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from: 生成門さん
2013年11月15日 08時36分14秒
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理性的な態度とはいうが知的な態度とは言わない
理性的な態度とはいうが知的な態度とは言わない
<神の数学との共振:反証可能性だけは凛として守ってもらいたい>
http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200503921
四次元能は排中律の超えた竜樹(道元も含む)を超えることを目標にしていますが、それには知性の塊である古典論理(同一律・矛盾律・排中律)を超えなければなりません。最大の難関は矛盾を超えることです。ヘーゲルが矛盾を超えようとしてのですが無残に失敗しました。失敗したのはヘーゲルではなくマルクスかも知れませんが、それでもヘーゲルには根本的な欠陥があると思うのです。それを示してみたいのです。
ヘーゲルを超えるためには同一律を破らなければなりません。同一律は同一性、同化とも、自我とも関係する生命を維持する基盤です。ですからこれを破るというのは大変なことなのですが、素人なりに厚顔無恥でやってみましょう。
同一律を破ったのはカントだと言いますが、どのように破ったのでしょうか。矛盾を破ったのはヘーゲルですからカントは矛盾を破れなかったということですね。同一律には矛盾が裏にあるという指摘をしただけなのでしょうかね。それなら排中律を示したことになるのですが、その辺の経緯はどうなっているのでしょうね。それを知る手がかりはやはりカントに即して自ら考えるということでしょうね。
ではやってみましょう。
議論が白熱してくるともう少し冷静になろうと言って諌めることがありますね。白熱とは感情的になることで冷静とは理性的になることです。つまり、感情の反対は理性だということになります。しかし、そうなると知性との関係がはっきりしませんね。
冷静沈着な態度を知性的だとは言わないですね。その証拠に理性的になろうとは言っても知性的になろうとは言わないですよね。知性があるとかないというのはその人に付属するものだからでしょうね。
理性的とはその知性を表に出すことを意味します。ですから「理性的になれ」と言われても、言われた本人に知性なければ「沈黙する」しかありません。知性があれば自己主張することが可能なりますが、「知性がある」ことと「我を張る」とはどうやら同じことの異なる表現のような気がしてきました。
自我とは知性の事なのではないでしょうか。知性的とは自己主張の塊の男性に対して言う表現が多いですが、時に女性に対して知性が滲み出ている人だなどと言うこともあります。その場合「滲み出ている」ですので自己主張のイメージはありません。そういうことから自己主張=我を張るではない上品な知性もありそうですね。
知性=自我と決めつけるのは良くないかもしれませんが自己主張が強い人は自我が強いということは言えそうですね。知の側面にはいろいろあるということでしょうね。はっきりしていることは「知性があること=理性がある」ということではないということです。「理性的に振る舞う」というのは明らかに意識的に選択をして振る舞うこと意味しているでしょう。ですから理性的な態度というのですね。知的な態度とは言いませんよね。-
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