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from: 生成門さん
2010年10月05日 13時25分41秒
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自我はゾンビのように
自我はゾンビのように生き伸びる
<PSとの共振>
上の図は擬装空洞http://t-walker.jp/eb/entry/から引用しました。
「自我は偽装する」の続きです。
偽装とは弱い自己が生きるための戦略ですから、敵と同化することになり、我慢しなければなりません。我慢すれば日本のように和洋折衷と言う形で自我を取り戻すことも出来るのです。
しかし、自我を取り戻す途中では惨めでもあり、悲しいことも起きてしまうのです。戦争で負けた日本は日米同盟という外交交渉の内実を隠す必要が生じて、政府が国民に嘘をつかなければならなくなったようなことが起きるのです。
質点の量子力学の場合でも同じことが起きているのです。
場の量子力学を取り入れたことで、場から粒子がいくらでも取り出すことができるので、なんとか、プライドを捨てなくて済んだのですが、待っていたのは不確定性と言うお化けの出現でした。
このお化けをどう解釈するかで混迷しているのですが、どう乗り切っていくのでしょうか。
それはともかくとして、場の理論を取り込んだことで、少なくとも、質点=粒子という実体=自我を捨てなくてよくなったのです。ただ、どう見ても、それは辻褄を合わせるようなやり方でしかありません。それがどう出るかは誰にも分かっていないのではないでしょうか。
偽装戦略が問題であることは分かっているのですが、それでも日本の資本主義はここまで生き延びてきています。
その具体的な方法はすべての異端な出来事を取り込んでしまうことです。
量子力学的な言い方をすれば場を量子化するということです。異端な出来事とは場の出来事ですが、それをパックするのです。
パックするとは商品化するということです。例えば、常識では受け入れられないような破廉恥なことを面白、おかしく演出してエンターテイメントとしてお茶の間(場)でも見られるようにすることです。
ファッションなどの流行などは、それを日常的な作業として行っているのです。
言い換えれば、異端的な出来事を記号化(商品化=量子化)して、流通させ、消費させるのです。
つまり、自己(自我)を他者(商品)に同化する方向に向わせるのです。PRというのがその手段であり、それによって資本主義は自己(自我)の同一性を維持、つまり、自己を延命しているのです。
資本主義はいまだに生き延びていますが、質点重視の量子力学は果して生き延びることができるのでしょうか。
質点(粒子)重視の量子力学は自我優位の科学であり、実体=実存を基礎とする西洋の哲学の結果であると言えるですが、その本質は敵を飲み込んでしまう偽装同化の戦略なのです。
ですから、傍目には質点(粒子)の量子力学{+1(凸i)}が、あたかも、場の量子力学{+1(凹i)}のように見えてしまうのです。
自我優位の科学{+1(凸i)}は主語論理{-1(凸i)}由来であり、必然的に実体=粒子性{+1(凸i)}を重視することになり、場優位の科学{+1(凹i)}とは波動性を重視であり、必然的に述語論理{-1(凹i)}由来なのです。
ですから、自我優位の科学が場優位を偽装して取り込んでも、自己の内部のどこかに矛盾が生じてしまい、それを一時的に繰り越しても、いずれ、どこかで、ぼろが出てくるのです。
他者同一化(他に同化する)の構造:一見、無我優位に見える
-1(凸i)・・・→・・・+1(凸i):自我=主語優位
(取り込まれる)↑
-1(凹i)・・・→・・・+1(凹i):無我=述語優位
その一端がコペンハーゲンの解釈(波が粒子になる)であり、どうのようにして波が突然に収束するのかということの巧い説明が出来ないでいるのです。
戦争、人生、科学などの現場は戦いですから、どうしても敗北という経験をせざるをえません。敗北を認めるということは、反省しなければならないということです。
反省とは、自己の過ちを認めるということであり、自己否定するということです。プロ野球で負けたチームの監督が交代するというのは自己否定の現れなのです。
プロでは負けたら監督が交代するわけですが、個人でも同じことが言えます。反省するということは、過去の自己を捨てて、新しく生まれ変わるということですから、自己を否定することから始まるのです。
