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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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from: 生成門さん

2014年02月13日 12時12分07秒

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時間・空間=0が悟りの構造である

時間・空間=0が悟りの構造である<心霊科学=S=道元禅>動的相互作用は陰陽論的な即非の論理を式で表現したものです。即非とは「AでありAではない」が同時

時間・空間=0が悟りの構造である
<心霊科学=S=道元禅>

動的相互作用は陰陽論的な即非の論理を式で表現したものです。即非とは「AでありAではない」が同時に成り立っている論理です。これを式で表現すると


表(陽)の世界=裏(陰)の世界
物質世界=精神世界
俗世界=悟世界

となります。

どうしてこれが成り立つのでしょうか。

空間体積は

F=m {(ΔΔx)/(Δt)^2}
から
F=-m(t^2){1/(x^3+x)}
を求めて、

x^3=–(X^3){1–(v/c)}

を導いた式です。

ここでv=cとすると体積が一点のゼロとなります。体積空間が一点に集約することが「悟り」だということにしたいのです。果たしてそう言えるのでしょうか。

道元禅は無常と無自性が基本です。無常とは止まっていないです。動的宇宙です。更に無自性とは単独で存在するものはない同一性の否定です。関係があるという世界観です。関係を作用反作用とすると

無常+無自性=動的+関係=動的作用反作用

となります。時間と空間の認識は常に宇宙との関係で認識されるのですが、それは宇宙(他者)と自分の二人称として認識されなければならないということです。これは自己⇄他者の動的な関係であり、無常+無自性の別の表現です。

動的作用反作用=自己⇄他者


そこで最終的にどう悟りを構造化するかですが、自己の時間的存在、空間的な存在として表現してみましょう。

悟り(時間と空間)=動的作用反作用=自己⇄他者

時間と空間は分離できませんが、便宜的に区別して表現します。時間も空間も悟りは二人称の悟りです。

時間の悟りとは宇宙の無限の時間と一体となり、時間=0とすることです。これを禅では不非の技法と呼んでいます。これは直線的思考を切断することです。もっと言うと同一性を捨てることです。流れる時間・・・・・・・を一点に集約◉することです。
不非の技法を数式で表現すると、

動的作用反作用の式から鏡面変換して1/Δt=t又はTとして

(T^2)c=t^2(v – c)・・・二人称
Tc=t(v – c)・・・三人称

を求めます。不非の技法は三人称の認識を捨て二人称の(T^2)c=t^2(v – c)を時間認識とするということです。ここで、v=cとするとT=0になりますね。これが不非の技法です。
そしてこれが時間の悟りです。直線的に進む三人称の時間を一点に集約したのです。

空間の悟りはどうでしょうか。

これは既に

x^3=–(X^3){1–(v/c)}

が求まっていますので、v=0とすると
宇宙のすべてtの空間を一点の集約したことになりますので空間体積0が悟りということになります。

これで悟りは

時空=0が悟りの構造だということになりました。

目出度しです。

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from: 生成門さん

2014年02月16日 08時33分24秒

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真に相思相愛の運動を表現するには単なる視点の移動ではなく、時間が空間になり空間が時間になる事が必要なのです。それを実現するのがメービウス変換です。相思相愛は時空相互浸透が必要なのです。恋愛の真実が時空相互浸透だということです。こういう論理はまだ誰も言ったことはないでしょう。

考えて見れば直観では当たり前のことですよね。しかし、直観では分かっていてもそれを数学という形式で表現することができないということでしょう。球体モデルはその一つですが、残念ながらそれは直観とは裏腹に死んだ恋愛の姿を表現してしまいました。


何がいけないのでしょうか。

相思相愛を愛=愛`としたのがいけないのです。「私はあなたを愛する」は「あたしはあなたに愛を与える」です。決して「私は愛する。だから、私は存在する」ではありせん。デカルトでさえ間違ってしまうのですから、凡人である私達だって短絡するのは当たり前です。「だから、私は存在する」と帰結する思考は人間の特性です。人間は本来一人称的でしたが、知性によって三人称化して、スナップショット的思考が得意になってしまったのです。写真が写実である=時間を止めることはその典型的な例です。角度を変えて、つまり視点を変え写しても見た面は変わりますが大したことでありません。運動を取り逃がしているのです。

「私は愛する。そして、あなたも私を愛する。だから、互いに存在する」

このような愛の形が自然です。これを数学的な形式できないといけないのですね。その為には、相思相愛を愛=愛'ではいけないのです。愛=愛'に足りないのは「する」です。つまり動詞がないのです。愛する=愛する‘から相思相愛が成り立つのですね。当たり前のことです。これを数学て表現することができなかったのです。数学というのは人間の直感でわかることを表現できないのですからかなり遅れているのですね。

愛=愛'の方が簡単ですからF1=F2で十分です。十分ですが運動が抜けてしまいます。それで後で動かすのですが、疑似的になります。本物の恋愛でありません。他人の恋愛を動画で見ているようなものです。恋愛をセックスと置き換えればもっと生々しく理解できるでしょう。

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