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from: 生成門さん
2011年06月13日 20時18分29秒
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何故、山に登るのか
何故、山に登るのか
<観念的同時の認識の深化>
認識された物は解釈された物であり、記号で表現された物と同じ次元(+1)の物であり、それぞれに多少の違いはあるにしても、大同小異であるということで、全て物は+1として配置することにしました。
抽象される前の生の現実として認識される物(人)とある物(人)の関係を比較して見ましょう。
物にはそれぞれに違いがあり、人もそれぞれ個性がありますから、同じとは言えないように思えます。
しかし、これらも同じです。その根拠を示したいと思います。
一番安易な方法は、物の属性を無視して「点」として抽象することです。
例えば、大きな地球も太陽も月も点として抽象してしまえば同じと言えるでしょう。
地球 月 太陽
つまり、
・―・―――――――・
物事の本質を浮かび上がらせるにはこうした抽象化という手品は実に有効なのです。
地球や月や太陽の代わりに新幹線の各駅間の距離を無視して並べて見ましょう。
駅にはそれらなりの特徴がありますが、それを無視してしまうと点になります。
点は点でしかないのですから、同じとなるのは当然でしょう。人も個性やその他の属性をとったら、皆、同じ点になってしまうでしょう。
今、問題にしているのは、+1に配置された「ある物」と「その抽象された物」物だけでなく、全てのものは同一視できるかどうかということです。
物を点に抽象するから、同じと言えるのですが、何故、このような回りくどい探求が必要なのでしょうか。
それは、保留してきた石庭の罠を解くために必要なのです。
頭の体操をしていると思ってください。
ところで、+1に配置されるは同じと看做すのに、-1と+1に配置されるものはどうして同じと看做してはいけないのでしょうか。
類は類を呼ぶではないですが、物という世界はすべてが点として抽象できるという意味では同じだと理解してください。
物は数量化できるので、量として測定できるということです。量として測定できるということで同じなのです。
しかし、量と質となると事態はまるで違ってきます。量と質とは異なる次元に属するものだからです。
例えば、「思い」は見えないが「思いやり」は見えると言いますが、これは遠いから見えないとか、隠れているから見えないとかいうレベルのことを言っているのではありません。質と量の違いを言っているのです。
「思いやり」は、態度で示したものですから、観察にかかり、測定が可能です。例えば、それは、お金かも知れません。
しかし、「思い」はそうはいきません。「思い」=お金という式は成り立たない事は私達が一番良く知っていることです。
つまり、私達は量と質を同時に扱う術を知らないのです。心で思うことと身体的行動を同じ次元で扱うことができないのです。
このことを端的に示すのは刑事事件です。
刑事事件では、動機は立件するために重要な要素です。
しかし、動機があるだけでは、立件できないこともまた自明です。人を恨んだだけで犯人にされたらたまったものではないでしょう。
恨みが犯罪行為となるには、恨み⇒犯罪という実行方程式を実践しなければならならないであり、刑事はこの方程式を解かなければならないのです。
恨み⇒犯罪(物証+アリバイ)であって、決して、恨み=犯罪ではないからです。
この発想はPS理論からの借用ですが、真に、量と質を同時に扱うためには、複素平面を使ったプラトニック・シナジー理論でなければ、心で思ったことと身体的行動を同じ次元で扱うことができないでしょう。
四次元能は、そのPS理論から導き出される「観念的同時の認識」を独自に探求しているのですが、複素平面が「観念的同時の認識」という人間の精神活動を説明するのに、何故、必要なのかという理由を求めているのです。
ですから「複素平面ありき」では始めらいないのです。「何故、複素平面なのか」という問いに答えなければならないのです。
しかし、四次元能としては、心と身体を同時に考えることについて、未だ、何も、理解できていないのが現実です。
複素平面は、その答えを出す思考の道具、いや道具というよりそれ自身が思考そのものだと思っているのですが、それを初めに与件として持ち出すのでは、説明は簡単に済むのですが、それでは「何故、複素平面なのか」という問いには答えられないままです。
複素平面を先に持ち出して説明するのは「神(複素平面)は全能(観念的同時の認識)である。その理由は、全能の根源は神だからである」というようなものです。
それでは、どうも消化不良の感がするのです。
PS理論では、複素平面が全能の根源であることを、哲学という領域で説明しているのですが、四次元能も、それを参考にして、独自に探求して行きたいと思っているのです。
そこで、「何故、複素平面なのか」という問いを続けたいのです。
もっとも、これまでも複素平面を持ち出して様々な現象の説明をしてきたのですから、今更、「何故、複素平面なのか」という問いを立てるのかと言われそうですが、それには目を瞑ってください。
より深化するためには、そういう方法(受売り)も必要だったのです。
危険な冒険でもシミュレーションすることで、その困難を克服できるといいます。山登りでも、擬似的な山で練習はするでしょう。その後で、シミュレーションの意味を把握することもできるでしょう。
しかし、シミュレーションしたからと言って実際の体験をしたとは言えないように、実際の体験は自ら行うしかないのです。
何故、既に答えが分かっているのにそんな遠回りをするのかという質問が出てきそうですが、それは、「何故、山に登るのか」と問われて「 そこに山があるから 」と答えることにしましょう。
シムハンターの皆さんなら、このような飛躍的説明でも共感してくれと思うのですが、如何でしょうか。
冒険者なら冒険の喜びを知っていると思うのです。
危険だから、身体的に苦しいからと言う理由で冒険をしない人は、そもそもシムハンターの資格がないわけで、四次元能の臨床というスタンスとは相容れないものです。
しかし、注意しなければならないのは、偽冒険者がいるということです。
彼らは、危険だから、身体的に苦しいからという理由で冒険をしないことは、イメージ悪いことだと自覚していて、そんな醜い自我を偽装することがあるのです。詳しくはチュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098199050
「偽装自我」と「真正な無我」
http://d.hatena.ne.jp/antares/20101021を参照してください。
最近、目に付くのは原子力推進派という人達です。彼らは冒険することは原子力を推進することだと考えたのです。
「原子力を推進すること」を「 そこに山があるから登るのだ 」ということと同じであるとしてしまったのでは、ジョージ・マロリー(エベレスト登山家)
からクレームが来るでしょう。
実際、マロリーは死地に向かったのであり、そこには安全に対しての用意周到な準備があり、万が一に死んだとしても、自己責任という覚悟であり、他人には迷惑をかけないという気構えがあったでしょう。
しかし、原子力推進派はどうでしょうか。彼らには、死地に向かうような安全に対して用意周到な準備があったのでしょうか。
今、分かったことは安全基準の考え方に押しても、余りにも甘かったということです。「原子力安全委員会=原発推進派学者たちの"誤解を招く"懺悔」http://d.hatena.ne.jp/ShiroiAkaiAoi/20110416/1302969822
を参照してください。
政府が主導して学者がそれを後押しして、村全体がその経済メリットで潤ったところまでは良かったのですが、結果として災害に見舞われ、見えない放射能という苦しみを作ってしまったのです。
自分達が苦しみを味わったのなら、自業自得ですが、それを主導した政治家は舞台から降りていて責任を追及されることもなく、学者は懺悔するという事態になっています。
原子力が危ないものだという認識がありながら、すべての可能性を考慮したものではなく、安全だと思っていた基準が不十分だった」と想定の甘さがあったことは認めているのですから、懺悔するなどというのは自我の偽装でしかないのです。
彼らには冒険家の心がないのです。
又、又、脇道に逸れてしまいましたので、軌道を修正しましょう。
続く。-
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