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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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from: 生成門さん

2011年03月09日 18時59分56秒

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観念的同時と共時性

観念的同時と共時性<共時性の不思議>同時については、観念的同時、因果的同時、物理的同時があり、光や因果、観測と認識、時間と空間が複雑に関係していること

観念的同時と共時性
<共時性の不思議>


同時については、観念的同時、因果的同時、物理的同時があり、光や因果、観測と認識、時間と空間が複雑に関係していることが分かりました。

また、共時性とも関係がありそうです。

今後、更なる探求をしていきますが現段階で理解したことを図にしました。

因果的同時を現在と未来にしましたが、過去と現在にした方が適切でしょう。春が終わると夏になりますが、春と夏に観測者が同時には存在できないからです。









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from: 生成門さん

2011年03月13日 11時26分48秒

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「Re:Re:Re:観念的同時と共時性」
海舌さん

> ここは、哲学的に、スパッと、割り切ろうと思っています。
> 光とか、重力波とか、量子とか、そんなもの全部忘れて、「認識したものは存在する」と「認識」することにしませんか。

割り切りは必要ですね。問題はどのように割り切るかですね。

「認識したものは存在する」と「認識」する。なるほど分かりやすいですね。

「見た物」は「ある」と「する」ですね。

>目を閉じて、心の奥に見える映像も、その時点では、「存在する」と認識している、と考えます。

目を閉じて、心の奥に見える映像=-1
「存在する」と認識したもの=+1
としてよいでしょうか。

簡単に、見たイメージを-1、その表現された物を+1とします。

今、地震のニュースを見ていますが、これによって私は福島県で地震があったことを認識しました。

地震のイメージ:地震があったことを想像する=地震の認識=-1
地震の存在:地震の認識を認識する=地震を確信して表現するなど=+1

認識は、対象を存在していると認識1することと、その認識1を認識2するという二重構造になっています。

認識2は、行動するとか、表現するとか、対象に対しての働きかけとなり、それを自己が認識1できますので、循環構造(認識1⇒認識2⇒認識1)となっているのでややこしいのですが、取り合えず、認識1から検討します。

認識1は「見る」という視覚以外の認識(感じる)も含めます。

一方、私は地震を体験しましたから、地震があったことを既に認識しています。

体験とは揺れを体で感じたことです。従って、この感覚が認識1の基本です。

感覚→感知→判断→認識1という内部プロセスがあると思います。割り切って、プロセス全体を認識1と言っても良いかもしれません。

もっと言えば、認識1とは「見ること」=「感じる」ことと言えるでしょう。

地震を体験して直接知る場合と、それをニュースで知る場合があることを示しましたが、ニュースで知った場合は、認識と事象の間には時間の遅れがあります。しかし、認識したのですから、それが過去であったとしても地震が存在していると言えます。また、直接知った場合でも、震源地からの時間の遅れがありますから、認識1は過去についての認識だということになります。

現在、直接体験した場合でも、体で体感したことを頭で認識するまでには時間がかっています。ですから厳密に言えば、過去の体験だと言うことです。

つまり、感知・・・認識の間は空間(距離)によりますが、時間がかかるということです。

しかし、認識には、必ずMPの作用が作用しており、超越的だということです。
ですから、光を媒介にした時間と空間を前提にしていますが、認識1は超越的ですから、この時間・空間を無視することにします。

すると、感知=認識となり、認識は存在であると割り切ることができます。

遠くで起きたことでも、報告されたことでも、直に体験したことでも、その時間空間を無視して、認識できればその出来事は存在しているとします。

この認識=存在:-1⇒+1が観念的同時の完結ですね。しかし、ここではMP1の認識と⇒+1の認識を区別していません。

区別しておきましょう。

-1の段階では、見ることで対象を内部化(頭に中に取り込んだ)したということに過ぎなく、まだ、存在を認識2できている(存在を認識1したと認識2すること)とは言えませんが、内部化を前段の認識1として、観念的同時の認識1ということにします。

