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from: 生成門さん
2012年07月25日 09時50分50秒
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過ぎたるは及ばざるが如し
過ぎたるは及ばざるが如し
<四次元能版エヴァンゲリオン:三人称の自由度>
三人称の視点を挿入することは、ドラマの視聴率を上げるためには欠かせないのですが、余りやりすぎると逆効果になることもあります。「過ぎたるは及ばざるが如し」なのです。
ドラマの命は「流れ」であり、三人称の視点を挿入することは「流れ」を切ることになるのです。つまり、命を切ることになりかねないのです。野球でも流れを重視します。審判の判定に対して監督が抗議することがあります。自分のチームに「流れ」が来ているときに、それをやると逆効果になることがあります。抗議するというのは、選手や観客を三人称の視点に強制的に移動させることなのです。
冷静になる事で流れ=勢いがなくなるのです。そして負けるのです。負けているときは、タイムをかけて三人称の視点を導入することも必要ですが、その采配が監督の力量なのです。
ドラマに於いても、三人称は程々にして一人称の展開を進めるという采配の力量は監督や脚本家に求められるのです。
ドラマでは、よくある手ですが、偶然の出会いがあって、そのときの些細な出来事をシーンとして見せるとします。記憶に留めさせるわけですね。
しかし、それだけなら、一人称ですが、そのとき同時に、「数年後に主人公にとって、何かを成し遂げること鍵になるとは、今の主人公には想像もつかなかった」というようないわゆるナレーションが入ったとしましょう。
これは、一人称の主人公には知り得ない情報であり、それを、第三者がドラマを見ている者に開示したのですから、視点を三人称に移動させた事になります。こうした事を徹底すれば「神の視点」になるのですが、これは原作者がどのように、見る者をどの場に誘導するのかという意思で決まることです。
見る者はあらすじをインターネットなどで得ているとしても、ネタバレはしていないので、完全三人称=神の視点のいるとは言えません。今までに見た部分と多少のあらすじしか知らないのです。それに対して、原作者は主人公やその他のドラマの展開を全て知っています。作品への情報に関して言うと、原作者は見る者に比べて圧倒する自由度もった神の立場にいるわけです。
この原作者の持った圧倒的自由度が「神の視点」ということになるのですが、これが徹底されると、見る方は「天下り的だな」とか「押し付けられている」と言いた辟易感が生まれてしまい、興味をなくし見る気を失ってしまうのです。
その都度のシーンで第三者が入ってきて講釈するのですから、ドラマの流れが切れてしまいます。それでは、興味をなくすのは当然でしょう。
ドラマでは「完全なネタバレの三人称の視点」は禁手なのですが、その兼ね合いをどうするかが采配、脚本の妙味という事になるのでしょう。
続く-
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