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from: 生成門さん
2011年05月31日 20時09分54秒
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石庭はフラクタル空間か?
石庭はフラクタル空間か?
<観念的同時の認識の深化>
あらゆる3次元空間は複素平面(空間)であり、そこには情緒を醸し出す空間とそうでない空間があり、フラクタルな次元、即ち、異なる方向に広がる空間が関係していると言いました。
更に、フラクタルな空間では光がトラップされますが、光だけでなく人間もトラップされるのです。
人間がトラップされる空間とは、美のイデアが現象する空間であり、神秘の森、美しい景観の自然です。そのような空間は異なる方向に広がる空間であり、フラクタルな次元を持っています。
人為的にフラクタルな次元をもつ景観を作れば人を引付けることができますから、これを応用すれば、経営や政治などに応用することができますし、四次元能の目標である自我の解体も夢でないでしょう。
人為的に作られたフラクタル次元をもつ景観の典型的な例が石庭です。
自我を解体するプログラムを作るうえで、禅語や経典や哲学的教訓や諺より最も参考になるモデルとも言えるかもしれません。
石庭は、黙って、自己認識方程式:凸i*凹i⇒+1:は精神⇒現象を体現しているのです。
これまで「石庭」を見てもPS理論とは関係ないと思っていたのですが、ここにきて光のトラップの謎を紐解いたことで、ようやく、石庭にはフラクタルなトラップ(罠)があると思うようになったのです。
「禅と日本文化 石庭」
http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/zentonihonbunkasekitei.htmlを参照してください。
映像を引用しました。
―――
京都の旅する人なら誰でも、必ず竜安寺や大仙院の石庭を訪れるでしょう。
でも、石庭が何を語っているのかを深く考える人は少ないでしょう。
禅寺にある石庭ですから、ただの庭ではないことは分かるでしょう。
それが何を意味するのかを理解するために、難しい講釈を理解する必要はないのかもしれません。
ここを訪れる人にとっては、その魅力だけが重要です。
魅力と関係ない説明は必要がないのです。
言い換えると、その魅力に満足できない、魅力が分からない人が、この庭に一つの真実があると思って、その答えを求めてしまうのかもしれません。
自己認識方程式:凸i*凹i⇒+1は精神⇒現象を体現しているのですから、その答えは一つではないのです。
凸i*凹i⇒+1は森羅万象の方程式であり、従って、光の生成方程式であり、時間の方程式であり、悟りの方程式なのですから、悟り(真実)ではなく、悟り(解釈)なのだと悟らなければならないのです。
ですから、石庭にきたら先ず、その前に来て座って、眺めると言うより、そこに溶け込むことが必要なのです。石庭は宇宙なのです。
認識する自我の単位円の囲いをはずすことが必要なのです。単位円をなくすということは、自己を無限大に拡大するということであり、宇宙(石庭)と一体となるというであり、裸(無我)になるということです。
つまり、裸の特異点になることであり、MPを剥き出しにするのです。
石庭はフラクタルな空間であり、そこには光と時間がトラップされているのです。つまり、石庭は光の陰謀を打ち砕く罠なのです。
四次元能はこれまで光の陰謀である自我の暴走を押さえることを目標としてきました。
そして、使徒との戦いに勝つための戦略(自我解体)を探してきましたが、その答えがついに見つかったのです。石庭にその秘密が隠されていたのです。
石庭こそが自我解体の場所、フラクタル空間だったのです。では、その「答え」とは具体的に何なのでしょうか。
それは庭に魅了されるという、そのことに示されているのです。
しかし、その答えは、運動方程式のような式を解くように得られると期待してはいけません。誰が解いても同じ「答え」となるような簡単な式ではないからです。
その式とは自己認識の方程式であり、石庭のトラップの方程式:凸i*凹i⇒+1なのです。これを解かなければならないのです。
この式を解いてみましょう。
専門家はその答えを「間」であるというかも知れません。そう、石庭には「間」があるのです。
では、「間」とは一体何なのでしょうか。
「間」とは、間合いであり、「まあまあ」と言う言い方があるように、ギクシャクしている人と人との間を和ませる雰囲気のことでしょう。
こうした間に対する感覚は、日本人の独特の感覚です。
しかし、間のことをいくら説明しても、それは、内面のことなので、観察にかからないのですから、認識のしようがありません。
それを悟るために達磨さんは何十年も壁に向って座禅をしたのですが、しかし、それで本当に悟ったのかどうかは分からず仕舞いです。
まして、その後に続く私達は座禅など誰もしないのですから、やはり、座禅は使徒との戦いの武器とはならないということでしょう。
石庭には「間」がある。それは日本人の独特の感覚の鋭さを表わしていると自慢したところで、何の意味もありません。座禅と同じように、使徒との戦いには勝てないと自ら宣言するようなものなのです。
ですから、石庭をもっと違った観点から解釈する必要があるのです。
四次元能は、既に、光の陰謀を砕く手掛かりを掴みました。その手掛かりとはフラクタルな次元のことであり、光をトラップする罠のことであることを、
「飛んでスポンジに入る陽の光」http://c-player.com/ad00178/thread/1100103441674
「情緒のある複素平面」http://c-player.com/ad00178/thread/1100103438240
で示しました。
特に、飲み屋横丁、蟻塚、神秘の森などの例からも分かるように、それらに共通しているのは気がみなぎる場所、癒される空間、つまり、パワースポットだということです。霊場、聖地も同様の場所なのです。
飲み屋横丁と聖地を一緒にしてしまったのでは、スピリット系から苦情が来そうですが、それをフラクタルな次元、光のトラップという観点で見ると、人間を虜にする「罠」があるということで説明が出来るのです。
光さえ留まりたくなるのですから、「飛んで火に入る夏の虫」を文字って「飛んでスポンジに入る陽の光」だと表現したのです。
神秘の森や飲み屋横丁や聖地は自然に、或いは偶然に生成されたパワースポットですが、それを数学的に人工的に実現したのがメンジャースポンジなのです。
そして、石庭は数学的にではなく、禅的に、しかも、人工的に意図的に作られたパワースポットなのです。
石庭は、数学的ではないにしても、明らかにフラクタルな次元を持っています。フラクタルな次元を持っているということは情緒のある複素空間だということであり、その魅力が人を虜にするのであり、人をトラップのです。
従って、石庭は人工的パワースポットなのです。
ですから、間とは「バランス」だと言ったところで、石庭の本質を説明したことにはならないのであり、その庭の造形をいくら3次元的に説明しても、石庭の本質をつくことはできないのです。
なぜなら、そこは複素空間なのですから、その裏にある精神を理解しなければならないからです。
もちろん、その精神が「間」であるという言い方もできるでしょうが、それでは、鋭い感性のなせるところといった曖昧な表現で終わってしまうでしょう。
その精神とはイデアであり、虚性であり、フラクタル次元であるというのが、四次元能の行き着いた「答え」なのです。そうであるなら、当然、次なる探求はフラクタル次元に向かうことになるでしょう。
続く。
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