時間と空間を無視することで、存在の認識は観念的同時の認識であると割り切れたのですが、更に、認識1を認識2するという後段(外部化)があります。

観念的同時の認識には、光を媒介にした見る物と対象という関係があります。

この見る者・・・・対象の脳内作用を複素平面でどのように対応させればよいのでしょうか。

私は次のように理解しています。

見る行為や感じる体験には、MP1の志向作用(無意識⇒対象)という指し示しが先ずあります。これを超越的認識1a:観念的同時の認識(観念的同時の完結とは区別します。)とします。

見る者と対象の関係は自と他の関係ですから、凸iと凹iという内部MP過程(無意識⇒対象⇒自他分離)を経て、目に見えた物(対象)が非在の対象(イメージ)として-1の位置に出てくるとします。

これを厳密に表現すれば、指し示し:MP1⇒感知対象、対象の内部化(感知ないし見たということ): MP1⇒ 対象のイメージ(-1)です。自他までを表現すると、即非のMP(自他)ですから、MP1(凸i♯凹i)⇒非在のイメージ(-1)です。

指し示しのない、つまり、感知しないで、非在(夢のような出来事)が出てくるときもありますが、この場合もMP1⇒ 対象のイメージ(-1)です。これを超越的認識1bとします。この場合も、観念的同時の認識です。しかし、まだ完結はしていません。

超越的認識1:観念的同時の認識(単に認識1)

光を媒介にした認識 1a
  超越的認識1a:
指し示しの対象⇒MP1⇒ 対象のイメージ(-1)

光を媒介にしない認識 1b 
超越的認識1b:夢・妄想・仮説的な発想
  MP1⇒ 対象のイメージ(-1)

指し示しの後、目を閉じても残像としてある場合は、非在(残像)ですから、この場合もMP1⇒ 対象のイメージ(-1)です。これは超越的認識1の観念的同時の認識としてよいでしょう。

指し示しの対象⇒MP1⇒ 対象のイメージ(-1) ・・・(目を閉じる)・・・MP1⇒ 対象の残像イメージ(-1)

対象の内部化を非在としたのは、認識=存在となる観念的同時の完結プロセスを明確にするためです。ですから非在の段階(-1)では、まだ、認識=存在:観念的同時は完結していないということです。

認識は、内部化されると、見る者と見られる物(対象)という対の関係になりますから、自他の作用として-1(凸)=見る者と-1(凹)=対象に分離して理解した方がよいのでしょう。

見られる物の非在のイメージは-1(凹)ですから、第3象限ですが、限りなく実軸-1の位置に近いということになるでしょう。

この見る者と見られる物(対象)の関係を割り切って非在=-1とします。-1はイメージであり、三つのケースがあることになります。

<観念的同時の認識>
認識1:対象(存在)の認識(MP1⇒-1)
認識1a=超越的認識1a=見たもののイメージ
認識1b=超越的認識1b=夢・妄想・類推・残像としてのイメージなど

<観念的同時の認識の完結>
認識2:存在の認識の認識(-1⇒+1)
=超越的認識2

次に、-1の非在のイメージがMP2の認識作用(意識⇒対象)によって、実在するものとして+1の位置に反転させます。これが観念的同時の認識を存在に結びつける作用であり、存在を認識し(内部化=-1)、つまり、「存在の認識」を「認識する」(-1を+1にする=外部化)という二段構えとなっています。

これをもって観念的同時の認識の完結とします。

二段構えの認識作用(観念的同時の認識の完結)には、見たものを(対象のある場合)、頭で思ったこと(対象のない場合)を、体で感じたこと(対象のある場合)が混在していますが、いずれにしても、一旦非在(-1)として内部化して、それを外部化(+1)するプロセスがあるということです。

