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from: 生成門さん
2017年04月24日 11時59分47秒
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有時を数学する
久しぶりに大発見をした気分です。
数学者の岡潔が主観的な時は存在するが、客観的な時間は存在しないと言ったことに疑問を感じたので、ここずっと時間を探求していました。
www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page254.htm...
その閃きが来たのです。
幼児に風呂から上がる時に数を数えさせることがあり、それが時間の本質ではないかと直感したのです。
風呂の時に数える時こそが、道元の言う有時ではにかと気がついたのです。数えるでなく、歌うでもよいの良いのですが、その時とその場の関係が有時なのです。
現代では数えることは時計がやってくれますが、古代では日時計で数えていたのです。数えることは太陽がやってくれましたから、それを写せばよかったのです。
数えることが時であると大発見したと大見得を切ったのですが、大嘘かも知れません。そこで、これが嘘ではないことを、超難解と言われる道元の有時を簡単に説明することで証明してみたいと思います。
道元を理解する良い機会でもあり、頭の体操と思ってやってみます。頭の体操とは精神革命の臨床でもあるのですから。
道元の言ったことを意訳すると次のようになります。
ある時には富士山の頂上に立ち、ある時はサーフィンをして、ある時はバッターボックスに立ち、、ある時は英雄となり、ある時はトロを食べる。ある時は太郎となり、ある時は雷となる。
この有る時が○○であるという文章を、時間は存在であり、存在は時間であると訳すと時間=存在となり、t=xとなり、1=cとなり、vが一定なのは光cだけですから、有時とは光だけとなります。
しかし、道元はすべての存在が時であると言っているのですからこの解釈は間違いです。
有と時はセパレートできる関係ではなく、相互に浸透していると考えます。ですから有*時です。
時 ⇔ 有(存在)
ーーーーーーーーーー
ある時*富士山の頂上
ある時*サーフィン
ある時*英雄
ある時*バッターボックス
ある時*トロ
ある時*太郎
ある時*雷
と解釈します。
一般化すると
有時=x1*t1=x2*t2=,,,=xn*tn
です。
xn*tn=有事=1とすると
xn*tn=1
ですが、任意の場合でも成り立つので
x*t=1
t=1/x
となり
x(1/x)=1
となります。
なんと有時はメビウス変換の事を言っていたのです。
この式を応用して、道元の難しいテキストを理解してみましょう。簡単に理解できれば、大発見を証明したことになります。
有時とは至ることは到ることに覆い尽くされ、到らないことには覆い尽くされない。到らないことは到らないことに覆い尽くされ、到ることには覆い尽くされない。
かなり難しい文章ですが、ここには仏道の基本的概念が含まれています。そこで、意訳すると、
目的達成と未達は互いに邪魔することなく、常に両立すると解釈できます。ですから
達成=達成
未達=未達
であり、両辺を掛けると
達成*未達=達成*未達
なので
達成*未達=1
未達=1/達成
x(1/x)=1
となります。
更に、道元は言います。
心は心を覆い尽くし、心の他のなにものでもない。
心=心
心にないもの=心にないもの
従って
心(心でないもの)=1
x(1/x)=1
更に道元は言います。
言葉は言葉を覆い尽くし、言葉のほかの何者でもない。
言葉(言葉でないもの)=1
x/(1/x)=1
更に道元は言います。
我が人に会い、人が人に会い、我が我に会い、出ることが出ることに会うことと同じである。これらのことがすべて時でないでないならば、そのようなことは起らない。
我(人)=人(他の人)=我(我の中の他人)=出る(出ない)=有時=1
x(1/x)=1
xt=1
x=1/t
超難解と言われる道元のテキストを数学することで、簡単に理解できるようになったと思いますが、皆さんは如何ですか。
重要なことは
x=1/t
のような式は自然言語でいくら考えても出てこないということです。
道元はどのようにこのような発想を得たのでしょうか。それは仏教の神髄である
色即是空・空即是色
にヒントがあります。道元はこの逆説的表現に着目して、二つに分解したのです。
色=空
空=色
です。
しかし、常識的な発想では、色は色である、ないもの(空)はない(空)ですから、
色=色(ある)
空=空(ない)
です。普通ではここから先には進めないのですが、
二つを掛けて
色空=空色=1
として
色即是空・空即是色
に再構成したのです。
つまり、仏教の神髄とは逆説=メビウス構造だということですね。
又、仏教では悟りとは「今・ここ」の心(平常心)ですので、
ここにもメビウスが隠れていることを、道元は発見したのです。
今・ここ=平常心=悟り=1
今=1/ここ
