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from: 生成門さん
2012年01月27日 11時54分02秒
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曖昧なノンフィクション(中間位置の基準)
曖昧なノンフィクション(中間位置の基準)
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>
保留してきた、中間の位置に映し出されたイメージはどのようなものかについての結論を出しましょう。
写真は間違いなく中間より左側(精神性<身体性>でしょう。なぜなら、現実を忠実に反映しているからです。
警察が現場検証すると必ず現場を写真に撮ります。写真を撮るという身体的行為は、その現場をそのまま持ち帰れないことを意味しており、認識の主体と現場の間に距離さえ感じさせます。つまり、写真は現場そのものではないということです。
写真を撮った人と現場には距離がありますし、その写真を見た人と写真の間にも距離があります。
しかし、写真は現場を忠実に再現していることを保証してくれます。これは精神的強度が低い、つまり、写真を見て、想像して補う必要があまりない、つまり、行間を読むとかの必要がないということです。
モンタージュ(似顔絵)はどうでしょうか。
モンタージュとは、現実に存在する人を想像して描くという身体的行為であり、表現されたものです。これを見た刑事はかなり想像して補う必要があり、行間を読む必要があるでしょう。
つまり、精神的強度は高いということですから、写真よりは中間よりだと言えるでしょう。刑事によっては中間の当たりに位置づけるのではないでしょうか。
モンタージュを書く人の上手い下手、目撃したときの状況やその後の記憶の程度などにも依存するでしょう。
あやふやなモンタージュでは現実の再現性は落ちてくるでしょうから、捜査では使い難くなりますが、ベテラン刑事には暗黙知(勘)がありますので、想像力で補うでしょう。この場合は、かなり精神的強度が上がってきます。
表現されたものがテキスト(文章)の場合は、判例や交通ルール、ニュースのようなものと社説やツイッターでの呟きでは違ってくるでしょう。
判例や交通ルールやニュースが第1象限に位置するかどうかは疑問があります。これは「私」の認識、光の認識ではないからです。
これらに共通しているのは公的ということです。確かに事実を反映していますからノンフィクションですが、私の意見でも主張でもありません。
ニュースには社会性があります。ニュースを伝えるキャスターが勝手に解釈して私の意見として報道されたのでは、たまりません。ニュースは私の表出ではないのです。ニュースは社会性の表出であり、他者の論理であり、闇の論理なのです。つまり、社会とは闇なのです。
何故、社会が闇なのでしょうか。これについては、今触れることはでできません。第3、第4象限に進んでから明らかにします。
第1象限の認識に限定して探求しているからです。
第1象限とは一人称「私」の認識です。私の意見や主張ですから、同じ現実を見ても私だけの体験談であり、私の撮った写真なのです。私のノンフィクションの世界なのです。ですから、同じノンフィクションでも、私の主張が入らないニュースは第4象限に入るでしょう。
ニュースは事実のみを伝えますから、同じ現実、私だけのニュースということはありえません。ニュースを伝える人も、ニュースを受け取る人も「私」ではないのです。
「私」ではないとすると誰なのでしょうか。
そうです。「私」では「ある」けれども、私では「ない」のです。私では「ない」とすると他者ということになります。
こうして、私は自己と他者に分離するのです。外部の他者が、私の内部に入り込んできて、私が自己と他者の分裂するのです。
この私の内部の他者について言及するのは、もっと先になります。
今は、ニュースは私の中の他者の認識つまり、第4象限に位置づけしておきます。
第4象限と言えば偽装自我の象限でもあります。偽装詐欺ペテンの認識領域とニュースが同じ認識になってしまうのです。
公的認識と偽装認識は裏表の関係あるということを暗示しています。これについての解説は、しばらくお持ちください。
再び、第1象限の中間の話に戻ります。
ノンフィクション的なローカルでプライベートなニュース、井戸端会議の発言、噂、陰口は信頼性に欠けます。
信頼性に欠けるということは、それだけ信頼性を確認するということで、対象に巻き込まれます。つまり、光の強度が上がり、精神性が高くなるということです。
一方、事実だけを伝える淡々とした会議などでの私のテキスト(意見陳述)などは身体性(対象を突き放したクール性)が高くなるでしょう。
しかし、今問題にしているのは第1象限の中間の認識ですから、現実、つまり、ノンフィクション(事実)であることを前提にして、精神性と身体性がバランスした位置の基準を明らかにしようとしているのです。
中間に位置するものの基準は、現実的であること=ノンフィクション(事実)が必要条件ですが、その内容に適当な曖昧さがあるということであり、裏返せば、信頼性の欠如があるということです。
曖昧さがあるなら想像しなければなりませんし、信頼性が欠如しているなら、疑わなければなりません。
つまり、それだけ関心を寄せるということに繋がり、対象と私の身体的距離がなくなって、対象の方に近寄って行き、虚数的になってくるということです。
この兼ね合いが問題となるのですが、曖昧なノンフィクションでは、あまりにも頼りない表現ですね。
もう少し良い基準の示し方はないのでしょうか。
続く-
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