自己を革新するということは、自己を否定して、新しい自己を再生するということです。しかし、その場合に、自己=自我を捨てることまではしないのです。
表面的には、自己を捨てる=自我否定ですが、真に自我を否定するのではなく、自我否定の偽装という選択をするのです。つまり、社会的な場に合わせた自己、つまり、他者という仮面を被るのです。仮面の下には、依然として強固で頑固な自我が隠れているのです。
決して、本当に無我となるのではなく偽善的に振舞っているだけなのです。多くの人のとって、真に自我を捨てて、無我を選択することなどできないのです。
自我を捨てた振りをして再生の機会を狙うのが普通なのではないでしょうか。現代社会では無我になるということは、社会的な生活を捨てるということを意味するのですから、言ってみれば、アウトサイダー、仙人、異端児になるということに等しいのです。
そんなことはできないので仮面を被ってでも再チャレンジと言いますか、自己革新をして新しく装った自我を持ってチャレンジするわけです。それは資本主義の良いところでもあります
しかし、そこには偽装による自我の隠蔽があるのです。つまり、他者と見せ掛けの同化をすることによって、最終的に自己の同一性を維持するという隠された意図、前提があるのです。
結局は、自我は自己を維持することを止めることはないでしょう。どんなに主語論理が追い込まれても自我の同一性は捨てないのです。
そのやり方は実に巧妙なのです。
先ず、自我は自己の優位を一時的に留保しても、自己の中に敵=凹iを取り込むのです。「毒を、喰らわば皿までも」の心境で自我を隠蔽するのです。
このような姑息な手段では破綻するのが見えているのですが、それをわかっていても止めないのは、主語論理を否定することは自己=自我の敗北を認めることになるからです。
敗北を認めるくらいなら自我を隠して生き伸びる方が良いということでしょう。まさに、臥薪嘗胆(再生の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えると)です。
要するに、人間はMP2共役の要請として自我同一性という悲しい性を持っているのであり、自我の延命を図かることが求められているのです。
その典型が資本主義グローバリズムであり、その結果が気候変動問題なのです。
MP2の隠れたミッションがあるとすれば、資本主義の現象(+1)のように自我否定の偽装という一時凌ぎの戦略によって、自我を保存し、ともかくも生き伸びるということです。-1(凹i)を取り込んで、+1(凸i)とすることです。
MP2の隠れたミッションとは、ゾンビのように死んでも無限に生き返えらせることであり、あらゆるものを飲み込んで自我という自己を肥大させることにあるのです。
ゾンビ(自我肥大化)の法則
無我意識:-1(凹i)⇒+1(凸i):自我
他=異端的出来事:-1(凹i)⇒+1(凸i):自我の世界=商品化=資本主義
場の科学:-1(凹i)⇒+1(凸i):質点の科学
自己を肥大させるのは、資本主義の現象(+1)と自我(+1)とが同じ位置にある事に依存している戦略です。
MP2作用は、共役がメインのように思えますが、実はもっと多様性に富んでいるのです。MP1共立による主語論理の思考(-1)からの反転という作用もあり、それが+1で交錯するという作用もあります。
しかし、これらは、まだ、スタンダードな戦略でしかないのです。それに加えてバラエテーな戦略があるのです。それが偽装の戦略なのです。
偽装の戦略とは自我が形勢不利となっても+1(凹i)を取り込んで再生するやり方です。偽装と並んで、似ているのが偽善・擬態・欺瞞・詐欺・詐取といったやりかたです。これらも自己を他者と見せかけて、だます方法ですから、自他同一化(自己を他者に同化させる)の延長にあるものでしょう。
では、仮想はどうでしょうか。インターネットを仮想空間などと言いますが、そこにあるショップは確かに仮想ではあります。自己の本来のショップがあるのですが、それとは別に自己と見せかけて仮のショップを設定して顧客を呼ぶのですから、他者と同化させています。良い悪いは別して、これも偽装と言うことになるでしょう。
仮面を被るという場合も、同じことが言えるでしょう。では、化粧するということはどうでしょうか。これも他者になるということですから偽装です。
