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シムダンス「四次元能」

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公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2017年03月14日 13時56分37秒

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    外部観測のカルテジアンカットを数式表現してみよう。

    外部観測のカルテジアンカットを数式表現してみよう。


    森のように深い@fractaleman74
    外部観測のカルテジアンカットを数式表現してみよう。対象をX1として観測者X2
    とするとX2⇒X1と表記できる。認知・同定はすべてこのようになる。問題はこの認知がどのように正当化されるかである。全くされない。だからX3⇒X2⇒X1となる。つまり次なる同定者(観測者)が必要になる。
    posted at 13:26:36

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    記憶科学の骨子である離散融合更新循環には二人称の内部観測(対話)がある。だから、もはや観測というべきではない。記憶の行為・運動である。いずれにしてもカルテジアンカットの対極にあるのが、記憶の視点だから、外部観測(三人称)にこそ離散・差位への接近方法があるかもしれない。
    posted at 13:17:00

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    外部観測では対象と観測者のカルテジアンカット(分離)する。量子論はこの観測者を演算子化した。この演算子は二人称だろうか。そうではない。演算子は道路の設置された監視カメラのようなものだ。そこには相互作用はない。
    posted at 13:10:36

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    二人称的対話とは内部観測による相互作用のことである。インターアクションだからインター+アクションである。すべてが記憶なら記憶の相互作用ということになる。差位で語ることが記憶の視点だから、内なる相互作用を語ればよいことになる。
    posted at 13:07:12

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    人間の視点を消すためには内部の観測者になるということになった。外部観測では三人称である。外部観測では対象と観測者をカルテジアンカット(分離)することから始まる。記憶科学では離散(ディスクリート)、差位(ディファレンス)である。この違いをはっきりさせて置かないと混乱のもとになる。
    posted at 12:27:24

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    自己との対話は内部観測だから二人称であり、記憶の視点である。記憶の視点での重要な要素は、自己と他者とが離散化していることである。だから、差位だけで語れという。二人称だからと言って二元論的二項対立=差位ではない。離散系は循環を含むから動的相互作用なのである。
    posted at 12:17:53

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    差位だけで語ることが、人間の視点を消したことになる。人間の視点とは人間が外部観測者になることである。世界を対象として、その対象を外から覗くのでる。だから客観的な観測は三人称であり、人間の視点なのである。ならば内部観測はどうかである。
    posted at 12:13:16

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    では、何故、対話が二人称だとして、それが記憶の視点なのだろうか。何故、二人称なら人間の視点を消したことになるのだろうか。記憶科学によれば、記憶の視点とは差位の視点だという。つまり記憶とは差位の事だったのである。そういえば、ソシュールのこの世界は差異だけであると言った。
    posted at 12:06:53

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    外内の二人称は全く関係ないのだろうか。内部の私が私を見るの私は他者である。内部の他者が外部の他者の写しである。外の他者はどのようにして内部に潜入してくるのだろうか。それは私が外の他者の発話を聞く時である。引用する時である。だから、外内の二人称は相互作用的に作動している。
    posted at 11:24:59

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    ちびくろサンボの虎は回転するとバターのように溶けてしまう。これが離散的カオスの状態である。内的二人称とはこのようなイメージである。外的二人称というのは、外の二人称(相手)との対話である。内的二人称は内部のもう一人の私(他者)との対話である。
    posted at 11:06:43

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    私の内部は分裂している。離散している。私と他者という二極に分離され、見合ってる。これが内的二人称の状態である。勿論二者はいつまでも見合っているわけでない。チビくろサンボの虎のように回り出す。
    posted at 11:02:49

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    内的二人称とは、自己問答=内観的瞑想である。私の内部は私である。その内部は鏡である。私が写っている。その私を私が覗く。その写っている私は私ではない。だから、私は私でありながら、私は私ではない(他者)ことになる。
    posted at 10:57:55

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    どうすれば記憶の視点(人間の視点ではない)の立つことができるのだろうか。これは口で言うほど簡単ではない。しかし、ヒントはある。それは二人称の視点である。一人称と三人称の間である。(1+3)/2=4/2=2である。ただし内在的二人称である。ここでまたえっ!となる。内的二人称って何?
    posted at 10:54:24

