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from: 生成門さん
2011年09月02日 09時44分24秒
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キアスム則(四つの象限の相互作用)
キアスム則(四つの象限の相互作用)
<光の自己認識の応用練習>
複素平面の認識を概観しておきましょう。
第一象限と第二象限の認識に共通しているのは、凸i優位であり、共に自己が中心であると言うことです。意識が自己から対象に向っていると考えましょう。
一方、第三象限と第四象限の認識に共通しているのは、凹i優位であり、共に、他者が中心であると言うことです。意識が他者から対象に向っているのです。もちろん他者とは自分の中の他者です。
凸i優位の認識は自分で切り取った世界の認識ですから、そこには自己が含まれていないのです。
認識の主体としての自己は世界の外にいるのです。つまり、単位円の中にいるということであり、単位円の外が世界です。
単位円を〇とすると、自己=内と世界=外の関係になりますが、ここでは内と外の関係が逆転していますので注意してください。
ですから、世界=認識の対象=物を( )とします。その世界の外にいるという意味で、自己( )であり、凸(+1)なのです。
この意味は認識の主体としての私は世界の外にいることを表現しており、従って、外部の他者から見ると内部なのです。
見るもと見られるものの関係が対峙するのが第二と第一象限です。自己→対象だからです。
しかし、自己が自己を見るということはあるでしょう。
これは対象に自己が含まれている場合です。それは自分を対象としているのですから自己言及の構造です。
この場合は、凸(+1)=(凸(凸))となるでしょう。
しかし、それを観察するでしょうから、凸(凸(凸))となるでしょう。
結局、この場合でも、一般化すると凸(+1)でよいでしょう。
見るもと見られるものの関係が対峙しない、自己と他者が区別できない、見られるもの中に自己が含まれる場合はあるのでしょうか。それは第一でもなく第二でもなく、第三でもなく、第四象限でもなく、自己言及でもありません。
これは、どういう場合でしょうか。
それがまさに絶対矛盾的自己同一であり、即非共振状態であり、MP状態なのです。
無我夢中で我を忘れて、その対象に没頭しているときは、自他の分岐がないのですからMP状態なのです。
これが超越者の立場です。超越者と一人称の立場は根本的に違うということを肝に銘じて於いてください。
では、超越者と当事者とは違うのでしょうか。
例えば、音楽を聴くことに没頭している人は当事者であり、一人称であり、超越者です。しかし、音楽を聴きながらも自分の意識がある場合は、超越者ではなく、凸i優位の一人称の自己であり、没頭しているとは言えません。
従って、当事者という場合は、その精神状態を吟味しなければならないと言うことです。
では個別の認識に入っていきます。
第一象限と第二象限は、私という一人称の世界観(認識)が生成されるところです。
一人称の世界観(認識)は、凸i優位ですから自己中的です。つまり、主体の感性によって色づけされているので、偏っているということです。
その典型は芸術であり、宗教でしょう。芸術や宗教は一人称なのです。三人称の芸術や宗教が存在しないのは、当然と言えば当然です。宗教を科学するとか、芸術を科学するなどと言うことがないのは人称と関係するのです。しかし、全くないかというとそうでもないのです。
私の信念は私の主観であり、それを客観化するということは在り得るのです。
三人称の信念ということです。三人称の信念とは何でしょうか。
それは皆が信じることです。共同主観とも言うようですが、文化のようなものは主観が客観化されたもの、つまり、凹(+1)と言えるでしょう。
文化に従って無意識に思考するのが、凹i優位ですから、第三象限:凹(-1)で、無意識に行動するのは身体的表現ですから、第四象限:凹(+1)ということになるでしょう。
科学でも最初は自己の主観的体験で直感凸(+1)するところから始まるのでしょう。それが主観的仮説:凸(-1)として構成されますが、そのままでは受け入れらいないので、私なりの実験:凸(+1)を繰り返して客観的仮説:凹(-1)として論理的に思考をします。
それが論文として表現され、公表され、認めら原理や法則と呼ばれるもの:凹(+1)になります。
これも主観が客観化された例と言えるでしょう。
フラクタル解析は景観の良い悪いという主観を客観化しているようですが、さすがに、芸術を科学するとうのは聞いたことはあリません。
信念に基づいて行動するとは、第二象限の一人称の信念(それが正しいと私は思う)が、第一象限に行動として現れることを意味します。
「犬も歩けば棒に当たる」を複素化して見ます。
「「犬も歩けば棒に当たる」と私が思っている」なら第二象限の認識です。それで実際に「犬も歩けば棒に当たる」ことを体験したなら、第一象限で認識したことを意味しています。
しかし、諺に「犬も歩けば棒に当たる」とあるから正しいと思っているなら第三象限の認識であり、それを「犬も歩けば棒に当たる」と他人に口にしたら、第四象限で認識していることを意味しています。
このように諺や格言を複素化することは楽しい頭の体操になります。機会を見て試ししてみましょう。
凹i優位の認識は他者の思考ですから、数学がその代表です。
言う迄もなくそこに私の主観が入る余地などありません。数学の世界に私(一人称)は含まれていません。ここでは、自己主張という色合いは消えてしまっているのです。
数学の思考は常に一般化されており、三人称の視点、つまり、他者中心的(客観的)なのです。主体の感性によって色づけされた数学などありえないのです。
つまり、他者の思考とは、誰でもが認めるということを前提にしているのですから、偏っていないということです。その典型が数学的、哲学的思考だということです。
一人称の数学や哲学は存在し得ないのであり、私だけの数学なんて聞いた事がありません。
しかし、オイラーの公式とかプラトンの哲学という言い方をしますから、私的な数学や哲学があるような気にもなります。
オイラーが発見した当時は、確かにオイラーの個人的な思いでしかなかったでしょうから、一人称の式と言えたでしょう。
その後、多くの人に認められたことで、公式として格上げされたことで、第三象限の位置を獲得したと言えるでしょう。
ただし、オイラーの式を数学的に頭の中で思考することは第三象限、それを表現した式は第四象限ということになります。
一般に数学的に思考することは第三象限であり、それを身体的に表現すると第四象限になります。
プラトンの哲学についても、同様のことが言えるでしょう。誰でも「私は何者か?」と問うだけで哲学はすることができるのですが、それはまだ第二象限における「生きるべきか?死ぬべきか?」と悩むことであり、その姿は第一象限の私です。一人称の主観的思いは哲学(第三象限)とは呼べない哲学的問い(第二象限)なのです。
プラトンの哲学で思考することは第三象限ですが、プラトン自身が思考していた時は第二象限の認識だったでしょう。
こうして見ると第三象限と第二象限の鬩ぎあいがあって、流動的というか、揺らいでいるということであり、その境界をはっきりとさせることはできないと言えるのではないでしょうか。
複素平面で考えるためには、常に、第一象限と第四象限の同時性と自他の鬩ぎ合い、第二象限と第三象限の同時性と自他の鬩ぎ合い、第一象限と第二象限、第三象限と第四象限の鏡像関係を考慮しなければならないということです。
複素化することは四つ象限のキアスム構造(鏡像分岐・交叉反転)を認識することであり、キアスムは常にMPを介して行われます。
四つ象限のキアスム構造(鏡像分岐・交叉反転)の内、第一と第二、第一と第四、第二と第三、第三と第四の関係は比較的分かりやすいですが、交叉の関係、つまり、第三と第一、第四と第二の関係は分かりにくいでしょう。これについては別途とします。
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