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from: 生成門さん
2014年10月10日 11時16分39秒
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システムと全体認識
システムと全体認識
<G生命論>
http://www.tetsugakushobo.com/book/099.html
を参考にしています。
2014年10月08日(水)32 tweetssource
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
社会をシステムと考えるとき、その担い手は一個人である。人間は木を見て森は見られないのである。人間はただ生きることで、自己と他者のと境界を決める。その決め方には決して根拠があるわけではない。その生き方=歴史という文脈に依存しているのである。つまり、境界はその都度形成されるのである。
posted at 14:18:52
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
何故、システム問題は全体という概念の問題なのだろうか。
posted at 13:59:07
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
システムは内と外を分ける。だから内+外=全体である。つまり、システムの問題とは全体とは何かの問題になる。生命を生物の抽象化から始めると再生や代謝といった性格を列挙することになる。システムの構成する要素を上げる。それが問題なのだ。
posted at 13:58:04
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
外観法=システム論である。システムは内と外を区別する。この外観法によって生命を理解しようとするシステムの問題がそのまま現われる。システムは徹底して外を排除するが決して出来ない。その為にシステムはいつもリニューアルしなければならなくなる。生命がこんなことをしていたら生きて行けない。
posted at 13:27:09
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生命の抽象化は境界を定める事である。結局生命と外とが相互作用するシステムとなる。コンピュータシステムを例にとる。業務をシステム化するときに先ずやることは定義することである。境界を引き内外を区別する。内が業務、外が入出力である。この方法には問題がある。
posted at 13:01:47
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生命を知るためには動物や植物やその他の生体を抽象化すればよいだろうか。普通はそうする。そのような抽象化は機械システムになる。抽象化は外と内と分けることである。分けることは境界を設定することである。その上で内を生命とする。「これ」が生命「である」というのである。
posted at 12:50:01
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生命を探求するためには生成のメカニズムを知らなくてはならない。生成とは生命の同義だからである。
posted at 12:42:05
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
先入観を捨てると言っても簡単ではない。何が先入観かわからないからである。しかし、それでは困る。内観法は外観法の欠点である不都合な前提を見抜く術を提供してくれる。それは生命という新しい定義、曖昧さのないクリアカットな意味論、三つの視点(ルーツ・秩序・変化)の三角形である。
posted at 12:38:58
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
存在するモノは外と内を分離することはできない。外内を分離するのは外観法である。ここから脱するにはルーツ・秩序・変化の三つの視点が必要になる。しかし、実際に汚染されたモダン思考を捨てるのは容易ではない。何故なら、我々は今現在文明というぬるま湯にどっぷりつかっているからである。
posted at 12:31:20
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
内と外が分離できない存在、それが生命である。そんな当たり前のことを人間は忘れてしまった。その良い例がゴミを外に捨てることである。捨てたはずのゴミがエントロピー増大(温暖化)となって人間を報復する。モダンとは外観法である。
posted at 11:55:40
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生成の原理の第一のルーツは起源であり存在するモノのレゾンデートルである。創業精神は会社それ自体の誕生を意味する。それが物質であろうと生物だろうと社会であろうと世界の中に存在しその外から分離できない。人間は地球の中に存在している。地球は棲家であり地球環境と分離しては生きて行けない。
posted at 11:52:18
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生成の原理とは生命をクリアカットに捉える視点である。それがルーツであり、秩序であり、変化である。企業で言うならルーツは創業精神であり、秩序はあるべきビジネスモデルであり、変化はイノベーションとマンネリ化である。生成を言い換えると正と負のエントロピーの鬩ぎあいと見ることができる。
posted at 11:44:52
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
先入観で汚された生命観から曖昧さをなくして生命をクリアカットに理解するには生成三原則(ルーツ・道理・変化⁾の立つことである。
posted at 11:33:28
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生命の新しい地平が見えてきた。生命を生成する存在として扱うことである。生成する存在とはモノである。存在するモノは人間だけではない。石にも魂があるというのは仏教である。仏教は内観法を重視する。Gは仏教を科学の舞台に持ってきた。仏陀の微笑
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/bookfair/prpjn7.html...