これが、認識したものは存在することを認識するということの私なりの理解です。これで良いのでしょうか。

二段構えの認識構造は{「認識1=存在」認識2}を簡単に-1⇒+1と表現しますが、-1にMP2が作用して、+1になること、つまり、-1⇒(MP2)⇒+1であることを忘れてはならないでしょう。

それを忘れなければ、観念的同時の認識の完結{「認識=存在」認識}を⇒+1、又は+1と表現してもよいでしょう。

いつ、どのようにして非在から実在に反転するのか、その(MP2⇒)の作用についてはまだ巧く説明できません。いずれ挑戦してみたいと思います。

ここで重要なことは、目を閉じても見えるもの=認識1したもののイメージ=-1=非在とそれを外部化した物それ自体(認識2されたもの)=存在+1は区別されなければならないということです。

この区別は、「思う」ことと「やったこと」「言ったこと」ことは別の事として区別しています。

この区別をすれば、思ってもやれない、思ったことを直ぐに口に出すとか、殺意のあり・なしなどという現象が簡単に説明できます。

-1⇒+1のいろいろな例

思うこと⇒やったこと
思うこと⇒言うこと
殺意あり⇒事件(殺人事件)
殺意なし⇒事件(致死事件)

さて、認識のプロセスには、内部化(指し示し:見る⇒対象)と外部化(-1⇒+1)があり、内部化にはMP1が、外部化にはMP2が作用しているとしてのですが、MP1の直接的な外部化のルートもあるようなので、更なる吟味が必要となります。

それに見る者と見られる物の関係が+1と-1には必ず凸凹が付帯しているということも重要だと思います。

ただ、自=凸と他=凹を-1(凹)と-1(凸)、+1(凹)と+1(凸として、毎回表現するのは面倒なので省略しますが、自我を語るときはそうはいかないので、ケースバイケースということになるでしょうか。

この多様性については、海舌さんが提示された+凸凹+, -凸-凹などの64パターンを使うとことになると思いますが、今はまだ私の能力が置いてついていません。

> >  星を見ていない時は、星が存在すると類推できますが、「存在を認識」していません。

類推した星は「存在を認識」していないということですが、二段構えの認識に言い換えると、{「存在の認識1」を認識2できない}となります。

更に、言い換えると、その星(-1)は「あるだろう」と認識1(類推)するが、見ることができないから存在するとは言えない、つまり、認識2できない(+1はない)と理解します。

これを、式で表現すると{MP1⇒-1⇒なし}です。

この意味は、類推した星:非在-1(-凸又は凸-)は「存在」していないのですから、当然、+1には出てこないということです。つまり、MP2 の作用(-1⇒+1)が励起されないということです。

{「存在の認識1」を認識2}しているとは、MP2 の作用(-1⇒+1)が励起されて、非在と実在が一致している:-1⇒+1、これが観念的同時の完結ということになります。

{MP1⇒-1⇒なし}は、観念的同時の認識はある(そこに星があると思う)が、観念的同時は完結していない(あることを確認できない)観念的不同時ということになります。

これを、何かの事件を目撃したことに応用してみます。

{「存在の認識1」を認識2}=(-1⇒+1)は面倒なので、認識=存在と表現していきます。

認識=存在:事件の目撃⇒事件が存在する(観念的同時の認識があり、観念的同時が完結している)

認識≠存在:事件を目撃していない⇒事件は存在しない(観念的同時の認識もなく、観念的同時も完結していない)

事件を目撃していないが新聞で知った場合はどうなるでしょうか。

認識≠存在:知ってはいる⇒事件は存在しない

この場合は、観念的同時の認識はある(事件があったことを思う)が、観念的同時は完結していない(事件を確認できない)観念的不同時(-1⇒なし)ということになります。

しかし、この場合は、もうすこし厄介です。

事件に関する情報が更に入ってくるので、確からしさがましてきます。つまり、事件のことを詳しく知り、確信を持てるようになり、認識=存在:事件を確信する⇒事件は存在するとなります。これは観念的不同時が観念的同時に反転する例です。

