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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2008年07月02日 15時05分29秒

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    春は夏にならない

    春は夏にならない<ティトムの共振>以下はhttp://momloveu.com/titom-j/index.files/Page897.htmオデッセ

    春は夏にならない
    <ティトムの共振>

    以下は

    http://momloveu.com/titom-j/index.files/Page897.htm

    オデッセイ2の編集的引用です。

    何故地球が丸いのかを科学は説明できていません。四次元能はティトムによって導かれ、「丸さ」は界面張力が生むと主張するのですが、それが認知されているわけではありません。四次元能は「世界は解釈である」と考えます。そう解釈することで人類の絶滅を回避できる四次元脳を持てるからだと信じているからです。それは揺らぐこともあるでしょう。しかし、トレジャーハンティングは続きます。

    「丸さ」を生む界面張力は、現味の科学が認める四つの力には含まれません。第五の力なのです。第五の力の源泉は電子です。この電子には軌道があるのですが、綺麗な軌道は見かけであり実際は雲=不確定なのです。

    以下の原子の構造は「希土類元素の物理化学」から引用しました。

    http://staff.aist.go.jp/a.ohta/japanese/study/REE_ex_fc1.htm








    経営の専門書に不確実性の時代という著書(ガルブレイス)があります。世の中が読めないという意味です。KYという言葉が流行っていますが、まさに不確実性の時代の象徴です。私達の常識では不確定とは「そうであるかないか」を予測できないこということです。「生きるべきか死ぬべきか」は不確定です。ですから悩むのです。でも、電子の不確定とは電子が悩むわけではないでしょうから、「あるべきかあらぬべきか」は電子を見ている人間が悩んでいるのでしょうか。まさにその通りです。私達は未来に対して不確定なのです。ですから、不安になり、予測したり、占いに頼ったりするのです。

    未来に対して不確定とはどういうことなのでしょうか。この未来に対して不確定という心理は、時間に関わる大きな錯誤から生まれてきます。全てには因果があります。これが解決すれば、人類の悩み、問題は殆んど解決すといっても過言ではないでしょう。

    常識の時間=三次元では春が終わると夏になります。「春の後は夏になる」は確定的です。これが私達の世界観です。しかし、道元は「春は夏にならない」といいます。全ての悩み・不安は因果から生まれるというのです。未来は「春は夏になる」という確定的なことばかりではありません。一寸先は闇とも言います。未来は不確定なのです。これは時間に関わる錯誤から生まれてきているのです。どこが錯誤なのでしょうか。過去は確定しています。未来は半不確定なのです。これは時間が川の流れのように上から下に流れるということを前提にしているから帰結されるのです。川の流れは紆余曲折しますが、時間は「光陰矢の如し」です。時間は光のように真直ぐに進むのです。これが私達の思考の基本です。
    しかし、本当に時間は光のように真直ぐに進むのでしょうか。光もまた真直ぐに進むのでしょうか。時間が光のように真直ぐに進むだけならば、現在に生きるしかない私達にとって未来は半不確定ならざるを得ません。

    では、何故、道元は「春は夏にならない」と言ったのでしょうか。何故全ての悩み・不安は因果から生まれると言ったのでしょうか。何故、悩みから開放されたければ時間を切断しなさいと言ったのでしょうか。これについては既に答えを出しておきました。

