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from: 生成門さん
2012年07月26日 17時12分14秒
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三人称の認識の本質と何か?
三人称の認識の本質と何か?
<四次元能版エヴァンゲリオン:知識の共有>
三人称は第三者的で客観的なクールなイメージですが、井戸端会議はワイワイガヤガヤです。会議はワイガヤではないので、井戸端会議とはイメージが大分違いますが、どちらも集合知を持っています。
従って、集合知は精神的身体=文化や組織のモナドの定義から類推すると、御神輿担ぎも集合知が存在するモナドの場であり、イデアが働く述語場であると看做すことができるでしょう。しかし、このような騒がしい集合知が本当に三人称の認識なのでしょう?
だんじり祭り
http://homepage3.nifty.com/danjirinet/
ドラマも視点の自由度という観点からスペクトル上に位置を占めたように騒がしい御神輿担ぎをモナドとして認めるとクールとホットというスペクトル上のホットサイドに位置するでしょう。
ホットな集合知としてのお祭りは現実ですから、一人称の認識のように見えますが、それはその場に参加した人の認識です。そのお祭りを鑑賞する位置が三人称の認識です。
その三人称の認識にも、その認識が発生する場としてみるとクールな場とホットな場があるということです。鑑賞する位置の三人称の認識でありながら、そのホットな場にいると、ついつい巻き込まれてしまい一人称の認識に位置が変容してしまうことがあります。そうでなくても認識は常にウロボロスなのです。
認識のウロボロス(自己回帰)
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100110277201
そういう意味で、ホットな場の三人称と一人称の認識は区別できないことがあるということです。
会議でもクールな場とホットな場があります。国会でもそうですが、クールな場では淡々と議事が進行して退屈ですが、議論が白熱してくると、一変してホットな場となり、激しい野次が飛びかようことになるでしょう。三人称の紳士から一人称の野獣に変身するとも言えるでしょう。
三人称ドラマと同様、集合知にも一人称と区別できない視点の移動が少ないケースがあるのですから、そのことに注意すれば、集合知を探求することが、三人称の認識の本質をより鮮明に浮き彫りにすることが出来るかもしれません。
集合知を利用する場はどこにでも存在するのですが、クール(静か)とホット(ざわめき)として区別するだけでは、三人称の認識の本質を浮き彫りにすることはできないでしょう。クール(静か) な国会とホット(ざわめき)な国会の姿から民主主義の本質が見えてくるとは思えません。
三人称の認識の本質が民主主義の本質かどうかと言うことには疑問があますが、少なくとも、国会の姿から民主主義の本質が見えてこなければならないでしょう。本質が見えてこないというのは風姿花伝に見られる花(幸せ)を咲かせる術がないということでしょうか?
本質を探求するときは常に、イデアが先にこなければならないのです。ですから、政治もイデア政治学とならなければならないのではないでしょうか?
イデアの観点からすると、すべてが花(満足)を咲かせる術であると考えれば、物質文明で咲いた半花(半分だけの花)をイデア化することで本物の花を咲かせることができるのではないでしょうか?
そこで、花(満足)を咲かせる術というのは何か?を明らかにするために、クール(静か)とホット(ざわめき)な場の構造が分かるような対象を探してみましょう。
どんな場なら三人称の認識の本質が現れてくるのでしょうか?
三人称の認識の本質と何なのでしょうか?
第三者的、客観的、神の視点、視点の移動、知識の共有、集合知、クールとホットな場とかいろいろな表現をしてきましたが、結局、何が本質なのでしょうか?
もう一度、一人称の弱点を考えてみましょう。
続く-
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