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from: 生成門さん
2011年03月09日 18時59分56秒
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観念的同時と共時性
観念的同時と共時性<共時性の不思議>同時については、観念的同時、因果的同時、物理的同時があり、光や因果、観測と認識、時間と空間が複雑に関係していること
観念的同時と共時性
<共時性の不思議>
同時については、観念的同時、因果的同時、物理的同時があり、光や因果、観測と認識、時間と空間が複雑に関係していることが分かりました。
また、共時性とも関係がありそうです。
今後、更なる探求をしていきますが現段階で理解したことを図にしました。
因果的同時を現在と未来にしましたが、過去と現在にした方が適切でしょう。春が終わると夏になりますが、春と夏に観測者が同時には存在できないからです。
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from: 生成門さん
2011年03月13日 11時29分29秒
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「Re:Re:Re:観念的同時と共時性 続き」
海舌さん
> > 一方、共時概念は、二人以上のファクターが必要になるのはないでしょうか。この点で、相対的な理解に留まるのでは、と思われます。但し、研究を進めて頂きたいです。
確かに、自他といっても、見る者(自)と対象(他)という自己内部の関係ですから、観念的同時の精神過程-1⇒+1では一人芝居(対象は内部化されている)です。
現在の星(対象)を現在の私(見る者)は見ることができないので、類推するしかありません。そこに「ある」と確認できないし、断言もできないのですから、「-1⇒なし」観念的不同時です。
従って、観念的同時の完結とはならないのですね。観念的同時では、時間の遅れを無視しましたが、もし、この場合でも、時間を超越(無視)して認識できるなら観念的不同時が観念的同時なることがあるとも言えるのではないでしょうか。
この場合は、光によらない、観念的同時の完結=共時となります。そうなら、一人芝居でも共時はあるのではないでしょうか。果して、時間を超越(無視)する共時があるのでしょうか。
これを、今、追いかけているところです。
例えば、量子のもつれは、量子ペア(a,b)が時空を超えて関係を維持しています。この場合、観測者がaを観測するという条件が付きますが、見る者とaの関係に着目すれば、見る者とaは観念的同時-1⇒+1となります。
一方、bは観測できないので、-1⇒なしとなります。しかし、この場合、見る者は、時空を超えて量子ペア(b)の状態がaの反対であると観測しなくても類推して断定できますから、-1⇒+1(?)としてよいのではないでしょうか。
星が現在そこにあると類推するのとは違って実在を断定できるのです。観測によらない認識を観念的同時の認識と認めるかどうかですが、量子のもつれはそのためのいい題材だと思います。
<星の場合>
見ている星は観念的同時:-1⇒+1
現在の星は観念的不同時:-1⇒なし
1万光年の前の星の類推は観念的不同時:-1⇒なし
1万光年の前の星をインターネットで見た場合は観念的同時:-1⇒+1
<量子のもつれの場合>
観測した方の量子は観念的同時:-1⇒+1
もう片方は観念的不同時:-1⇒なし
ただし、片方だけを観測して量子ペアを同時に観測したという同一視できる実験を確認した場合:-1⇒+1
類推だけでは観念的同時は完結しませんから、その対象は存在しません。ですから、+1には出てこないのですが、断言できるほど確認できるようになれば、観測できなくても、実感に近いのであれば、+1にでてくるとしてよいのではないでしょうか。
言って見れば仮説的認識と法則という認識のような関係しょうか。仮説では、検証されていないので、観念的同時の認識で、存在そのものは不明なので、観念的不同時としてもよいのですが、法則になると、存在を確定できるのですから観念的同時の完結としてもよいでしょう。
仮説:-1⇒なし
法則:-1⇒+1
確定ができない類推:-1⇒なし
確定ができる類推:-1⇒+1
量子ペアでは、片割れについては観測しなくても、「こうである」と断言できるようですので、片割れについても観念的同時の認識が完結したと言えるのではでしょうか。