    二人のシムダンスパートナーを参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069967096

    以下引用です。

    このクラインの壷を使えば、道元の「春は夏にならない」という意味が簡単に分ります。春は夏になるのは主語論理=因果です。春が過ぎれば夏になると言う時間の経過があります。三次元の世界では春と夏は同時には存在できません。春と春、夏は夏なのです。これが自己同一性です。一方、春は夏にならないというのは四次元世界のことです。四次元世界では裏と表が繋がっています。裏は表なのです。春は夏なのです。春=夏なのですから、「春は夏にならない」のです。これは三次元の経過する時間とは違うのです。有る時=有時です。つまり、表と裏は共に固有の有時という時間回廊で繋がっているのです。共に在る有時=春の固有の時間=夏の固有の時間なのです。共に在る有時=時間が述語なのです。述語の共通性をもって同一視するのです。これが述語論理です。述語論理は異なるものを同時に存在させるような、或いは、瞬間移動させるようなマジックです。三次元から見たらマジックとしか表現できないのです。春と夏は共に存在するのですから、春=夏であり、「春は夏にならない」のです。クラインの壷は直線ではないのです。確かに直線部分はありますが、その周りを回転する渦で巻かれています。木に絡みつく蔓です。木と蔓が交差しながら反転するダンスをしているのです。
    ---
    電子が不確定であるというのは、私達の世界が三次元ですから、不確定に見えるだけなのです。電子はクラインの壷が軌道です。見えたり見えなかったり=点滅するのです。電子の点滅を春(点)と夏(滅)とすれば、春が夏になるというのは点滅ということになります。これが三次元世界です。四次元世界では点滅が繋がっています。点と滅は同時に存在しているのです。ですから、述語論理的には滅は点なのです。点=滅(同時に存在)なのですから、「点は滅にならない」のです。これは三次元の経過する時間とは違うのです。有る時=有時です。つまり、点滅は共に固有の有時という時間回廊で繋がっているのです。共に在る有時=点の固有の時間=滅の固有の時間なのです。共に在る有時=時間が述語なのです。述語の共通性をもって同一視するのです。これが述語論理です。点滅は共に存在するのですから、点=滅であり、「点は滅しない」のです。

    行ったきり戻ってこない人のことを鉄砲玉といいますが、要するに当てならない不確定の人の性格を評したのです。電子は鉄砲玉=不確定ではないのです。キッシンジャーは神出鬼没で姿が見えなくなったらと思いきや突然現れる不確定政治パーソンでした。つかみどころがない透明人間のようでした。所在を掴もうとすると動きを見せず、動きを掴もうとすると、所在が分からなくなるのです。これが三次元から見た電子の姿です。キッシンジャーは電子人間だったのでしょうか。

    サッカーのゲームでお目当ての選手の動きとポジションを同時に追い掛けると選手を見失ってしまいます。そこで動きを優先して観察するとどこにいるのかがぼやけてしまい、ポジションを優先して観察すると動きが分からなくなるというジレンマに陥ります。野球でも、バッターがボールのスピードと打つべきポイントを同じに追い掛けるとボールが見えなくなってしまいます。ボールの早さに意識を集中するとポイントがずれてしまいボールを捉えられないのです。反対に打つポイントに意識するとスピードに合わずタイミングがずれてしまいボールを捉えられなくなります。いずれにしても線で打つか点で打つかの選択しかないのです。こういう例は沢山あるでしょう。

    道元も「一方を証するは、他方は暗し」といっています。つまり、居所と動き、ポジションと運動、ポイントと早さは同時に確定出来ないのです。これが不確定性の原理の隠喩的説明です。電子の場合は、その運動量と位置エネルギーを同時に確定できないというものです。

    不確定性の原理を克服することは三次元の世界ではどうにもならないものです。しかし、道元は、それは迷である。自我が邪魔をしている。自我を解体して、四次元脳=クラインの壷=述語思考を持ったスキゾ人間になれば不確定性の原理=不安・悩みは乗り越えられるというのです。自我とは三次元時間を土台に置いた因果の世界に堕ちた悲しいパラノ人間のことです。

    不確定性原理の克服=悟り=四次元という図式が道元によって発見されていたというのは驚きです。しかもそれは乗り越え可能であるというのです。不確定性原理は世界万事塞翁が馬で克服してみましょう。しかし、悟りを得るのは簡単ではありません。何せ、常識との戦いであり、パラノとの戦いであり、多勢に無勢でもあります。四次元の電子を取り押さえるのは鶴への恩返しどころか仇になってしまいます。さて、どうしましょうか。とりあえず、先に駒を進めてみましょう。

