論理と述語論理によって、傾斜を受けないということです。
これはどういうことなのでしょうか。数学は、イデアの支配を受けないということなのでしょうか。数学はイデアを必要としていないということなのでしょうか。
ここまで来たところで、大変に刺激的な海舌氏の投稿がありました。「イデア界にイデアはない」というのです。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811666
私も思っていたことですが、これですっきりしたように思います。
つまり、あらゆる現象の背景に個別のイデアが付きまとっていたら、イデアの世界は混乱するのではないかと思っていたからです。なんでもイデアでは困ってしまうからです。
結局のところ、イデアの世界にはキングオブイデアだけがあれば良いと思うのです。
そこから、派生してMPにイデアの子供や孫があればよいのではないかと思うのです。
では、キングオブイデアとは何かということですが、それが対称性というものです。つまり、凸i凹i(陰陽のイデア)です。
この海舌氏の発想はもう少し検討してみたいと思います。
いずれにしても、イデアの支配を受けないのが数学であるなら、数学はいつも非在の-1では中立であるということで理解しやすくなります。
+1でも中立な道具として位置していますが、それを使う人が現れると、主語論理に取り込まれた数学と述語論理に取り込まれた数学になるということです。
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