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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2011年06月13日 20時41分04秒

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    沈黙の春

    沈黙の春
    <観念的同時の認識の深化>

    この探求では、何故、複素平面という超ド級の手品=抽象化をするのかということを探求しています。

    この探求が森羅万象の共通する宇宙の真理だということに辿りつけば、登山家の登頂のときのような感激が得られるでしょう。

    その手品を見破るには、同一視できることと、同一視できないことの間には根源的な違いがあるということを理解して置かなければなりません。

    では、どのような違いがあるでしょうか。

    先ず、複素平面を忘れて、水平軸だけを考えましょう。この水平軸は+1を物質、-1を非物質として対置していますが、まだ、複素平面の水平軸だと思う必要はありません。

    単なる鏡の関係と思ってよいでしょう。
    鏡は真ん中にあり、実像(+1)と虚像(-1)という関係になります。

    -1・・・鏡・・・+1
    虚像       実像


    実像の+1を私達の棲む3次元の物質世界を代表させています。

    ですから、これを心象と身体とすれば、

    -1・・・鏡・・・+1
    心象       身体

    となりますし、身体を現象一般と解釈もできます。

    問題は鏡ですが、これは最も重要な働きを持っているのですが、人間に関して言うなら認識する主体として良いでしょう。

    そういうことで、+1に配置されるものは、身体や物、それに言語的に表現されるものを含めました。

    そこで+1の配置される物は全て同じと看做したのですが、それは点として抽象されるから同じだとしたのです。

    しかし、-1(思い)と+1(思いやり)は同じでないと言いました。

    どうして+1の配置される物は全て同と看做すのに、-1と+1は同じと看做さないのでしょうか。その違いはどこにあるのでしょうか。

    実像と虚像の違いだからでしょうか。

    犬は鏡に映った自分を他の犬と間違えて吼えますが、人間はそのようなことはありません。人間は-1と+1は同じと看做さない能力を持っているということです。

    その認識の違いはどのような精神作用によってそうさせるのでしょうか。

    これ答えるには、人間の脳内構造を理解しなければならないのですが、脳科学を持ってきてもまだ十分な説明ができていないのが現状ではないでしょうか。

    四次元能は無謀にもこのようなことに挑戦しているのです。

    簡単ではないと思いますが、-1と+1は同じとは看做さない、その違いはどこにあるのかということから探求をはじめましょう。

    「沈黙の春」というレイチェル・カーソンの著書があります。これを題材に、その違いを探求しましょう。

    「沈黙の春」は、鳥達が鳴かなくなったのは、地球が汚染されているからだというカーソンの切実な心情があって、それが作品となって現れたのですから、心情を-1に、沈黙の春という作品を+1に配置できるでしょう。

    -1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
    汚染のイメージ1     汚染の現実
    汚染のイメージ2  「沈黙の春」という作品

    汚染の現実があって、それを認識したカーソンは汚染のイメージ1(汚染されている事実関係など)を想起したでしょう。

    次に、カーソンはそのイメージ1を抽象して、イメージ2(汚染を訴えるシナリオ)を想起したでしょう。

    そして、それを「沈黙の春」として著作したのです。

    ここで、イメージ1とイメージ2は同じ対象の汚染に対する非存在のイメージですから同一視できるでしょう。

    又、認識された汚染の現実と著作された「沈黙の春」という作品は、同じ対象の汚染に対して存在するものですから、同一と看做すことができるでしょう。

    同一と看做すことができるという条件は、現実と作品の間に対応する関係があるということです。

    汚染のイメージ1(事実関係)と汚染の現実は、心の中のことと心の外にある現象ですから関係があるのですが、心と現実という質と量の違いがあるので、命に値段がつけられないという意味で、対応づけすることができないのです。だから、同一視はできないということになるのです。

    汚染のイメージ2(シナリオ)と「沈黙の春」という作品も又、心の中のことと心の外にある現象ですから、同一視はできないといいたいのです。

    同一視できる場合は、+1と+1の比較、-1とー1の比較であり、できない場合は、+1とー1の比較にあるとしたいのです。

    このような考え方は、一般化できるのでしょうか。
    同一視できる場合:
    +1と+1の比較
    -1とー1の比較
    同一視できない場合
     +1とー1の比較

    これを、更に別の例で確認しておきましょう。

    話しているときに相手が反応しないで無言でいることがあります。これを取り上げて見ます。

    無言でいる理由はいろいろあるでしょうが、抵抗していると解釈ができます。

    つまり、私はあなたを否定しているという心の表現であり、身体的表現なのですから、+1に位置づけられるのです。

    -1・・・・・・・・・・・・・+1
    私の理解   あなたの話したこと
    否定する心     無言の態度

    これは人間関係の基本であり、あなたの話したことを私が認識して、理解したことから会話が始まります。私がその内容に違和感を覚えたのであれば、「それは違う」と心の中でつぶやくでしょう。

    そして、あなたを否定すると決心します。

    ただ、それをストレートに言うのはまずいと思い、相手に考えさせようと思い、無言を通すことにします。それが無言の態度として、あなたに観察されるでしょう。

    あなたの話したことが廻り廻って無言の態度として現れたのですから、同じ次元(+1)のこととして、同じと看做せます。

    私の理解したのは、あなたの話したことであり、それから、あなたを否定する心が芽生えたのですから、私の理解と否定する心は同じ次元(-1)のことですから、同じと看做せます。

    同じ次元だから、同じと看做すというのは、どのような意味があるのでしょうか。

    それは同時に取り扱えるという意味です。

    +1であれば、3次元の物として、1、2、3と数えたり、点として座標に示すことができるからです。

    -1であれば、心にある3次元の物のイメージとして心の中で内語を使って、1、2、3と数えたり、イメージの点としてイメージの座標で心の中で想像するでしょう。

    しかし、物の1とイメージの1は同時には扱えないのです。

    物と物とでも同時には扱えないことがあるのです。例えば、計算することを考えて見ましょう。ミカン1とリンゴ3を計算することはできるでしょうか。ちょっと無理ですよね。

    物を点とし抽象化すれば、1+3=4ですがら、とりあえずは計算できたことになりますが、どうもしっくりしませんね。
    続く。

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