    地球では、地球自身を含めて、水滴、シャボン玉、風船と丸い形が多いですね。太陽系でも、惑星と丸い物で溢れています。このように丸い物で溢れている裏には、丸くなろうとする何かの力が働いていると思いませんか。そうです。その力が界面張力なのです。身の回りの水滴から始まり、中性子星まで、電子由来の界面張力が働いているのです。このような仮説を出せるところが四次元能のティトムの真骨頂です。

    電子とは何なのでしょうか。電子は何故界面張力を発現させるのでしょうか。それがどうして丸い形になるのでしょうか、それが何故、脳の発生に繋がるのでしょうか。こんな疑問に本当に答えがあるのでしょうか。何故とは問わない科学では、こういう風にはいかないでしょう。いけないといった方が良いでしょう。巨大宇宙、微少世界では信じられない現象が起きています。検証可能な現象だけを対象にするのが科学であるといっても、スケールの違いは如何ともし難いようです。不確定性というのは、そういう科学に限界を突き付けているのではないでしょうか。私達に身近な電子が宇宙の本質に関わっているなどというのは驚きというより、何故もっと早く気がつかなかったのでしょうか。そんな気がします。

    ティトムの主張を以下に要約しておきます。本当は断定調では言えないのですが、シムダンスの勢いで断定調にしてしまったようです。

    ・電子を知ることは宇宙を知ることである。
    ・ビッグバン時のその外に電子があった。
    (ビッグバン論では電子由来は不明)
    ・最大界面張力は事象の地平にある。
    ・事象の地平の内/外では、物質の状態が違う。
    ・内/外では流れる時間も違う。
    ・宇宙に固体は存在しない。
    ・ニュートリノから見たら固体でもスカスカである。
    ・ビッグバン以前には辿れない。
    (ビッグバン論では光を基準にしている)
    ・ビッグバン以前もあった。
    (光以上の存在も必ずある)

    こうしてビッグバン説では解けない謎解を四次元能=ティトムとの共振では、いとも大胆に推理していくのですが、それを納得できるものにするには光以上の存在を示さなければならないでしょう。今はまだ、それを示す時ではないのですが、それは光とは似ても似つかない姿をしているでしょう。そして、それは、例えば、星が球状であることの中にヒントが隠されていでしょう。丸い形が世界の鍵であるとは思いもよらなかったのでしょう。よくよく考えてみると、円というのは深遠な真実を含んでいるのかも知れないのです。

    例えば、直線があるとします。直線の端はどこになるでしょうか。端を決めるとその先が出てきてしまいます。だから無限は直線では現実を示さないのです。この直線を丸めるとどうなるでしょうか。当然、無限が垂直方向の天で一点になります。直線を平面に置き換え、丸めると球になります。こんな簡単なことで無限が解決できるのです。無限というのは現実的ではないのです。ビッグバンの欠点は一点から始まって直線的に拡大するとしたことにあると思います。ですからビックバンは円にならなければならないのではないでしょうか。

    仏教でも無限はありません。円は道元でも出てきます。道元禅は、ティトムと同じく円を大事にします。道元において「悟り」とは、円月相です。円月相とは満月輪のことです。坐禅している姿であり、透脱した姿です。円相は姿が消えた様ではなく、坐禅の姿そのものなのです。

    詳しくは「道元の悟り」を参照してください。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/dogen/do-sato2.html

    これからも分かるように、丸い形が悟りを象徴していることが分かります。象徴というより真理そのもの形でしょう。何故真理が丸くなければならないのでしょうか。丸みには定常宇宙論と同じ即非構造(陰陽のバランス、対称性)が見えるのです。だから円なのでしょうか。道元の当時、地球が丸いとは分からなかったでしょう。身近なところの円といえば月です。ですから、悟りのメタファーとして月が選ばれたと思うのです。欠けた月ではなく、満月輪、即ち満月の丸い輪でなければならなかったのです。更に重大なことを発見しました。円相は姿が消えた様ではなく、坐禅の姿(透脱している姿)そのものです。このテキストの意味がそうなのです。月は、一部が欠けたり、昼は姿が見えなくなったりします。しかし、それでいて姿が消えたのではなく、見えないだけです。透脱している姿とは自我が解体されていることです。それで見えなくなっているのです。見えないからといって、姿が消えたのではありません。これって電子の姿に似ているではないでしょうか。ここにも不確定性の原理が顔を出しているのです。偶然ではないように思えます。真理というのは、必要ならば顔を出すのです。

