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from: 生成門さん
2012年01月29日 17時08分29秒
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自己表出とは自我表出である
自己表出とは自我表出である
<四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>
どのような私的言説であっても、その断片的な言説だけでは意味が分からないことが多いでしょう。ドラマを見ていても途中では、その会話の意味が理解できないですから、面白さも半減するでしょう。スポーツのような瞬間のゲームでも、その背景や文脈があるのです。
ダルビッシュが日ハムからMLBレンジャーズに移籍しましが、彼の試合を見たり、試合後の会見での談話を聞いたりする場合、彼の生き様や実績、離婚騒動など、彼の文脈や背景を知って臨むのと、知らないで臨むのでは、理解や興味の点で大きな違いがでてくるでしょう。
すべての言説には必ず文脈や背景があり、それを前提として私達は認識しているのです。ですから、曖昧な言説でも理解できるのです。
第1象限の認識は、必ず、一人称としての「私」の自己表出(自我表出)するのです。
自己表出とは、自己の内面(認識)が言語によって外部に表出することです。その表出が一人称としての「私」の言語表現、つまり、テキスト、言説、発話、意見、主張、談話として外に出てくるのです。
その表出したテキストなりを、今度は、自己の中に取り込んで、自分なりの解釈をして位置づけるのです。これが自己の認識なのです。
自己の中への取り込みは光を媒介にしているので光の認識なのですが、第1象限に位置づけされた言説(テキスト)は、曖昧な現実的事象(ノンフィクション)、現象の認識であり、私的であり、自我的独善なのです。
自我表出は光の強度と逆比例するとも言いました。
従って、言説による表現は、写真のように現実を忠実に再現するような内容と無言語の原始状態の間にある曖昧なノンフィクションとして多様に分かれるでしょう。
多くの言説は、完全な+1(身体性)とも言えない、完全な凸i(精神性)とも言えない中間に位置を占めるのです。
これは言語の性質から言って当然でしょう。
記念写真の例で述べたように、自己の写真は中間より右に位置し、子供の写真は中間より左に位置しました。
それは対象に対する入れ込み、つまり、光の強度と関係すると言いました。
言説も同様であり、それは対象に対する入れ込み、つまり、光の強度と関係するでしょう。単なる事故報告と予算決定に関する陳述では、光の強度は大きく違ってくるでしょう。つまり、言説には「色」がついているということです。
「虹は七色」というように、言説は多様なのです。
無機質な軍隊は単に事実を伝えることが本来の役割です。しかし、それでも、過去の第一次世界大戦の起きた原因を見る限り、また、政変が頻繁に起きた韓国の王朝のドラマを見る限り、その言説(報告)には私欲、情が絡むことが当たり前なのです。
ですから、事実を伝える第1象限の言説は、「虹は七色」の様なスペクトル、つまり、(凸i・・・中間・・・+1)のように並んでいるということです。
こうした言説(テキスト)を位置づけるのは、曖昧さが決め手になることは既に述べたところです。
第1象限の認識はそろそろ切り上げなければなりませんが、あと少し、「想定外」という認識を取り上げておきます。
続く-
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