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from: 生成門さん
2013/10/22 05:28:34
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開かずの間の扉を開けることは岩戸開きになる
開かずの間の扉を開けることは岩戸開きになる
<神の数学との共振:ひふみ祝詞はダ・ビンチ・コードの暗号解読のトレジャーハンティングより面白い>
http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200474985
縄文人は数えることを文化(イデア性=リーラー=楽しむ))として、弥生人は数えることを文明(道具)の基盤としたということですね。その理由は簡単で弥生人は農耕する上で数えることに迫られたのです。保存することは記録することですから数えることが必要になりますね。彼らはそれを手で数えたのですね。
何故、弥生人は手で数えたのでしょうか?
それは手前勝手な発想ですが手で数えた方が物々交換には断然有利ですよね。こうして縄文人は弥生人の中に取り込まれたのです。従って、現代の私達の祖先は弥生人なのですね。これを混血と言いますが、現代では混血化が深くなっているので、誰かがどっちで誰かがどっちとは簡単には見分けがつきません。縄文型と弥生型を簡単に見分ける方法は右脳型(スキゾ)と左脳型(パラノ)と見ればよいかもしれません。或いは、包括・微分・恣意性が強い人は縄文型、断片・積分・線形性が強い人は弥生型と言えるかもしれません。性格類型の話はこの位にしておきましょう。
結論的には縄文人はかなり裸のイデアを持って生きていた民族だったと言えるのですね。リーラー(遊び・戯れ)というイデアを持っていたという説もありますが、縄文人はお祭り好きだったのでしょうね。
リーラーというイデア・モデル
http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100110091639
ところが生真面目な弥生人の倫理は「働らかざる者食うべからず」です。日本人が真面目で律儀で規則に従順、整理整頓、清潔感があるというのは農耕という生活スタイルから来ているのですね。ですから弥生人から見たらリーラーなどはふしだらな態度ということになります。当然、それは農耕民族にとっては危険です。そんなふしだらなリーライデアは「捨ててしまえ」ということになるでしょう。まじめに働くための規範・規律を盾にして、それを縄文人にも押し付けることになったでしょう。これは一種の魔女狩り、イデア狩りであり、リーラーを放棄させてしまったのです。当然、数え歌からも魂は抜け落ち、文字通りの只の歌になってしまったのですね。その恨みつらみが「岩戸閉め」として暗号に隠されているのです。弥生人による縄文人の支配は縄文人にとってはかなりのショックであり、抑圧されたことでしょうね。そのことがさまざまな事件や争いやの火種になったことでしょう。しかし、それがまさか数の恨みが根底にあるとは誰もが想像できなかったでしょう。弥生人にとって働くこと=数えること=善なのですからね。
こうして縄文人は圧倒的な弥生人の中に抑圧されたまま埋没するしかなかったのです。しかし、それでも縄文人はその叡智を神道として残そうとしました。そのために現実生活では九進法そのものは失われてしまいましたが、それを歌(祝詞)として残しました、それがひふみの歌です。その歌に古代(縄文人)の叡智(ひふみ九九算)が隠れているのです。
ここまで述べてきたこと、つまり、縄文人と弥生人の葛藤については四次元能のかってな物語ですが、数には魂があるという説(神の数学の佐藤氏の主張)に依拠しています。これが本当に言えるかどうかを検証してみたいのです。それには「ひふみ祝詞」を解読する必要があります。
四次元能は開かずの間(イデアの世界)の扉を開けることを最終目的としていますが、今、神の数学に触れたことで、その扉の鍵の在処が分かってきたような気がしています。それはひふみ祝詞に暗号としてあるということです。つまり、暗号を解読すれば鍵を入手できるのです。これは神道の専門家でさえまだ誰も理解していないことです。「岩戸開き」とはまさに開かずの間(イデアの世界)の扉を開けることであり、もし、開けることができたなら、失われた数の魂を復活させることになるでしょう。-
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