    この幕の結論です。

    ・理由のない存在は存在しない。
    ・宇宙が存在しているには理由がある。

    その理由を探しに行こうではありませんか。それがトレジャーハンティングの醍醐味です。

    ・界面張力は身近に見られる現象である。
    ・宇宙と宇宙にも界面がある。
    ・宇宙は複雑な界面の集合体である。
    ・大脳宇宙も界面がある。
    ・大脳出現に約10億年は必要だった。

    大脳は何故、右と左脳の二つに分離しているのでしょうか。何故脳幹という中心があるのでしょうか。更に、何故神経は、体の中心線を境にして右と左が交差しているのでしょうか。何故意識があるのでしょうか。脳に関しては、分からないことだらけです。脳科学がどれだけ発展しても、このような問いには答えられないだろうと思います。四次元能は、その可能性を求めてのシムダンス=トレジャーハンティングです。

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    from: 生成門さん

    2008年12月21日 19時49分25秒

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    「Re:Re:春は夏にならない」>星は何故丸いんだろう??>誰に言われた訳でなく>強制さた訳でもないのに>何故みんな「丸なんだろう?」>それとも初めか

    from: hanahanaさん

    2008年12月21日 17時35分28秒

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    「Re:春は夏にならない」星は何故丸いんだろう??誰に言われた訳でなく強制さた訳でもないのに何故みんな「丸なんだろう?」それとも初めから星は丸くなるよ

  • from: 生成門さん

    2008年07月21日 16時55分58秒

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    ティトムは混ざりやすく流れやすい

    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/ティトムは混ざりやすく流れやすい<ティトムとの共振>ティトムとは時間原子ということに


    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    ティトムは混ざりやすく流れやすい
    <ティトムとの共振>

    ティトムとは時間原子ということになりました。宇宙にはとんでもない時間がありそうです。早い時間、遅い時間があるならば、時間が止まってしまうこともあるのでしょうか。光が出てこられない事象の地平面では、光はどうなっているのでしょう。光速が、徐々にゆっくりとなり、ついに、止まってしまうのでしょうか。光が止まれば、時間も止まってしまうのでしょうか。

    道元が有時を切断せよと行ったのは、時間を止めてしまえと言ったのでしょうか。問いだらけ済みません。問いこそが悟りの条件です。気を高めて続けましょう。

    オデッセイ6からの引用続きですので、詳しくは下記を参照して下さい。
    http://momloveu.com/titom-j/index.files/Page926.htm

    現在の宇宙論では光が出てこられない事象の地平面では、光は止まっているといいます。しかし、ティトム流にはブラックホールに向かって流れているとします。これは、どういう意味なのでしょうか。ティトムとは光を運ぶバケツです。その光には、まるっきり反対の双頭の光があります。プラスとマイナスの時間をもった仮想原子です。方や秒速プラス30万キロで走る光、方や秒速-30万キロで走る光があるということです。
    宇宙の法則が全て対称性であるとするならば、光も反対の光があってもいいでしょう。実際に光子の反物質は光子です。

    双頭の光ですからいつも一緒です。しかし、どちらかしか顔を出せないのです。マイナスの光が走っている時は、プラスは引っ込むのです。ティトムが検閲しているのです。ティトムがブラックボールの中心に向っているときは、マイナスが主役となるでしょう。プラスは引っ込んでいます。つまり、停止しているのです。

    私達の空間では、プラスが主役です。マイナスは隠されてしまうので、プラスの光が秒速30万キロで走るのです。マイナスの光は止まっているのでしょう。

    この双頭の光を運ぶティトムはホワイトホールから噴出されます。ティトムが噴出する時、見かけ上光は30万キロより早くなります。それは、事象の地平面では斥力が働くからです。これが反重力の正体です。これによって空間が歪むのです。空間が歪むと時間が加速されます。それで、見かけ上光は30万キロより早くなるのです。

