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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2011年06月06日 09時40分23秒

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    認識された物と表現された物は同じと看做す

    認識された物と表現された物は同じと看做す
    <観念的同時の認識の深化>

    ある物とその物の抽象された物が同じと看做すためには、どちらも+1に位置します。

    ある物が+1に位置することは、私がその物を見て(感じて)、それは目の前にある現実であり、それが「ある」と確信しているのですから、認識した物です。これを私(物1)と表現してみましょう。

    その認識した物を誰かに伝えるために、紙に書いたとしましょう。口で伝えても言いのですが、いずれにしても、それは表現された物です。それを私(物2)と表現しましょう。この私(物2)も+1に位置づけます。

    私(物2)は私(物1)を抽象した物ですが、どちらも物なので+1に位置づけるのです。

    何故、私(物1)と私(物2)を+1に位置づけるのでしょうか。

    私(物1)から私(物2)が出てくると、直ぐに比較するでしょう。すると、間違いがあることに気づきます。そこで、私(物2)を修正します。これを私(物3)とします。これを繰り返すと私(物n)となります。

    私(物1)と私(物n)は限りなく近づいていきますが、私(物1)は見ている現実であり、私(物n)は記号で表現された物
    のですから、完全に一致することはありえません。

    私(物1)を現物のリンゴとすると私(物n)は「絵に描いたリンゴ」なのです。

    ここまでは普通の常識です。

    しかし、四次元能はこれを同じ物と看做すのです。どうして、現物のリンゴと「絵に描いたリンゴ」が同じなどと言えるのでしょうか。

    そのヒントは、私がその物を見て(感じて)、それは目の前にある現実であり、それが「ある」と確信している物ですから、認識した物であるという言明に隠されています。

    つまり、「ある」と確信しているに過ぎないのです。見たからと言って、本当にあるとは限らないことは、私達が日常茶飯事に体験していることです。

    単なる錯覚のことを言っているのではありません。「現実とはそもそも錯覚」なのだということを言いたいのです。

    これは四次元能が繰り返し言ってきたことですので、こちらを参照してください。
    「道元宇宙への接近(3)」
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100071776927
    「現実は非現実、非現実は現実である」http://www.c-player.com/ad00178/message/20100410?format=time
    「この世は幻か」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100076550742

    特に重要なことは、renshi氏が「ラカンは間違っている」http://d.hatena.ne.jp/antares/20100223
    で指摘しているように、ラカンの現実界・想像界・象徴界を、
    現実界=イデア界
    想像界=MP
    象徴界=物質界

    としていることです。

    ここで重要なことは、現実とはイデアのことであり、想像がMPであり、象徴が物質の世界であると言っていることです。

    現実がイデアであるということは信じがたいと思いますが、これは目の前にあるリンゴを私達はどうしても生ではつかめないということを意味しているのです。

    良く考えてください。見るということは、それで、光を媒介しているのですから、映像を見ているのと変わりがないのです。食べたとしても、それはもはやリンゴではないですね。

    物があるということは現実ではないのです。ですから、これから現実という場合は、それは、真正の現実ではないということを頭に入れて置いてください。それはイデアの痕跡だと思ってください。

    現実=イデアの痕跡なのですから、目の前にある現実は、現実ではないということであり、「現実とは錯覚」だという意味がここに集約されているのです。

    私達が現実と思っている世界が、実は物質界であり、象徴された世界であり、記号で表現された世界だということです。

    これを先に述べた現物としてのリンゴが私(物1)と「絵に描いたリンゴ」私(物n)でいうと、共に、物質界に属することであり、共に、イデアの痕跡だということです。

    「象徴された」を拡大して解釈すると、私(物1)は光或いは電子によって媒介された、つまり、五官によって抽象された物ということであり、私(物2)は言語によって抽象された物ということになるでしょう。


    従って、モデルとか、喩えることも「象徴された」=抽象された世界に入るでしょう。数学の位相空間も同じでしょう。

    絵画には、写実・印象・抽象という大きな分類がありますが、いずれも、記号で表現した物ですから、同じ次元の物と看做せます。代表〈代わりを表わす〉のさせ方に違いがあるだけなのです。

    ですから、+1は物質としては皆同じと看做せるのです。それぞれの認めたとしても、-1との違いよりは大した違いではない、つまり、本質的ではないという意味で、同じだと言えるのです。

    そうは言っても、現物、つまり、五官によって抽象された物=認識された物=私(物1)が、象徴されたもの、抽象されたものと「同じ」とするには、まだひっかかるところがあります。

    「象徴、抽象されたもの」は物質とは言えないように思えるのです。

    このことを納得できるように説明するには多くの言葉を必要とするのですが、虹を例にとって説明しましょう。

    「温暖化は精神の問題」
    https://c-player.com/ad00178/thread/1100068712107から引用しました。

    現実の世界は外界の解釈であり、虚構にしかすぎないことを人間社会の場合を例にとって示します。

    先ず、風景に対する解釈です。誰でも経験することですが、同じ景色を見ても感動しない時と特別な感動に襲われる時があるでしょう。

    心の有り様によって同じものが違って見えるのです。外界が心に関係なくあるならば、いつでも同じでなければなりません。この例は、外界にある現実という名の世界が如何に移ろい易いものであるかという証拠です。

    もう一つの例は虹に対する解釈です。虹の色は何色に見えるのかという問題を出して見ます。誰でも七色と答えるでしょう。それはそう見えるのだから正しいです。

    しかし、五色、三色と答えても正しいのです。実際そう答える民族がいるのです。これが何を意味しているのかはもうお分かりであですよね。

    民族の生活の条件によって外界の見え方が違うということです。日本人で虹が七色に見えない人はいないと思います。いたとすると健常者とはみなされなくなるでしょう。

    しかし、七色に見えるのが絶対正しいのではありません。それは文化であり精神装置の仕業なのです。
    ―――
    要するに、見えた物は現実そのものではなく、解釈された物だということです。
    そのように解釈させる場があるということです。

    四次元能は、世界は解釈であるという立場ですが、ここから象徴化=抽象化=記号化となり、現実は錯覚だとなるのですが、虹の色の例でも分かるように、私がその物を見て(感じて)、それは目の前にある現実であり、それが「ある」と確信している物ですら、解釈された世界=「象徴された」世界だということです。

    このことから、私(物1)=認識した物=解釈した物であり、物それ自体ではないということであり、記号で表現された物nと同じと看做せるのです。

    続く。

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