「見てきたような嘘を言う」と良く言いますが、過去の星でも観念的同時が完結して存在が「ある」言っているのですから、見なくても、「言ったこと」は嘘でも、錯覚でも、原理的にでも断言できるなら+1(存在する)として良いということではないでしょうか。
マニュアル主義者が、何の実感もなくて行動した場合は、事の良し悪しは別として、存在を認識していると言ってよいのでないでしょうか。
類推的認識は「存在を認識していない」から、反対の結論「存在を認識する」ことがあるになってしまいましたが、更に探求を続けて見ます。
現在の星の場合の類推的認識:観念的同時に認識は完結しない。絶対的な観念的不同時です。
マニュアル主義者の類推的認識:観念的同時の認識が完結することも(行動しない頭でっかち)しないこともある。(無責任な盲目行動)
「だろう」運転者の類推的認識:観念的同時の認識(大丈夫だろうと思う)が完結することがある。(事故を起こす)
これは誤った観念的同時の認識で、観念的同時が完結してしまい、事故を起こしたケースですが、認識の良し悪しは別として、事故という存在に接続したという意味で-1⇒+1は成り立っています。
仮説的認識:類推的認識と同じでどちらもある。検証できないようなフリーエネンルギー仮説なら⇒?ですから、観念的不同時ですが、検証できるなら仮説⇒検証ですから、正しい仮説か正しくないかは別にして、観念的同時の認識が観念的同時として完結したと言えます。
法則的認識:正しい仮説が生き残ったのですから、観念的同時の認識がいつも確実に観念的同時として完結することを保証してくれます。本当に法則的認識が正かどうかは別にして、そう信じているのなら存在していると言うことです。
事実的認識:見たものは存在していると言うことですから、観念的同時の認識がいつも確実に観念的同時として完結することを保証してくれます。事実的認識の誤認があっても、その時点では、存在していると言ってもよいでしょう。
体験的認識:事実的認識と同じです。
見ること:事実的認識と同じです。
実感的認識:事実的認識と同じです。
妄想的認識:類推的認識と同じです。
マニュアル的認識:類推的認識と同じです。
観念的同時に認識(-1)と観念的同時に完結(-1⇒+1)の関係は、仮説、妄想、マニュアル的認識、「だろう」運転などを検討してみましたが結構複雑ですね。
ところで、量子のもつれは一人芝居(見るものが一人)ですが、気を送るような場合は二人芝居(見る物が二人)ではないでしょうか。
ただ、見方を変えると、一人芝居でも良いかもしれません。というのは、気を受ける側が気を感じれば、送った相手との相互作用を確認しなくても、気を受ける側だけに着目すれば、観念的同時は成り立つからです。
閃きのような場合は、明らかに一人芝居ではないでしょうか。
もう少し、探求が必要ですが、相互作用のある共時と関係だけがある共時(観念的同時)とを区別しなければならないかもしれませんね。
これについてはもう少し探求してみます。
> > 認識に、光は付随的な要因だと思います。光を媒体にしなくても、認識可能なことは在ると思います。例えば、超越的存在の認識です。但し、虚数空間自体が、電磁関連作用なので、媒体としての光の重要性は理解しています。但し、虚数的な光や虚数的な時間を含めて、将来的には考えて行きたいと思います。また、重力や量子段階の認識構造などが光との関連で考えるべきなのか、光とは無関係なのか、この点も今は不明です。
私の方は、この領域にまもなく突入します。できましたら、早い、解明をお願いいたします。
> > あまり先のことを類推しても、間違いを起こしやすいので、取り合えず、生活空間に於いて、認識されたものは存在する、観念的に同時に存在している認識があるのに、類推的には、異次元(異なる世界)に存在しているように考えられる場合、そこに、時間と空間の概念が出てくる。だから、観念的同時の概念こそ、根本的な概念だと思われます。
光を媒体にしない認識は、それが類推であれ、仮説であれ、妄想であれ、幽霊であれ、超越的認識2:MP1⇒-1としましたが、光を媒体にしない超越的認識1:MP1⇒-1とは区別していません。
幽霊の存在を認めるかどうかの議論になると思いますが、それには、観念的同時の完結編:-1⇒+1について、見ておかなければなりません。
常識では、幽霊は存在しないのですね。
幽霊のイメージ⇒なし(実在しない)
しかし、「幽霊が出た」と誰かが言ったとします。
幽霊のイメージ⇒言葉で表現された幽霊
妄想的認識では、妄想者が存在すると思えば存在するし、存在はしないと思えば存在しなません。マニュアル主義者は、事実が存在しようがしまいが、無責任に行動してしまいます。