    これを追求していくと、赤方偏移のナゾ解明できるでしょう。クェーサーのジェットの噴出口からも双頭の光を運ぶティトムが噴出しているでしょう。まとめると、このティトムは二つの光を伝える媒介者であり、二つの光とはプラスとマイナスのフォトン(光子)です。このようなティトム流の考え方は宇宙の法則=対称性=バランス性を体現しています。

    光子について要約しておきます。

    ・光子は質量も電荷もありません。
    ・光子は崩壊しません。
    ・光子の反粒子は光子自身です。

    さて、ここからが四次元能前半の最大の山場です。果してこの高い山を征服できるでしょうか。ティトムティトムティトムと連呼してきましたが、ティトムとは一体何者なのでしょうか。ティトムの姿を明確にしておきましょう。

    四次元能がティトムをシテ(主役)として登場させたのは、三次元の世界には不思議な現象があるからです。その一つが不連続現象です。例えば、幽霊です。幽霊は三次元的物質ではないのに私達の世界に割り込んできます。そこには連続性がありません。人が蒸発するとかバブルが弾けるとかの三次元的不連続現象とは違います。今日の自分と明日の自分は明らかに連続しています。しかし、意識と物質はどう考えても不連続です。この不連続の代表に不確定原理という妖怪がいるのです。精神と物質を手なずけることができていないのですが、この不確定原理を手なずけなければなりません。精神と物質の不連続は科学が手におえないのです。かといって宗教や哲学がなんとかしてくれるあてはありません。これを何とかしなければ温暖化防止は無理なのです。そこで、科学の世界で問題となっている不連続現象=不確定性を先ずは手なずけにいきましょう。

    不確定性(迷子)とは目を離したらどこに行ってしまうのか分らない幼児の動きのことです。幼児は玩具の虜になって親の目を離れます。電子はつかみどころがないため、雲のようにぼんやりとしているのです。電子を雲にしてしまっては四次元能=シムダンス=トレジャーハンティングを台無しにしてしまうでしょう。どうやって幼児を仕付けるかです。

    そのために、先ず、電子の仕付け係の四次元能のシテ=ティトムのキャラクターを確定しておきましょう。

    1.仮想時間原子
    ティトムとは、宇宙時間を運ぶ原子です。仮想時間原子とします。

    2.「混ざりやすさ」、「流れやすさ」
    ティトムは、宇宙にある物質やエネルギーの「混ざりやすさ」「流れやすさ」を生み出します。

    3.プラスとマイナスの二極
    ティトムにはプラスとマイナスの二極があります。

    4.液体
    ティトムは液体のようなものです。ただし、ガスではありません。不確定性原理が液体の混ざりやすさをつくります。電子サイズでは液体もスカスカなのです。

    5.混ざりやすさ
    不確定性原理によると「同時に二つの状態は取れない」といいます。この原理は、混ざりやすさを定義しているのです。ティトムもこれを受け入れます。

    6.超流動的、超浸潤性
    ティトムには超流動的、超浸潤性という性質があります。

    6.粘性
    ティトムはより強く「混ぜ」させようとします。マイナスの流れ(正負に空間がゆがんでいるような場所で)では、粘性(事象の地平面で光を止めたような)としても現れます。

    以上のティトムのキャラクターが決まったところで、不確定性原理の手なずけに行きましょう。すべてを連続させようとすると不確定性原理の壁があるというのが量子の世界です。悟りの世界でも、同様です。しかし、ティトムを登場させたのですから鬼に金棒です。ティトムは空間の浸潤性、浸透性でその壁を乗り越えるのです。ティトム人間がいるとすれば透明人間なのでしょうか。

    ティトムキャラを派遣すれば、時間はどの場所でも連続して混ざり続けます。電子が突然に現れたり、消えたりして、神出鬼没だとしても、その生滅の範囲は、ティトムの手に内にあります。つまり、連続しているのです。不連続とは見かけの上のことなのです。隠れんぼをしているようなものなのです。

