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from: 生成門さん
2011年05月30日 10時51分38秒
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外的時間(実時間)と内的時間(虚時間)
外的時間(実時間)と内的時間(虚時間)
<観念的同時の認識の深化>
「光の閉じ込め」という実験に成功したのですが、それは内部の小さな空間に入った光が定常波となって、進む波が反射して逆に進む波となって互いに共振するので、小さな空間では止まっているように見えるだけなのでしょうか。
「行って来い」ですね。
それとも、存在していた光が実際に消滅して、それが再生成するまでの時間を測定して、それを閉じ込めたと言っているのでしょうか。
定常波より小さな空間なら共振は起きないでしょうから、やはり消滅すると考えましょう。
何故、小さなフラクタル空間に入ると消滅するのでしょうか。
生成消滅するということで光の方程式で表現してみましょう。
生成→消滅→生成ですから、凸i*凹i⇒+1(存在する光)⇒(消滅)凸i*凹i⇒+1(現象した光)であり、消滅している時間が停止している時間です。
消滅しているMP状態(凸i*凹i)は見えない、時間のない異次元領域ですから、停止したという表現はあくまでも、+1(存在する光)と+1(現象した光)の時間を三次元サイドで観測して言っているのであって、消滅している時間というのではないのです。
⇒?⇒?⇒?⇒の?は見えない点(MP)であり、⇒の先端と⇒の根元を測定して、⇒t⇒と看做しているのでしょうか。
⇒が発生するということは、時間が発生することであり、時間が発生するということは「光が走る」ということですから、⇒+1をもって、陽光の痕跡を見たということになるのです。
海舌氏がPS理論流「時間」についてユニークな考察しています。「時間のMP的理解」をhttp://blog.kaisetsu.org/?eid=810786
参照してください。
以下、引用しました。
時間の本質は、一方通行性である。
つまり、「⇒」である。矢印は、必ず、矢印の発端と矢印の先端を必要とする。
同時に、矢印の発端と矢印の先端は、絶対的に異なる必要がある。
もし、矢印の発端と先端が同一であれば、矢印は存在せず、無意味となる。
また、同時に、矢印の発端と先端は、関連性を持つ必要がある。つまり、矢印の胴体部分は、media point( media point line)を形成している。
もう少し、詳細に、分析してみよう。
矢印の発端を時刻Aとする。
矢印の先端を時刻Bとする。
時刻Aと時刻Bは絶対的差異である。
もし、時刻Aと時刻Bが同一時刻であれば、AとBの間に「時間」は存在しない。よって、時刻Aと時刻Bは絶対的差異である。
時刻Aと時刻Bの間を「時間」と言うので、時間は、「media point」である。
同時に、時間の一方通行性によって、時刻Aと時刻Bは、矢印の発端を時刻A、矢印の先端を時刻B、とする一方通行性という関連性、意義性を有しているのである。この一方通行性を、前後性、優越性、序列性と言い換えても良い。
但し、時間自体は、パイプであり、時間自体に一方通行性があるとは言い難い。
単なる、媒体である。
結論として、時間は純粋に方向性を示すための媒体であり、方向性を持つ media pointである。
時間は、方向性を持つmedia pointであるために、lineとしての認識を兼ねる。
―――
この定義に従うと⇒が時間ですから+1に光が発生しないときでも、時間が発生することになり、具合が悪いので、暫定的ですが、私なりの解釈をしておきたいと思います。
時間も現象であると考えてみます。
つまり、時間は何かの現象が発生すると同時に必ず発生すると考えるのです。例えば、光が発生すると時間も発生するということです。
それを⇒+1⇒+1⇒+1⇒+1と表現します。時間の元はMPにありますが、
⇒は時間と考えずに、時間を発生させるMP作用(ベクトルモード)と考えます。これは他の現象の場合と同じです。
時間は現れますから測定ができます。
その測定は外部の観測者という他者がいて、観測するのですが、それを、⇒+1⇒+1⇒+1⇒+1と続く過程を外部に観測者がいて、それを+1+1+1+1として見ています。
この連続が実時間ということになり、観測者は、t1,t2,t3,….tnと表現することになります。
見ている時間の方向も一方のみですから、私達の時計の示す実時間と一致します。
もちろん、光には闇があるように時間にも闇があるでしょう。つまり、光の生成方程式:凸i*凹i⇒+1と同じように、陽の時間(凸i)と陰の時間の(凹i)があり、時間の生成方程式:凸i*凹i⇒+1によって実時間が生成されるでしょう。
敢えて言うなら、⇒は外的時間(実時間)ではなく、内的時間(虚時間)という方が私の理解としては都合が良いのですが、このような解釈は許されるでしょうか。
言い換えると、外部には実時間が流れ、内部では虚時間が流れているのですが、⇒で示すように、虚時間から実時間になるためには、MPが作用(作動)しなければならないのです。
MPが作用(作動)しなければ、外部では、内部は静止していると見えるのです。
しかし、大概の現象は連続して見えるのですが、それは+1⇒+1⇒+1⇒+1と続く過程の⇒が虚時間であることにその理由があります。
現象は確かに連続しているのですが、その裏では、虚と実とが交互の入れ替わっているのです。ただ、虚は見ることができないので、+1+1+1+1として見えてしまうために、現象が連続して見えるのです。
実際は、虚に潜って実に出てくるのです。
こうした、虚に潜るという仕組みは、複素平面の特徴なのですが、それは認識の主体が観察者として登場したりするので、その区別を間違えてしまい、虚に潜るという仕組みを分かり難くしているのです。
この後で、認識の主体は複素平面のどこにいるのかという問題を上げていきます。いつも困っているのですが、外部の他者と内部の他者の区別です。
これを混同してしまって、認識の解釈も混同してしまうのです。一応、四次元能としては、認識の主体はMP、単位円の内部は見えない認識の過程として、+1だけが外部の他者から見えるとしていきます。
もちろん、単位円の内部の過程を認識の主体は感じることはできるのですが、見ることはできません。
自分を観察するときは、自分が外部の観察者の立場になって、自分の+1(現象したもの)を事後的に見るということになります。
つまり、当為者(主体)と観察者は異なるということです。このあたりの考察は、もう少し、詳しくやりたいと思います。
続く。-
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