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from: 生成門さん
2012/01/14 13:40:45
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観音とは無の音を「観よ」
観音とは無の音を「観よ」
<観音は第3象限にいる>
何故「音を観る」と言うのでしょうか。
観音様の黄金の炎
http://www.karadahouse.com/z-soka.html
観音菩薩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9
から引用しました。
観音の由来は、梵名のアヴァローキテーシュヴァラ(遍く観る自在者)からきています。玄奘三蔵によって「観自在菩薩」と訳されたのです。
ここではまだ音は出てきていません。
中央アジアで発見された古いサンスクリット語の法華経では、「avalokitasvara」となっており、ここではじめてavalokita(観)+ svara(音)となったようです。
―――
しかし、何故「音を観る」のかについての説明は、ググってみても納得できる説明が見つかりません。
そこで自己流に解釈してみます。
声をして唱えるから観音経があるという解釈もあるようですが、それは短絡です。声を出さない念仏の仕方もあるのですからね。
更にググってみたら、観音様の声は「沈黙の音」という説明がありました。
「観音様の沈黙の声」
http://www.just.st/index.php?tn=index&in=307384&pan=1593&sk=U2bB3r0YW53ZfLvfFMz6L&t=1323410086
ヒントは観音経の終わりの方にありました。
「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念」
これは、「観音様の声は、妙なる音であり、世を観る音であり、清浄音であり、海の潮のような静かな沈黙の音である」という意味です。
つまり、観音様の声は沈黙の音、観る音なのです。
でも、何故、沈黙の音が観る音なのでしょうか。何故、「音を聴く」と言わなかったのでしょうか。
沈黙の声は無音ですから聴くことは出来ません。無い音はどう逆立ちしても、聞くことができないのです。
しかし、無い音を考えることは出来ます。考えるというのは、何かの対象に付いて考えると言うことです。何かの対象に付いて考える為にはそれに先立って対象を見なければなりません。
しかし、一旦、「見たもの」については、見なくても、その記憶があれば、「観る」ことができ、従って、考えることが出来ます。つまり、想像できるのです。
つまり、光を媒介して「見た」ものは、光が無くても「観る」ことができるのです。
無い音は「聴く」ことは出来ませんから、考えることができないのです。しかし、無い物でも観ることができるように、無い音を「観る」ことはできるのです。ですから、無い音を考えることは出来るのです。
纏めると、次のようになるでしょう。
音のついては
無音→対象が無い→聞こえない→考えることはできない
見ることについては、
対象→見る
対象が無い→観ることはできる
考えることについては
観る→考えることができる
対象が無い→見ることができない
対象が無い→観ることはできる→考えることができる
無については
無音→無→対象が無い→観ることはできる→考えることができる
従って、無(音)、沈黙の声は、聞こえなくても、観ることが出来るのです。
観音の語源は「遍く観る」が「見る」ではなく「観る」となっています。
これは、沈黙の声が何を意味するのかを良く「考えよ」と言っているのです。考えるためには「観よ」といっているのです。
「何かを考える」の「何か」とは「無限の慈愛」のことです。無限の慈愛が遍く行き渡っているその様子を「観よ」ということなのです。
遍く行き渡る無限の慈愛とは沈黙の声であり、無の音ですから、「無限の慈愛を観よ」とは沈黙の声を「聴く」のではなく、無の音を「観よ」ということになるのです。
続く-
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