仮面や化粧の偽装などはまだ可愛いと言いますか、必要な偽装でしょうが、偽善・欺瞞・詐欺・詐取となると事件ですから、放っては置けないことになるわけですが、それでもまだ、解決できないわけではありません。
しかし、地球を舞台にして大掛かりな偽装となると、放っては置けません。
それが資本現象です。
資本主義における偽装が何時まで続くかは分かりませんが、その弊害が気候変動ですから、何とかしなければならないのです。
気候変動は、自我の偽装が招いたことですが、誰もそうは思っていないことが重要なのです。しかも、じわじわと忍び寄る危機は、恐らくは、後十数年で後に戻れない状況となるでしょう。もう後に戻れないところまで来ているのかも知れません。私達は時限付きで生きていることを知るべきなのです。
偽装反対ではなく、偽装解除、自我の暴走反対ではなく、自我解体のときがきているのです。
自我解体と言って見たのですが、これが難題なのです。実際、偽装が破綻することを指摘することは簡単です。それは、戦後の日本の置かれた現在の状況を見れば明らかかです。
現に起きつつある偽装が破綻すると理解できたとしても、それを受け入れるのは容易ではありません。気候変動がいくら危機だといっても、誰も聞く耳は持たないでしょう。「禁断の実」を食べてしまった自我人間に、明日から突然に欲望を捨てろと言ったところで、どうなるものではありません。
何故、人間は偽装してでも、自我の肥大化を選択するのでしょうか。それはエネルギーの補給と関係しているでしょう。
すべてのエネルギー源はイデアです。イデアからMPを介して+1に現れるのです。普段はMP2からのエネルギー供給でもよいのですが、自己否定しなければならなくなったときにはMP2のルートが遮断されてしまいます。
残されたルートは、MP1→-1(凸i)→+1(凸i)→+1(凸i)の自我優位のルート(1)か、もしくは、MP1→-1(凹i)→+1(凹i)→+1(凸i)の無我優位の偽装ルート(2)か、MP1→-1(凹i)→+1(凹i)の真正の無我優位ルート(3)しかないわけです。
ルート(1)は自我肯定、ルート(3)は無我肯定ですから今は使えません。残るのは、ルート(3)だけです。こうして、ともかくも生きるエネルギーだけは確保できるのです。
「越」のように、どのように苦しくても我慢すれば、再び自己=自我を取り戻すことができるのです。これが偽装の必要な理由いうことになるでしょう。
では、自我の偽装戦略とは、具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。
自我の偽装戦略とは、凸i優位の主語論理を根源とする自我が、自己を否定して、凹i優位の述語論理(-1)を取り入れて、+1(凹i=無我を主とする見せかけることです。
偽装することを呉越同舟と表現したのですが、越が呉に負けた悔しさを賞嘆して、いずれは、本来の越の姿、つまり、自我+1(凸i)を奪回することを狙っていることを意味しているのです。
これが自我の偽装戦略です。
このような自我の偽装戦略は、量子力学や資本主義に限らず、人間の社会なら何時でもどこでも見られ現象です。
四次元能のシムハンターは、偽装を見破るだけで満足してはならないのです。それを如何にして自我の解体に結びつけるかというところまでいかなければなりません。
そのための武器として場所の論理が登場してくるのです。場所の論理とは述語の論理であり、述語の哲学なのです。哲学などの難しい説明は、ここではしません。
できるだけ、平易に行きたいと思っています。述語の哲学=場所の哲学と言えば、「絶対自己矛盾的自己同一性」を説いた西田幾多郎です。なんだか、呪いのような言葉ですが、ここにPS理論の真髄があるのです。
述語の哲学=場所の哲学を述語的な生き方・考え方と考え、「場所に限定されて生きる」と言い換えれば分かり易いでしょう。
政治家になるには、俗に3つのバン、すなはち、ジバン(地盤=地元の支援組織、地縁血縁など)・カンバン(看板=知名度や実績)・カバン(鞄=選挙資金)が必要だと言われますが、それはまさに場に限定されるというということの端的な現れです。
政治に求められるのはまさに場所の哲学なのです。元参議院の岩井氏は、これからの政治化には、哲学が必要だとして「場所の重要性」http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida1.htmlを説いています。