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶の視点(人間の視点ではない)は情報の視点ではない。何故なら、情報は人間の都合によって価値が決まるからである。これほど人間の視点である視点はない。
    posted at 10:50:28

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    情報が記憶だという定義のどこが間違っているのだろうか。それは情報は人間のエゴのシンボルだからである。「明日は雨になる確率は30%」という情報を天気予報によって知ったとする。このとき情報を得たのは私である。私はそれによって傘を持つか持たないかを意志決定する。つまり、私の都合である。
    posted at 10:45:39

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    今やインターネット時代だ。情報が簡単に検索で入手できる。情報はインターネットという大海原(データベース)記憶されている。だから記憶が情報だと言える。しかし、これは極めて短絡した定義あり、間違ってさえいる。
    posted at 10:41:17

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶とは何かと問わなければ、記憶とは何かをよく知っている。しかし、改まって問うとよく分からなくなる。それが記憶の正体である。
    posted at 10:40:39

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶科学の人間の視点を消した視点が一人称、三人称、客観的、神の視点でもないとすると、では一体、どんな視点なのだろうか。だから記憶の視点である。これではどうどう巡りだ。記憶とは何かである。しかし、これが(定義すること)意外と簡単ではない。
    posted at 10:36:19

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶科学が普通の科学を超越した超科学だとというと誤解されるだろう。それならオカルトやトンデモではないかと。また、神の視点ではないかと。どれもあたっていない。神の視点は三人称=第三者=客観性の極限にある視点だから、人間の視点ということにになる。
    posted at 10:01:36

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶科学は普通の科学でさえ人間の視点だという。では、何故、記憶の科学というのだろうか。科学が人間の視点なら。記憶科学だって人間の視点になるのではないかかという疑問が生まれるだろう。これが俗人が落ちりやすい考えだ。記憶科学は科学を超越した超科学、メタ科学、未来の科学なのである。
    posted at 09:56:16

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶の視点=人間の視点を消した視点≠客観的視点である。俗人はここで躓く。何故、客観的が人間の視点なのかと。客観性の代表は科学(物理学)である。物理ほど人間の視点を消した視点だと思いがちである。ところがこれがとんだ錯覚なのである。記憶科学は科学でさえ人間の視点だという。
    posted at 09:52:23

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶科学から持ちかえった最大の成果は記憶の視点である。記憶の視点とは人間の視点を消した視点である。人間でありながら人間の視点を消すということは至難の技である。単純に考えると、客観的になることがそうであるかのように思える。それが浅はかなのである。もう少し奥深く考える必要がある。
    posted at 09:46:16

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    @MrDzeromugen リツイートが効きませんが拒否されているのですか。
    posted at 09:35:50

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    妥協案として、ツイッターとブログを対比させて、離散的ー連続的という相対化を図ることで、意識を離散化する臨床実験としては成り立つのではないかという作業仮説を立て、チャレンジしているところです。目立った成果があれば報告できると思います。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/840922388313300992...
    posted at 09:34:20

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    意識を離散化するツール(パック化)がツイッターだと言っても見做しツールですから離散の定義からすると不完全です。140文字も連ねることができるのですからね。どうしても文脈を意識して(連続化)しまいます。意識を不連続化したいのに連続化してっしまうというパラドックスは避けれらません。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/840922388313300992...
    posted at 09:29:41

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    離散的カオスの場(私の内部)が内的二人称であり、その内部を取り出して(差位化して)外へ出す。これがツイートするという意味です。ですからツイッターは離散化された想いを外部化する装置です。想いは記憶の喚起のことですから、ツイッターは記憶の外部化するツールです。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/840922388313300992...
    posted at 09:20:39

    3月13日

    森のように深い@fractaleman74
    ツイートとは呟くことですね。想いの呟きです。心の中を外に吐き出すことです。吐き出す単位=粒=差位です。痰や唾のようなものです。中は離散的カオスの場と言って良いでしょう。内部は私です。私が私を見ているのです。私は私(他者)です。だから内的二人称です。外の他者との対話ではありません。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/840922388313300992...

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