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from: 生成門さん
2013年08月24日 09時08分46秒
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ピカソの絵を見ても分からない人は独裁者である
ピカソの絵を見ても分からない人は独裁者である
<PS理論との共振>
「人称問題は奥が深い」というか、これまで見えなかったものを簡単に、そして、より本質的な理解を深めるためのフレームを与えてくれるようです。早速、応用してみましょう。以下は、海舌氏の考察を参考にしています。
「アビニヨンの娘たち」と観念的同時
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813931
海舌氏はダランベールの原理(F-ma⇒0)を拡張してΣ{F(i) -a(i)*m(i)}⇒0(MP)としています。ポイントは視点をシグマ化するということにありますが、単純にシグマ化すると三人称のままですね。そこで、一人称に折り畳む必要があります。それの具体的な手法が絵画や科学の分野で行われていることを見てきました。
ポロックからデ・クーニングへ
http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200403157
女を見たかったら波動方程式を解け
http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200403254
一つ一つの視点を合計すれば全体となりますから三人称になります。会議でも意見を出し合って纏めるということをしますが、「集めて総合する」ことは「三人称化=共有化=集合知」することなのですね。しかし、問題も多いですよね。纏まらずに紛糾してしまい、結局、多数決で採択して、それを皆の合意として妥協します。
会議など面倒だという人は独裁者になるしかありません。ワンマン経営者とはそのような人でしょう。通常ではそんな人はいないので会議という場で結論を出して物事を進めます。しかし、人間は本能的に独裁者になりたい願望を持っているのではないでしょうか?
そんな人が面倒な会議という形式をとるとき、その時の一人称はどうなっているのでしょうか? 自分の意見が通らなかった人は不満でしょうが仕方がありません。民主主義とは「妥協の産物」とはよく言われることですが、不満を発生・消滅させる仕組みと理解した方が正しいかもしれませんね。本当は独裁者になりたいのに紳士らしくして、みんなの顔色を伺うしかないのですから、ずいぶん欲求不満が溜まるでしょうね。
狡猾な人は根回しをして結論を誘導するでしょう。独裁者は調整者という仮面をかぶるわけですね。そんな具合に調整され結論が出るのですが、そのような方法と人称問題とはどのような関係になるでしょうか?
先ず会議とは視点の合計する場だということです。意見を集めることが視点を合計することなのですね。意見を集約すれば全体の意見となりますが、それだけでは全体の意思にはなりません。意見を集約するには討論が必要になるでしょう。そして合意に達することが必要でしょう。
従って、会議における視点の合計とは合意に達したということです。民主主義の場合、それは選挙を意味するのでしょう。選挙は視点を合計した結果なのですから合意です。皆が参加した件ですから三人称の意思です。しかし、合意に達したもののそれは不完全ですね。会議は時間の制約があり、十分な論議は尽くせません。どれだけ議論を尽くしても結論を出せないこともあるでしょう。時間をかければよいという訳ではないのですね。選挙だって、それで視点を合計するのですから土台無理な話ですよね。投票用紙一枚で「私」を代行させるのですからね。
確かに理論的に言うだけなら視点の合計=全体ですから無限にやれば成り立つことになりますが、それは絶対的視点=神=独裁者になるということであり、一者の視点で集約することです。しかし、それは絶対に実現することにない視点であり、徒労に終わるものです。現実は理想を求めても実現しない中で進行していく言語ゲームなのですね。
そこで、このようなシグマ化(独裁者の方法)を早々に諦めたのがピカソやポロックだったのですね。ピカソは多数者の視点をシグマ化したのですが、それを三人称としてではなく一人称に折り返したのです。それを一枚のキャンバスに収納したのですね。
三人称のΣ化と一人称のΣ化にはどんな違いがあるのでしょうか?
会議では三人称で決議され、それを一人一人が受け入れるのですから、三人称を一人称として持ち帰ることになります。つまり、三人称を一人称に変換するのですね。それは選挙でも同じです。そして、再び会議で新たな議題について意見を述べ合うのですが、その内容は前回とは異なってきます。次の会議では三人称化された一人称としての意見であり、それはある意味、認識の進歩、学習された認識です。
ここには認識のリサイクル(一人称⇒三人称⇒一人称⇒)があります。人間が生きていくということは、このリサイクルをすることなのですね。これを言語ゲームと言っているのですが、何故、当たり前の事が、今、人称問題としてとり上げているのでしょうか?
それは認識のリサイクルは人間の生き様として当たり前であっても、科学や絵画では当たり前ではなかったということですね。一人称⇒三人称で切断されてしまったとも言えるでしょう。科学は三人称の知を極限化すると神に近づくと信じているのですね。会議なら時間の制約がありますからあきらめますが、科学は諦めることを止めないのですね。芸術もしかりです。しかし、現代の絵画はその事の矛盾を露呈させたのですね。ピカソが言いたかったのは「人間の生き様に従え」だったのではないでしょうか?
人間の生き様から外れた絵画を、本来の姿に元に戻すために認識の循環を絵画という表現方法に取り込んだのではないでしょうか? 古典の絵画は視点を三人称の立場に置いて、固定して、始点⇒対象という形で分離して、対象を正確に再現するという客観的な視点で表現しました。この方法には視点をシグマ化するという手法が内在しているのですね。それを一つの視点で代表させたのですね。すべての人はこう見えるだろうというという視点なのですね。確かに、それを見た鑑賞者は、確かに、そう見えるし、それが現実だと思うでしょう。違和感がありません。むしろ壮言さを感じるかも知れません。これは会議の決議を受け入れた時の状況です。その絵を受け入れたくない人もいるでしょうが、それはそれであり、その絵は三人称としてそこにあるのですね。後は、一人称(鑑賞者)の感性で、「この絵は好きだ。嫌いだ」として鑑賞するしかないのです。しかし、「この絵は真実ではない」として立ち上ったのがピカソだったのですね。
ピカソは視点のΣ化をして一つの視点で代行させるのでなく視点を並置させたのですね。固定して対象を表現しないで多数の視点をシグマ化して、それを一人称として同時に表現したのですね。後は、鑑賞者に「好きなように鑑賞せよ」と言ったのですね。鑑賞者を鑑賞者としてではなく探求者になって「真実を見よ」というメッセージを投げかけたのですね。
鑑賞者がピカソの描いた絵の前に立ち止まった時、どう見るのでしょうか? そこには何を書いているのかという対象が存在しないのですね。視点が沢山あるのですから、まるで結論が出ていない会議の前のような状態ですね。写実派の絵の場合は会議に後のようなもの(結論が出た)ですね。鑑賞者はピカソの絵を見たら自分の視点で見るしかなくなります。自分の視点を入れて三人称の視点を構成するしかなくなります。しかし、それは絶対化することはできません。何故ならピカソは絶対という視点はないというメッセージをその絵から発しているからですね。
これは会議で結論は出すけれども最終の結論ではないという場合に様なものでしょう。仮の結論をしておいて物事を進める方法です。鑑賞者は自問自答するしかないのですね。結論を出すこともできない、先送り先延ばし状態に置かれたのです。もっともそれは本来の自分に戻っただけなのですけどね。それに気が付けばピカソの狙いは成功したと言えるでしょう。ピカソの絵を見ても何の絵かわからないという人は絶対的視点=独裁者の視点で見たい人であり、それが絵にはないのですから見てもわからないのですね。-
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