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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年10月21日 14時49分19秒

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    「俺流」というモード

    「俺流」というモード
    <PSとの共振>

    流儀こそモードに相応しいと言いました。何故ならそこに意図が隠れているからです。意図があるということは、方向を指し示しているということです。つまり、意図とはベクトルなのです。こうしてベクトルとモードが交差するのです。

    そこで、流儀をモードとすると直ぐに思いつくのは「俺流」です。「俺流にやり方で、優勝する」と大言壮語して、その通り優勝したのが中日の落合監督です。今年もリーグ優勝しましたし、これからCSシリーズ(昨日20日は4対0で勝ちました。)、日本シリーズとなりますが、さてどうなるでしょうか。

    落合監督の「俺流」というのは、当事の打撃の天才と言われた山内打法というのがあって、彼に指導を受けて取り入れようとしたのですが、ボールが前に飛ばないので、持ち前の柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに自己流で改造したことがオレ流と呼ばれる所以だそうです。

    要するに、落合監督は自己流だったということです。そのような「俺」を通す主義は監督になってからも変わっていないようです。

    野村克也氏が侍ジャパンの監督に彼を推したことがありますが、「俺」をあまり前面に出さない日本では「変わり者」という評判でしたので、大反対されて、実現しなかったのですが、そのときの反対の理由が「型破りな思考」だったとされています。

    野村克也氏と落合監督には互いに元パ・リーグ三冠王であり、非凡な二人には通じるものがあったのかもしれません。

    「俺」をあまり前面に出さない日本人の偽装自我社会の中で、一人、自己を前面に出す俺流を貫く落合監督ですが、この俺流は、日本人の自我や西洋の近代的自我と同じなのでしょうか。

    似ているようですが、全く違うのです。同じなら自我というでしょう。自我と言わないで自己と言っているのには理由があるのです。それを解明できるのがPS理論の力なのです。

    それは落合流とは「型破りな思考」だということです。どう型破りかと言いますと、組織に従わない、個人主義、一匹狼なのです。どう見ても日本人的ではないからです。でも日本人なのです。

    変人ベクトルだということです。この変人ベクトル=精神が自我とは言わない自己を持っていると言っておきましょう。

    さて、落合俺流モードの背後には型破り思考=自我ではない自己があることと言いました。そう言えば、ファッションのモード系も型破り、iモードも、モードジャズも型破りモードでした。モードというのは型破りなのでしょうか。

    モード=型破りとするのは無理があるようです。制度としての流儀の定義では、その芸系の同一性であり、それを維持することであるであるとしています。

    ファッションのモード系に対して、コンサバ系が存在していましたし、ジャズに対してはクラッシクがあります。ジャズをアドリブの音楽とすると、クラッシクは自己同一性の音楽です。

    このようにして見るとモードは流儀であり、イデア由来の対称性(+1凸iと1+凹i)があるということではないでしょうか。

    モードとは、本来の意味は様式なのですから、先進的で革新的なスタイルもあれば、保守的なスタイルもあるでしょう。

    モードの対称性から言っても、MP段階では即非ですから、現象面でも中性として現れてもおかしくないのです。ただ、現象化するときは、凸と凹のどちらかに傾斜するのです。従って、モード系というのは、+1凹iに傾斜したモードだと理解すればよいわけです。

    そこで、傾斜したモードを保守的モード+1凸i、革新的モードを+1凹iとすれば、
    +1凸i・・・・・・・+1凹i
    クラシック・・・・・・ジャズ(モードジャズ)
    伝統的古典能・・・・・・新しい能(新作能)
    モード系・・・・・・・コンサバ系
    電話・・・・・・・・・・・・iモード
    カナ入力方式・・・・・ローマ字入力方式
    原流・・・・・・・・・・・・・・落合流
    と配置できるでしょう。

    これかも分かるように明らかに保守的と革新的を区別しても良いモードもありますが、どちらとも言えない中性のモードもあります。

    時代によって、保守的と革新的が入れ替わることもあるでしょう。保守的と革新的は相対的なのです。そこまでを考慮すると、

    +1
    電話・iモード
    カナ入力方式
    ローマ字入力方式
    伝統的古典能
    新しい能(新作能)

    ということになるでしょう。

    それでも、落合流は、やはり、時代が変わっても、+1凹iに位置するのではないでしょうか。

    これでモードの意味がはっきりしました。

    モードとは本来は中性なのですが、エネルギーのバランスによって、凸と凹のどちらかに傾斜するのです。従って、+1凹iに傾斜するモード、+1凹iに傾斜するモード、中性のモードがあるということになります。

    これならPS人間学を確立することもできるでしょう。言うまでもなく、落合監督式俺流人生は、+1凹iに傾斜する「俺流モード」となります。

    +1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹i
    原流・・・・・・・・・・・・・・落合流