これを星の場合に対比させると、

認識=存在:見ている星⇒星は存在している
認識≠存在:類推している星⇒星は存在していない

となります。

この場合は、類推している星が現在の星を意味しているのであれば、絶対に確認が取れないのですから、星は存在していないので、観念的不同時が観念的同時に反転することはありません。

同時刻の同時は絶対有り得ないのですが、同時を現在の同時としなければ、星の場合のように過去の姿を見ていることでも観念的な同時とすると、事件の場合と同じように、最初は情報がなかったので観念的不同時ですが、情報が入ったことで観念的同時に反転したように、観念的不同時が観念的同時に反転することはよくあることです。

それを見ておきましょう。

<地震の場合>
認識≠存在:地震を感じない⇒地震が存在しない(観念的不同時)
認識=存在:地震があったことをニュースで知る⇒地震があったと認識する(観念的同時の認識はあるが、まだ、信じられない場合は、観念的不同時)

認識=存在:地震があったことを更にニュースで知る⇒地震があったと確信する(観念的同時の認識があり、確信するから観念的同時が完結する)

<事件の場合>
認識≠存在:事件を目撃していない⇒事件は存在しない
認識=存在:事件の報告を受ける⇒事件が存在すると認識する(観念的同時の認識があり、確信するから観念的同時が完結する)

<星の場合>
認識≠存在:類推している星⇒星は存在していない(観念的同時の認識があるが、確信できないから観念的同時は完結しない)

認識=存在:インターネットで星を見る⇒その星は過去の姿であることは分かっているが、星は存在していると認識する(観念的同時の認識があり、確信するから観念的同時が完結する)

認識≠存在:類推している星⇒星は存在していない(類推している星が現在に姿である場合、決してインターネットで星に映像を見ることはできない=観念的同時の認識があるが、確信できないから観念的同時は完結しない)
少しくどくなりましたかね。

> >  何万光年前の星を演繹的に類推できますが、それを実感できません。(当然のことですが。)

類推できるが実感できていない:-1⇒なし(認識は出来るが、存在を認識しても、それを認識できない:観念的不同時)

つまり、類推は存在を認識していないということですね。でも、インターネットでその映像を見れば、それはそれで納得するでしょうから、観念的不同時が観念的同時となるということになるのではないでしょうか。

しかし、宇宙の果てとかの想像図がインターネットにありますが、これを見て、観念的同時が完結するのでしょうか。

想像図は想像(-1)の表現(+1)ですから、宇宙の果てそのものの表現(+1)ではありません。ですから、宇宙の果ての想像イメージ(-1)はある(観念的同時の認識)としても、それを実在するとは思えないのです。

ですから、-1⇒なしです。しかし、将来、過去の宇宙の果ての姿を、ハッブル望遠鏡が映したら+1に反転するかも知れません。

観念的不同時が観念的同時となるようなことは日常でも良くありますね。

その典型は、マニュアル主義ですね。マニュアル主義者は経験がないのでマニュアルを信奉するので頭でっかちとなってしまいます。これが、頭では考えても行動できない人間を評する言葉となるのですが、マニュアル認識≠存在:-1⇒なしで、観念的不同時となります。

ところが、マニュアル主義者も仕事となると義務感でマニュアルに書いてある通りに行動するので、-1⇒+1観念的同時となります。このような観念的同時行動は盲目的ということになりますが、マニュアル認識は類推的認識とは違うのかどうかを吟味する必要があります。

同じなら、類推的認識=存在:観念的同時が完結することになってしまうでしょう。

マニュアル主義の観念的同時の完結が、-1⇒+1だとしても、自信を持って行動する場合-1⇒+1と区別ができません。今は、マニュアル主義の可否を問題にしているのでないので、これについてはここでは言及をしません。

続きます。
生成門

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