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  • from: 生成門さん

    2010年09月19日 19時49分44秒

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    ファインマンと華厳構造

    ファインマンと華厳構造
    <PSとの共振>

    古典科学を支える数学と新しい科学を支える数学という区別はあるでしょうが、それが主語論理と述語論理による傾斜は受けないということを言いました。

    これが海舌氏の「イデア界にイデアはない」http://blog.kaisetsu.org/?eid=811666
    ということどう関係するのでしょうか。

    海舌氏の主張を私なりに解釈すると、現象ごとのイデアはイデア界にはないが、イデア界にあるイデアはキングオブイデア(陰陽イデア=凸i凹i)があり、個別のイデアはMPにあるということになるのではないでしょうか。

    個別のイデアとはイメージやビジョンであり、それが数学的思考を支配しているというわけですから、すべてはMPの支配下にあるということになります。

    これでは、キングオブイデアからイデア切り離して鞍替えしただけですから、これまでの話には影響してきません。

    つまり、述語や主語論理思考がイデア由来ではなく、MP由来としても、数学がいつも非在の-1で中立であるということの担保はできないことです。やはり、数学にも傾斜が起きるのではないのかという疑念がどうしても出てきてしまいます。

    今、私は心の中(-1)で揺らい(凸iや凹i)でいるのです。それを投稿という形(+1)で表現したのが、前回の「数学はイデアを必要としない」+1(凸i)であり、今回は「ファインマンと華厳構造」-1(凹i)となって現れています。

    今回の「ファインマンと華厳構造」を-1(凹i)としたのは、まだ投稿していないからであり、私自身がこれを頭の中でどうするかを思案しているからです。

    でも、このラインを過ぎたら、もう、+1に位置づけるべきでしょう。何故なら、私自身によって、もう確定し、決心し、認識されたのですから。


    このように、心の中(-1)で揺らいでいるというのは、はっきりと-1(凸i)や-1(凹i)に振動している場合もあれば、+1の出てきたと思ったら、又引っ込むときもあったりして、心の中では、複雑な動きをしているでしょう。

    -1と+1、-1の凸iと凹iの間で、小さく振動しているのです。その振動は私自身さえ自覚できていないとこともあるでしょう。

    振動しているのですから、どっちが正しいかという問題ではないのです。振動(揺らぎ)していることが重要なことなのです。

    これを数学に当てはめてみると、数学的思考も振動しているのはないかということです。

    数学がただの道具なら、+1では中立に位置しており、それを使う人が現れたときに主語論理に取り込まれた数学と述語論理に取り込まれた数学のどちらかになるということが前回の主張でした。

    つまり、数学的思考はいつも非在の-1では中立であり、+1でも中立な道具として位置していて、それを使う人が現れると、主語論理に取り込まれた数学と述語論理に取り込まれた数学になるということを主張したのです。

    それが今度は、その反対のことを言おうとしているのです。

    何故、私が揺らいでいるのかと言いますと、場の量子力学では普通の科学が考えてきたのとはかなり違った状況が生まれてきているからなのです。ですから、そこで使われる数学も違ったものになるのではないかという疑念が生じてしまったのです。

    求められる道具が違うなら、数学的要件も違ってくるでしょう。再度、数学は本当に対称性が破れていないのかを確認したいと思うのです。言い換えれば、場の量子力学に求められている数学は中性の数学ではなく、初めから述語的な特性を持った数学ではないのかという疑念が湧いてきたのです。

    そこで、それらしき数学を取り上げてみたいと思うのです。検討するのは、「現代物理と仏教を考えるページ」を主催している岸氏の「ファインマンの経路積分」です。
    http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page010.html
    以下、編集して引用しました。

    のっけから難しい「ファインマンの経路積分」の勉強からです。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E8%B7%AF%E7%A9%8D%E5%88%86

    以下、編集して引用しました。



    上の図は、帝釈天の世界には帝網(たいもう=インドラネット)をイメージしてファインマンの経路積分を説明するために、新しいインターネットの仕組みを仮想するために引用します。

    このインターネットでは、P2P、即ち、ピアツーピア(一対一)という方法で、サーバーAからクライアントBに情報を送る方式です。

    旧来のインターネットでは、送るルートはいくつもがありますが、一旦接続が決まると固定されます。また、途中で接続ができなくなると迂回したりしますが、一度に送る情報は一つの回線でしか伝わりません。映像と音声を別々のルートで送るということはないということです。

    しかし、この新しいインターネットでは、一つの情報を分割して、多くの回線(ルート)を使ってクライアントに届くようになっています。しかし、多くの回線(ルート)を使うからといって、同時に送り出した情報は、同時に到着しなければなりません。そうしないと画像が乱れてしまい醜くなるどころか、形を成さなくなるでしょう。

    このインターネットでは、同じ時刻に到着するために、最短で届くルートが選択されます。しかも、到着しても、まだ、他の情報が来ていなければバッファされて待機します。つまり、自動的に同期が計られるのです。

    これなら全ての情報は同時に着くことができ、しかも、送る前の情報と同じ状態でクライアントに届くでしょう。当然、他のクライアントとの間で混線がおきないように識別されてコントロールされているのです。

    これが私達の未来のインターネットの仕組みです。

    さて、これと同じことをミクロな量子の世界でもできるでしょうか。

    量子の世界では、電線がありませんから、電線を伝わる電子のようにお行儀が良い粒子は一つとしていません。皆、空間を自由に飛び回るのです。ですから、あらかじめルートを決めることができません。

    そこで、量子の世界ではインターネットの世界とは異なる方法で伝送するルールを定めることにします。それが無限定P2Pという方法です。

    無限定とは、電線がないのですから、つまり、無線ですから始点Aと終点Bを結ぶどのルートを走ってもよいことにします。つまり、ルートは無数にあるということになります。これが無限定の意味です。

    それら無数のルートの内、粒子がそれぞれ走った結果、同時に付くことだけが条件とします。

    ファインマンは、この方法を具体的にできる方法を見つけたのです。

    ファインマンの場合は、情報伝達ではなく、エネルギーの伝達方法です。それを数学的に計算する方法を示したのです

    つまり、どういうことかと良いますと、無数のルートを無数の粒子がエネルギーを運ぶとして、その全エネルギーを求める式を発明したのです。

    インターネットの例でいうなら、情報をエネルギーとすれば、同じモデルとなるでしょう。つまり、無限定P2Pで、クラアントのパソコンに完全な画像を再現できたということは、エネルギーが完全に伝達したことを意味するということです。

    このような計算方法をファインマンは経路積分といったのですが、ここではインターネットモデルを使って無限定P2Pとしていきます。

    この経路積分=無限定P2Pには「包み込み」という概念が使われており、これがファインマンの経路積分が場の理論と言われる由来です。

    何故、これが場の理論と言われるのでしょうか。

    ファインマンの経路積分は述語的数学と言えるのでしょうか。

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