    しかし、ここでおかしいことに気が付きました。

    +1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹i
    西洋的自我・・・・・・・・・・・・東洋的無我

    としてきましたが、落合流と言えば組織を無視して自己を主張する典型的な唯我独尊タイプです。このようなタイプを自我タイプと言ってきたのではないでしょうか。

    原監督はどちらかと言えば、自己を余り主張しないタイプです。こちらの方が自己主張をしない、感情を抑制し、規律を守り、律儀で、頑固であるがやさしい、誠実な組織人間であり、日本人らしい日本人でしょう。
    従って、
    +1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹i
    落合流・・・・・・・・・・・・・・原流

    とすべきではないでしょうか。

    ここは人間をもっと観察しないと整合が取れないようです。これは間違いなのです。「俺」を主張するからと言って、自我タイプだとは言えないし、「俺」を主張しないからと言って、無我タイプだとは言えないからです。

    自我には擬装自我もありますし、擬装自我から復活する自我もあるのです。場を支配する自我ではなく、場に包まれる自己(この場合は自我とは言えない)もあるのです。

    このような自我や自己の多様な現われを記号で表現するには、まだPS理論の数的表現が完成していないので、+1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹iの線上に位置付けできないのです。

    擬装自我は、+1凸iの自我が否定されて、他者と同一化する場合ですから、+1凸iから+1凹iへ反動します。それを、+1凹iとすると、本来の無我の+1凹iと区別ができません。

    そこで、凸iは否定されますが、隠していると考えて+1凹i(凸i)とします。表面は無我人間のように見えるということですから、+1凹iでよいでしょう。(凸i)が隠れているイメージです。

    これが擬装自我を持った組織人間の構図であり、日本人の多くが建前と本音を分離するモードとなります。

    擬装自我とは建前モード、仮面モードなのです。

    組織人間は、+1凸iの自我が否定されると建前モードに入ります。つまり、組織の命令を優先して、個人的な欲求は抑止するのです。

    要するに、いい子をぶるのです。
    当然、組織(企業・家系)を優先するという意思を前面に出してきます。これが傾斜です。

    +1凸iの凸i(本音)が否定されるのですから、凸iを( )に入れなければなりません。つまり、+1?(凸i)です。( )が仮面です。

    建前の凸iを隠したのですが、+1の後に来るべきものがなくなって?となってしまいました。

    これでは、自閉で、幽霊です。しかし、+1(凸i)なら+1と同じですから、バランスの取れた人間か、あるいは、物事をはっきりと決断できない優柔不断な人間であるかのどちらかです。

    今は、自己を否定して、擬装しようとしているのですから、+1(凸i)ということはありえません。なんとか、+1の後に来るべきものを自己の代用として探してこなければならないのです。そうしないと自己喪失に陥ってしまいます。

    そうです。それが他者と同化するということなのです。もちろん、それは緊急避難であることは当の本人は理解しているのです。

    他者同一化とは、凸i(自己)→凹i(組織)です。よって、?は凹i(組織)に置換されることになるのです。これで、+1?(凸i)は+1凹i(凸i)となりました。

    偽装の構図
    +1凸i・・・自我→+1?(凸i)
    +1・・・・
    +1凹i(凸i)・・・建前・偽装・仮面の自我

    これで、+1?(凸i)が+1凹i(凸i)に反転することを示しました。ただし、+1凹i(凸i)と+1凹iとは本質的に違うことを銘記して置いてください。

    次に、偽装した人間が、建前と本音の使い分けるようになる心理現象を解明します。

    最終形は次のとおりです。

    +1凸i・・・本音
    +1・・・・・・・・・・
    +1凹i(凸i)・・・建前

    組織に従う自己+1凹i(凸i)とは建前であり、本音の自我+1凸iとは違うものです。もちろん、無我の+1凹iとも違うものです。

    こうして、できた自己は+1凹i(凸i)であり、自我=本音(凸i)を隠し、他者=建前(組織に従うこと)と同一化してしまった自己ですから、もはや自我とは言えないし、無我とも言えない新たな自己の出現なのです。これは他人を欺くことであり、偽装化したことの意味なのです。これで擬装自我=建前人間=+1凹i(凸i)が一丁上がりました。

    建前人間の特徴は、本音=自我を隠しているだけであって、自我を捨てたわけではありませんし、自閉的になったわけでもありません。

    いつでも、表に+1凸iとなって出てくるのです。これが本音と建前の使い分けなのです。人によって巧い下手がありますが、それは人生経験とも関係するでしょう。

    擬装自我の建前人間がいるなら、その反対の人間もいるでしょう。

    当然、それが俺流モードの落合監督です。落合監督を遊牧系の人間の代表とすると、その人間モードをPS理論で解明するとどうなるのでしょう。

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