であり、今は時、ここは存在するものがある場所ですので、有です。
今ここ=有時=1
です。
一方で、色空=1ですから、空=1/色として
1/色は存在の否定ですから存在しないということですが、今ここの刹那に於いて存在しているということが言えます。
従って、
ここに存在するモノ*刹那の時=1(悟り)
色*空=1
色=存在=有
空=時(刹那の時)
ということになります。
平常心の悟り
ここ今=1
と、色即是空の逆説から
色空=1
の両方から、ここに存在するモノは有であり、刹那の時(今)は空であり、
有時=1
と結論付けたのだと思います。
道元は数学者ではなかったのですが、瞑想によって、メビウス的逆説的構造に気が付き、そこから数学的な構造を自然言語で何とか表現したので、訳の分からない超難解テキストになってしまったのだと思います。
多くの道元の解説は堂々巡りばかりで、何を言っているのかが分からないのはメビウス構造が隠れていることに解説者が気がつかないからだと思います。
それに気が付けば、こんなに単純な式で表現できるのです。
道元が数学的素養がないにもかかわらず、メビウス構造を自然言語で表現できたことは驚くべきことです。それは道元の脳が宇宙の数学的なメビウス構造と共振し、テキストとして反映したということです。このテキストがその証拠になるでしょう。
以下、精神革命の臨床をご賞味ください。
2017年04月23日(日)9 tweets
source
9時間前
森のように深い@fractaleman74
道元の有時がメビウス変換なら、
xt=1
t=1/x
から
今(t=0)はここ(x=∞)となる。
つまり悟りとはテレポートである。
これは重大な発見である。
posted at 23:35:41
10時間前
森のように深い@fractaleman74
道元の有時はメビウス変換である。
有時=今ここ=一定である。
xt=1
x=1/t
x(1/x)=1だから自己同一性である。
posted at 22:46:55
10時間前
森のように深い@fractaleman74
今ここ⁼平常心を数学するとどうなるだろうか。平常心とは揺らがないということである。つまり一定である。だから、今ここ=一定である。それをxt=1としてみる。x=1/tとなる。なんとメビウス変換である。x(1/x)=1だから自己同一性である。
posted at 22:43:24
10時間前
森のように深い@fractaleman74
今の延長に未来があるから不安がうまれる。それを避けたいのが仏教である。だとすると「今=ここ」の解釈は間違いである。「今ここ」は有時であり苦を取り除くロジックである。だとするとx=tでは駄目である。今ここが悟りでなければならない。悟りとは平常心である。今ここ⁼平常心である。
posted at 22:38:38
10時間前
森のように深い@fractaleman74
「今ここ」を数学してみよう。今=t、ここ=xである。「今=ここ」と解釈するなら、x=tである。風呂に入っている時は今ここである。そんなことを道元は有時といったのだろうか。x=atとすると、x/t=a=vとなり物理と同じことになる。これはおかしい。
posted at 22:33:27
10時間前
森のように深い@fractaleman74
有時を数学できるだろうか。仏教では今ここが重要である。未来に思いを馳せると不安が生まれ、過去は後悔ばかりである。だから、それから解放されるためには「今ここ」に心を停留すべきということになる。これは微分思考である。
posted at 22:22:38
10時間前
森のように深い@fractaleman74
道元の有時を岡潔は運動は過ぎゆく記憶は時であると言った。ここまでは素晴らしい。しかし数学者である岡潔がこれを数学できなかった。岡潔は仏教を重要視していたのだから有時を数学するべきだったのである。しかし、そうしなかった。その大きな原因は岡潔にトポロジー的発想がなかったからである。
posted at 22:18:06
11時間前
森のように深い@fractaleman74
何かをする何かが存在する。この何かを存在とすると存在する時である。風呂に入る時は私が風呂に入る時である。だから私は時である。存在とは有限の存在である。だから存在は有である。だから有時である。このような論理を組み立てたのが道元である。
posted at 22:09:37
11時間前
森のように深い@fractaleman74
時間とは何か。これほど定義するのが難しいものはない。なんとなくは分かるが見るこことができないから説明が難しかしい。しかし、風呂に入る時に数を数えることが時間だというなら合点が行く。風呂に入る時は風呂の時である。風呂を一般化すると、何かをする時である。当然何かをする何かが存在する。
尚、時は存在するが時間は存在ないことへの反論はこちら
http://twilog.org/fractaleman74/date-170422-
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