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from: 生成門さん
2011年05月29日 13時08分41秒
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複素平面をブラックホールに見立てる
複素平面をブラックホールに見立てる
<観念的同時の認識の深化>
単位円が形成されていないということは特異点(MP)だけがあり、複素平面が無限大に開かれているということです。
これを無意識の状態にあると理解してみましょう。
MPにはMP1とMP2があり、MP1は無意識の作用であり、その作用は時空を超えるのですから境界がないわけです。
意識を生成するのはMP2作用ですから、意識的になるということは単位円の状態になるということであり、思考(位相)空間が脳内に設定されるということです。
四次元能は「脳の中の能」であるといってきましたが、複素平面上の単位円の内部を能の舞台と考えると理解しやすいかもしれません。
「脳の中の能」舞台が開かれるということは意識的になるという意味であり、単位円が形成されるということであり、自我が出てくるということであり、無限大の舞台が単位円(1)に収縮するということです。
複素平面の原点がMPであり、特異点です。MPは精神作用の中心であり、「脳の中の能」舞台の中心なのです。
睡眠中はMP2(意識)が働いていないときですから、無限大であり、自由自在に仮想空間を飛んでいる(睡眠中や夢想中)でしょう。
このように伸縮自在な複素平面とすると共時的な現象や直感や夢・明晰夢などを合理的に説明できるでしょう。
例えば、無限大のときは特異点が剥きだしとなっている状態ですから、防御体制ができていないときだということです。これが裸の特異点です。
複素平面をブラックホールと見立てると、ブラックホールには事象の地平面があるように、単位円がブラックホールであり、その円の淵が認識の地平面となるでしょう。
ブラックホールの内部は外から見えないのですから、まさに単位円=心は見えないということになります。裸の特異点では、単位円がなくMPが丸出しとなっている状態なので、心(自我)はないが、心(MP)はあるということになります。
しかし、MPが剥き出しになったからといってMPの中が他者から見えるかというとそうではないでしょう。やはり特異点の中は見えないのです。
しかし、普通の状態、つまり、意識があって、きちんとした大人の対応ができる人は、単位円が形成されていると言うことですから、自分をしっかり持って個性豊かに生きているでしょう。
何かに熱中しているときは、無我状態でしょうから、単位円が形成されていないといいますか、形成されていた単位円が突然、無限大まで膨張したと解釈しても良いし、消滅したとも解釈できるでしょう。
いずれにしても、意識がなくなり、無意識だけとなったのですから、複素平面で全ての外部世界を包んでしまうと解釈すれば、まさに、自分だけの世界「天上天下唯我独尊」ということになってくるわけであり、これは真正の外部のない世界の出現ということになります。
一方、私達は宇宙の中にいると認識しているのですが、その果ては無限大ですから、自我を拡大しても、単位円の限界があり、+1で同一視してしまうので、その宇宙の外がどうなっているかを「知る」ことは絶対にできません。
つまり、私達は単位円のない無意識の状態でも、単位円のある意識の状態でも、外部のない内部だけの世界にしか生きられないのです。
従って、
MP2(意識)が作用すれば、単位円が形成され、認識が生成され、
MP1(無意識)が作用し、MP2(意識)が作用しなければ、単位円が消滅し、認識も生成されない
ということになるのです。
いずれにしても、世界は複素平面の内にしか存在できないので、単位円(認識)があろうがなかろうが、人間には外がないのです。
私達人間は、こうした閉塞した内部空間にしか生きられないのでしょうか。
この閉塞感を取り除くには、特異点の問題を解消して置かなければならないでしょう。
宇宙の始まりは特異点から始まったというビッグバン説では、困ったことになっているのですが、これを解決しなければ、意識の発生もMPから始まるとする四次元能も同じ破目に陥るでしょう。
ビッグバン説の困った問題とは、始まりの点として持ち込んだ特異点があらゆる物理の理論を破綻させるという、とんだ災いをもたらしてくれたのですが、この特異点を解消するために無境界説(ホーキンス)を持ち出してきたのです。
無境界説とは、特異点問題を解決するために、二つの世界、あちら(虚)とこちら(実)をつくり、あちらからこちらに来たとする仮説です。
四次元能ではクラインの壷のような内と外は反転する輪廻転生する宇宙を想定しているのですが、無境界は虚と実の境目がないという点で似ているのです。
分かりやすく言えば、ビッグバン説の特異点とは万年筆の先端のようなものであり、そこから全てが始まるのですが、当然その先はどうなっているという問題が出てきます。
先端は特異点ですから、滑らかではないので、どこにも行きようがありません。
そこで、万年筆からボールぺンに持ち替えようというのが無境界説です。
ボールぺンの先は丸いので、そこから先のどこにでも行けます。地球のように丸くなるでしょうから、終わりは初めとなり輪廻転生する宇宙に近いイメージとなってくるのでしょう。
ただ、無境界説ではボールぺンから万年筆に持ち替えたら後は用無しとしてボールぺンを捨ててしまうのですから、輪廻転生はしないのです。
つまり、初めは虚であったので、虚の時間が流れていたのですが、ビッグバン後は実時間だけが流れているとするのです。
始まりのときだけ虚時間で、後は実時間だけというのは、どう考えても、おかしいと思うのです。やはり、虚(時間)と実(時間)はいつも同時に生起していると考えるべきなのではないでしょうか。
もちろん、虚(時間)は見えないのですから、ボールぺンから万年筆に持ち替えたとしても万年筆で用は足せるのですが、果て(宇宙の果て)はどうなるのかを言うときは、又、ボールぺンを持ち出すのでしょうか。
量子力学でもそうですが、不可思議なこと(非局所の相関)ことが現実に起きているにもかかわらず、説明が出来ていないのです。
それは、虚数は虚構であると思っているのです。
虚数は計算上とても便利なものですから、持ち込んではいるのですが、その出てきた答えから現実とは合わない答え(先進波)は無意味として捨ててしまうことをやっているのです。
捨てるのは自由なのですが、説明できないのは自らに限界があることを示していると思うのです。都合のよいときだけボールぺンを持ち出すのではなく、全てにおいてボールぺンで説明できる方法(理論)を考えるべきなのではないでしょうか。
それを提唱するのが四次元能であり、その基礎を与えてくれるのが、PS理論だいうことです。
続く。-
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