以下、編集して引用しました。
田邊元は西田哲学「場所の論理」を静的直感として批判したが、私は、「場所の概念」というものは、或いは「場所」というものは、誠に大事であると感じています。
和辻哲学は、ハイデガー哲学「時間性にもとづく人間把握」に対抗して、「場所性にもとづく人間把握」として誕生し、それ以来「風土」の概念が定着しました。
私は、人間というものを理解する上で、民族というものを理解する上で、或いは文化というものを理解する上で、「場所」とか「風土」というものが何よりも大切であると考えています。
この場合、人びとにとって、実際的には、その場所を理解するといっても容易ではなく、何はともあれそこに行くこと、そこで楽しむこと、そこで実際に人々や歴史や自然と響き合うことである。私が旅を薦め、そして「劇場国家にっぽん」を提唱する所以である。・・・・・』
―――
場所の論理が自我の偽装のために使われて、政治がカバン優位となってしまうことは、これまでの政治を見ても明らかなことなのです。
ゾンビ(自我肥大化)の法則:自我の偽装戦略
無我:-1(凹i)⇒+1(凸i):自我
他=異端的出来事:-1(凹i)⇒+1(凸i):自我の世界=商品化=資本主義
政治の場:-1(凹i)⇒+1(凸i):政治の世界(ジバン・カンバン・カバン)
私達は、如何に、自我の偽装を見破るか、そして、真に場所に限定されて生きるとはどういうことなのかを探求しなければならなおのです。
場所に限定されて生きる生き方の典型的が昆虫でしょう。もちろん、あらゆる生き物はすべて、「場所に限定されて」生きているのですから昆虫だけが特別ということはないのですが、その昆虫の中に擬態と言う生き方をするカマキリがいます。
人間の偽装と昆虫の擬態とはどのように違うのかを比較して見ましょう。昆虫に見られる「擬態」という戦略は、偽装の戦略なのでしょうか。
擬態とは、自己に姿を他の生物に似せたり、周囲の色と同じ色にして、自己の姿を隠す、つまり、他と同化してしまうということです。
このことを一般化して表現すれば、自己を否定して場(環境)と一体化するということになるでしょう。
つまり、自我=自己を否定して、他と一体(同一化)となるということです。通常は、自我を肯定して、他と一体(同一化)となるので、自我の戦略なのですが、これは他を主体と見せかける反動、すなわち、擬態・偽装、トリックという戦略なのです。これが擬態の戦略であり、自他同一化の戦略なのです。
ここまでは、擬態は偽装と同じ意味です。
では、昆虫に見られる「擬態」という戦略が資本主義の偽装戦略と同じなのでしょうか。
そこに違いはないのでしょうか。
昆虫の場合、擬態して他者になるというのは弱者として生きるためです。生きるために他者を欺いているのです。しかし、決して他者を支配するためではありません。
従って、環境(他者)を支配する必要がないのです。ですから、力を強大にする必要もないのです。自己を肥大化させる必要がないのです。
言い換えれば、昆虫の擬態はその場限りであり、場に強く限定されているのです。
また、昆虫は擬態エージェントを作らないいということです。つまり、自分の変わりになる仕組みを作らないということです。
人間は偽装エージェントをどんどん作って自我を肥大化させていきます。人間の場合の偽装エージェントとは、文化であり、資本主義であり、知的な道具です。偽装エージェントとはゾンビなのです。
つまり、昆虫の自己=自我はゾンビではないということです。昆虫の自我はゾンビのように死んでも、無限に生き返えるようなことをしないのです。つまり、自己=自我の肥大化や自己を延長するというような仕組みがないということです。
カマキリに代表される昆虫は正真正銘の「場に限定されて」生きる生き物であり、場の原則を守って、無我の戦略を実践している生き物なのです。
言い換えれば、凹i優位の+1の述語的無我の生物であり、西田幾多郎の言うところの絶対的に自己矛盾のまま自己同一性を守って生きている即非の生物だということです。
昆虫の擬態の法則:無我の戦略
無我意識:-1(凹i)⇒+1(凹i):無我
他=異端的出来事:-1(凹i)⇒+1(凹i):直観の世界=場所限定の世界
生きる場:-1(凹i)⇒+1(凹i):擬態
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