その場合は、マニュアルによって事実が存在していると思っているのですから、マニュアル主義者にとっては存在しているのではないでしょうか。
さすがに、企業経営はサバイバルゲームですから、妄想者やマニュアル主義者の経営者はいないでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。
そのことを理解するために飛行機の操縦を例に出します。
計器飛行になった現在は、計器に示される数値が認識=存在(内部と外界に状況)そのものです。
パイロットにとって、見たもの=数値認識⇒存在(内外の状況)となり、マニュアル認識⇒存在(対象)と同じ関係になります。
つまり、見たものは代替指標でも認識は認識ですから、それを信じて存在するとしているのです。しかし、パイロットにとって計器に示された数値は存在を信じる唯一つの手掛かりなのでしょうか。
そのようなことはないでしょう。そこにこそ、超越的認識2の観念的同時の認識:MP1⇒-1が入ってくるのです。
現代の企業経営では計数によるマネジメントが主流ですが、理論と経験とが混在しています。数値や体感的認識から直接的、間接的に存在(例えば、顧客のニーズ)を把握するでしょう。
しかし、それだけでは、十分とは言えません。経験から来る直観や暗黙知といった知が動員されます。このような知こそが超越的認識2の観念的同時の認識:MP1⇒-1なのです。
一方で、無謀運手があると同じように、無謀経営もありますから、未経験から来る直観や未熟な暗黙知といった無知が動員されます。このような無知も超越的認識2の観念的同時の認識:MP1⇒-1なのです。
産地の偽装行為は、ばれないと観念的同時を認識(判断)して、産地を偽装したのですから、ばれることは想定(類推)していないのです。従って、この経営者にとってばれないという事態は存在していますが、ばれるという事態は存在していないです。
いずれにしても、事態は存在しているということですから、MP1⇒-1(暗黙知の認識)の作用があり、次に偽装行動という-1⇒+1があり、観念的同時が完結したと言えるでしょう。
見ていない星を類推して観念的同時の認識:MP1⇒-1としたと同じように、ばれる・ばれないという事態の想定(類推)は、超越的認識2=観念的同時の認識:MP1⇒-1なのではないでしょうか。
見ていない星を存在とするかどうかは情報との兼ね合いであり、ばれる・ばれないという事態の想定から実行するかどうかは、本人の確定程度できまります。
類推の場合、存在を認識するかどうかは、
本人次第ということになるのではないでしょうか。
どんな経営者でも、パイロットでも、視界不良となれば、実感がなくても、計器の数値を頼りにして、経験や直観を頼って、最適な意思決定をするでしょう。つまり、計数+直観+経験(暗黙知)⇒行動となるでしょう。
計数認識は超越的認識1の観念的同時の認識:MP1⇒-1であり、直観+経験(暗黙知)は、超越的認識2:観念的同時の認識:MP1⇒-1であり、これらが混在した認識によって、人間は存在を自己の確信度によって確認して、行動(+1)しているということではないでしょうか。
すべての認識の根源は超越的であり、観念的同時が基本であるということを確認できたとお思います。
ここまでを要約しておきます。
認識1:
認識1a>
超越的認識1a=観念的同時の認識:指し示しの認識(内部化)
MP1⇒-1(見ることなど)
認識1b>
超越的認識1b=観念的同時の認識
MP1⇒-1(暗黙知や類推や夢など)
認識2>
超越的認識2=観念的同時の完結
-1⇒MP2⇒-1
認識2>
超越的認識2=観念的同時の不完結(観念的不同時)
-1⇒MP2⇒なし
超越的認識2による観念的同時の完結・不完結(観念的不同時)の分岐:主体者の観念的同時の認識による存在に対する確信度による
気や念という現象は時間や空間を前提としない共時的認識ですから、超越的認識1b=観念的同時の認識:MP1⇒-1(暗黙知や類推や夢など)としても良いかも知れません。
類推から存在を確信するときがあるなら、気や念から存在を確信するときこともあり、その場合は、超越的認識2=観念的同時の完結:-1⇒MP2⇒-1となります。この共時的な気や念からについてはこれからの課題とします。
さて、長くなりましたのでここでやめます。
私の方は臨床的なので、修正を覚悟で類推を重ねていきますので、よろしくお願いいたします。
生成門
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