posted at 11:25:58
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
固定観念や先入観を持って予断するな。これが内部観測論である。フッサールの現象的還元=エポケーするのと似ている。エポケーとは判断を停止することである。原発の安全神話とはエポケーしないで即断してしまったことによる間違いである。要するに権威を疑えということである。モダンを疑え。
posted at 10:44:21
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生成の三つの側面は生命として存在する物・者の宇宙に於ける在り様である。この定義なら何でも生命となる。太陽はルーツ・秩序・変化の満足する・だから生命である。こんな解釈で良いだろうか。なんだか目の前が開けた様な気がする。
posted at 10:39:50
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生成の三つの側面(ルーツ・秩序・変化)は生命を見直す切っ掛けになる。これまでの生命の概念(有機体)をばっさり捨ててしまおう。
posted at 10:36:16
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
Gでは物でも生命というのだろうか。ドアのノブは右回りという固定観念を疑えということだ。石ころにはルーツ(岩石}、結晶構造という秩序、風化という変化がある。立派な生命の定義当てはまる。だから石ころは生命である。これは受け入れらいないがGの定義では生命となる。何ともやっかいな。
posted at 10:33:32
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
石ころがある。「ある」というときは不変=同一性を意味する。ある=不変、ない=生成変化として捉えると、どうしてもうまくいかない。生成をどうとらえたらよいだろうか。
posted at 10:33:06
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生命の変化を取り上げる。生成変化するのが生命の本質である。だとすると変化/不変という二項になり、生命でないものは変化しないモノということになる。石ころは明かに生命ではない。しかし風化する。変化/不変という二項ではうまく定義できない。もっと違う解釈がありそうだ。
posted at 10:23:21
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
Gの生命:ルーツ・明かな筋立て・変化
これを機械に当て嵌めてみよう。機械にはルーツ(アイデア)があり、組み立てられ、故障する。全部当てはまる。機械は生命ということになる。そんな馬鹿な。この定義では不十分だ。或いは解釈が違うのかも知れない。先を続けよう。
posted at 10:15:25
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
Gの生命とは何かを抽象化しておこう。DNAを持つモノとは定義しない。
生命とは次の三つの生成的性質を持つ。
1>ルーツをもつ・・・例えばミトコンドリア
2>明かな筋立てがある・・・ランダムではない
3>時間で変化する・・・生々流転
この定義によれば物は生命だろうか。
posted at 10:10:24
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
内観法の独特の言語ゲームスタイルがある。これを知っておく必要がある。我々は余りにも外観法に慣れ過ぎている。この先入観を取り除く必要がある。ドアを開けるときドアの取っ手を右に回すのが習慣になっている。こんなことを疑っていたのでは生活が成り立たない。今はその前提を疑うのである。
posted at 09:55:05
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
Gは生命を捉える方法論として内観法を導入する。どうやって自己を自己として内観できるのだろうか。これが難しい。瞑想は内観法である。しかし瞑想によって意識の生成の仕組みが分かったという事実はない。それをGはやろうとしている。だから禅問答になる。この難関をGはどう乗越えるのだろうか。
posted at 09:48:59
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
生命を外部観測するということは脳を切開するようなものである。つまり生きたまま観測できないのである。これが外部観測の欠陥である。この欠陥を補完するのが内部観測である。
posted at 09:41:59
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
Gの生命物語の出だしは「生命とは生成である」。当たり前のことを最初に言わなければならないのは理由があるからである。どんな理由だろうか。それは生命は外部観測できないという事情があるからである。
posted at 09:40:54
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
人間には生きている現実の生き様がある。全ての生命には個々の出来事の連続がある。生命は事と物で構成される記号ゲームを演ずる。このような生命の側面をGは生成と呼ぶ。それがどうしたっていうのだろうか。当たり前のことだ。当たり前のことを真っ先に言わなければならない理由があるのだろうか。
posted at 09:33:26
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
郡司氏のキーワードは生成Genesis=Gである。だから郡司氏とその生成論を含めてGunsi+Genensis=Gと呼ぶことにする。生成は生命の本質であると言う。生成のどこが生命の本質だろうか。自己生成=オートポエーシス=内部観測だから似ているところがある。
posted at 09:21:14
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
内部観測論者の郡司氏は意識の創発を見るのだろうか。生命論を参考に学んでおこう。
http://www.tetsugakushobo.com/book/099.html
posted at 09:13:13
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
意識の森の恋人たち(岩本氏)についての探求はしばらくお預けにしよう。脳についての理解が足りないからだ。脳の探求は内部観測論が参考になる。ただし、確率が入って来なければの話であるが。気とか負のエントロピーの話は出てこない。これをどうS科学に接続するかが当面の課題である。
posted at 09:09:51
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
意識の森の恋人たちの岩本氏は脳の構造に着目する。構造は機能である。機能は関数だから脳は巨大な意識生成の関数である。そして意識を近接場光(エバネッセント光)に求める。隠れた光であるがこれが脳内で増殖される。その光が意識の担体だというのである。少し短絡的すぎる気がする。
posted at 09:06:20
10月8日@fractaleman68
森のように深い@fractaleman68
心を語る枠組み、概念装置が整ってきた。内部観測論、S科学、PS理論、意識の森の恋人たち、その他である。これらを駆使して物語を続けよう。
posted at 08:47:22-
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