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from: 生成門さん
2011年12月27日 13時11分18秒
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オントロジアルゴリズム(2)
オントロジアルゴリズム(2)
<量子芸術からの贈り物>
オントロジアルゴリズムの図http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~saitotac/Kmap/Concept/ontology2.htmから引用。
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科学と芸術が融合したところで、哲学と芸術を融合して見ましょう。これがオントロジ芸術(アート)と言えるでしょうか。
オントロジとは存在するとは何かと問う知の領域(存在論)のことですが、水と油のような科学(量子)と芸術の融合には抵抗感があったと思うのですが、存在(哲学)を芸術することはどうでしょうか。
後で分かるように、存在とは概念であり、
量子も概念であり、第3象限の思考です。
従って、量子芸術を受け入れられたのならオントロジ芸術(アート)も受け入れられるのではないでしょうか。
果して、存在を芸術化することはできるのでしょうか。これは表現されたものの背後にあるのは何かという現象的還元(根源への問い:+1⇒-1)の思考実験であり、脳の中の能です。
存在とは概念であると無謀な事を言ってしまいましたが、全く間違いでもないと思うのです。人間と何かと問う場合、それは人間それ自体を知ることなど出来ない相談です。結局、人間とは「これこれである」というしかないわけですから、「これこれ」とは何かということなり、どこまで行ってキリがありません。
「これこれ」とは分けるということであり、分けることは任意ですから、存在している物は存在していないことになり、しかも、それに名前を付けて認識し、理解しているのですから、これは概念(名詞)というしかありません。
実際、議論する場合も名前で思考していますし、コンピュータの世界でも、モデルを使って表現しています。モデルとは、存在するものに名前を付けた集合であり、概念モデルといっています。
このようなオントロジの概念モデルは人工知能やウェブ検索、遺伝子工学などでも利用されるようになってきました。
人間、放射能汚染、ゲノムとは何かという代わりに、人間オントロジ、放射能汚染オントロジ、ゲノムオントロジなどと言って見ましょう。それが概念モデルなのです。
存在の問いに対して「これこれ」であると答えたことから概念モデルへと導かれたのですが、これが理解することの基本なのです。
私達が物事を理解する第一歩は、「これこれである」という風に分けることです。
理解するとは「分かった」ということですが、「分かる」ということは「分ける」ことなのです。つまり、「これこれである」と連続して、より小さな要素に還していくことなのです。
人間は本来、還元的に分ける能力をもつオントロジ(存在)です。ですから、何事も分けて体系化(概念モデル)したい衝動があるのです。
概念モデルの典型が自動車の部品の構成表であり、図書館のシソーラス、システムです。概念モデルを形成する上で、中心的に活躍するのが還元する思考、つまり、分類することなのです。
何かについての資料があった場合、人間はそれを単純に時系列に並べるだけでは満足できないのです。いろいろと階層化して関連付けたくなるのですね。
人間は分類癖を持った知的動物なのです。端的にいうなら人間は分別知を本能的に持っていると言って良いでしょう。
しかし、人間は陰陽のイデア的生命体でのあり、分別知と対極にある無分別知というのも持っています。
人間の場合、陰陽イデア(凸i,凹i)のせめぎ合いの結果、対称性が破れる傾向があり、凸i優位となるようです。
その結果として、迷い、思い悩み、苦しみをもたらします。人間のあらゆる不幸は禁断の実(分別知という凸i優位)を食べたことにあるのです。
本来、分別知は、便利さと快適さを求める魔法の杖のようなものだったのですが、陰陽の宇宙の原理は、片方だけを選択しても、ままならないように出来ているのです。
結局、分別知という片方だけを選択した結果、苦悩をもたらしたのですから、皮肉なものです。これを教訓とするなら常識は「「二兎は追うな」ですが、「二兎は追え」が正しいということになるでしょう。
そのことをはっきりと自覚させられた事件が起きてしまいました。
科学のみを追い求めた結果、招いたのは放射能汚染です。なんとも、言いようがありません。
仏教では分別知は自我による思考であり、苦の元凶であるとして、自我を解体することが分別知を捨てることだとして、無分別の知の優位を教えます。
仏教は分けて考えるなと4000年に渡って警告し続けてきたのですが、それをどこで間違えたのか、私達は「無分別な人ね」と言ってさげすみます。
放射能汚染は、如何に、二兎を追うことが困難であり、仏教の教えが無力だったかを示す出来事です。「無分別な人ね」がそれを象徴しています。
分別は止められない、止まらないのが人間の性のようです。これでは分別知を悪者にしても問題は解撤しないわけです。
それならどうすればよいのでしょうか。
「毒には毒を持って制する」という諺があります。量子力学はまさに「毒を食らわば皿までも」を実践した学問です。
毒、即ち、還元(分別)を極限まで進めたら、「トンネルを出たら幽霊の世界だった」ということになって、予想外にも全く反対の世界に出てしまいました。
四次元能の脳の中の能も、量子力学に倣って毒を食ってみましょう。
触媒を扱う企業にはベテランと言われる職人がいます。触媒を混ぜるときの量は微妙なので理論的な基準がありません。その量を秤で計って入れることができないのです。手触りが頼りです。
こうした経験からくる知識を暗黙知といいます。暗黙知は大なり小なり誰でもが持っている知です。主婦の勘というものです。
暗黙知はどのようにして形成されるのでしょうか。
それは多くの失敗と苦労があって培われるのです。門前の小僧です。
失敗と成功のパタ-ンが分類され、身体でそれを覚えます。これが学習であり、その人の勘となるのです。
この獲得した勘は暗黙知となり、その人しかできない芸や術となるのですが、それが記号で表現できる内容のものは、公知の知、つまり、形式知として集約されます。これが社会では文化であり、企業では特許やマニュアルとなります。
オントロジ・アルゴリズムとは、存在から真理の探究、分別、論理、演繹、帰納などの思考過程を経て知識の構造が確定するまでの過程です。
言い換えれば、暗黙知から形式知の形成過程を示す図であり、分ける苦しみの軌跡と言えるでしょう。
この図は、オントロジアルゴリズムを表現しているだけですから、この図の背後にある暗黙知の世界を読み取らなければなりません。それがオントロジ芸術です。
オントロジ芸術は、まだイデア芸術とはいえません。
オントロジとは「である」の科学であり、即非の思考が入っていないのです。それは複素化すれば直ぐにわかいります。
「ある}を極限まで探求すれば、即非となるでしょう。
ですから「ある」を「ある・ない」の即非イデア芸術にまで変身させなければ、本当に真実に達したとは言えないでしょう。-
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