    ティトムを武器にすれば、電子、光子、電磁波、重力などの双頭の蛇共は、見かけは不連続ですが、連続化して捕まえることができるのです。いろいろある粒子の中でも、ヒッグス粒子は重要です。現在の素粒子論では、何故、物質に質量があるのかを説明できていないのです。それをヒッグス粒子によって説明できるのです。現代の物理学者は必死になって、これを探し求めています。だが、まだ発見はされていません。これが見つかるかどうかは素粒子論の命運がかかっているのです。

    四次元能では、ヒッグス粒子はティトムの性質を持っていると予言(期待)しています。さぁ、どういうことになるでしょう。ブラックホールからは光が出てきません。だから不連続な空間であるように見えます。しかし、ハッブルの見せてくれた世界にはジェットがあり、猛烈に物質が出てきています。つまり、不連続な映像は無いのです。ブラックホールが連続であるといえるのは、ティトムが空間の浸潤性を量子化したからです。量子化とは、アナログをデジタルに変換するようなイメージです。

    大分、長くなってしまいましたが、宇宙が一様に連続して混ざっているのには、それなりの理由があるということです。
    ですから、その理由を探しに行こうではありませんか。

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  • from: 生成門さん

    2008年07月20日 23時10分23秒

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    ティトムとは時間原子

    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/ティトムとは時間原子<ティトムとの共振>シムダンスは、道元とティトムの螺旋的絡みで編

    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    ティトムとは時間原子
    <ティトムとの共振>

    シムダンスは、道元とティトムの螺旋的絡みで編集的瞑想を実践し、宇宙の法則を明らかにします。瞑想とは何でしょうか。道元禅では、座禅、黙想して、非思量を思量(思考)するといいます。しかしシムダンスでは座禅的黙想はしません。ただし瞑想はします。シムダンス流の瞑想には、述語思考の瞑想(所謂禅の瞑想)とインターネット禅という瞑想があります。

    インターネット禅とは、インターネットを使った述語思考の瞑想です。四次元能は脳の中の能であり、四次元脳への変革を目指しています。つまり、四次元脳とは世界は解釈=編集であるというスタンスなのです。四次元の世界観を解釈=編集して構想するのです。その中でインターネット禅は編集的思考=述語思考瞑想をするのです。インターネット禅については改めて詳しく述べます。

    四次元の世界観(シムパラダイム)とは宇宙の法則であり、宇宙精神であり、それを明らかにすることが、悟りを明らかにすることになるというのが四次元能の基本となる考え方です。つまり、宇宙の法則とは述語的同一性仮説=述語論理により、非思量を思量するのです。インターネット禅でそれを三昧(検索・編集)するのです。これが編集的瞑想なのです。

    述語的同一性の仮説とは、即非的なものの共生=矛盾的自己同一性が悟りであるという西田幾太郎の立場です。この仮説を推し進めていくと大脳には宇宙の法則があるという結論になるのですが、その結論を求めてのハンティングがシムダンスなのです。宇宙にはあらゆるものを生成する原理があるとして彷徨います。もしそれが正しいとすると大脳は宇宙なのです。それならば悟りも宇宙の生成物ということになります。この仮説を信じてティトムとの共振をスタートさせたというわけです。

    ティトムはfatacy氏のオリジナルです。シムダンス=四次元能を主催している生成門は量子論も天文学についても素人です。ですから編集的な引用をしてなんとか凌いでいきます。ティトムはオデッセイとテラーの二部構成であり、それぞれ1から25まであります。どのテキストも難解ですが、独断解釈でシムダンスを舞いながらトレジャーハンティングの旅を続けています。このブログに訪れた皆さんは、少なくとも、悟った人=シムピープルになりたい、或いは温暖化防止に関心のある人でしょう。ですから、皆さんはシムハンター(菩薩)という位置づけです。

    さて、前置きが長くなりましたが、今回の舞台は、オデッセイ6です。重力赤方偏移がテーマです。道元から突然重力赤方偏移などという物理の専門用語が飛び出すので戸惑うでしょうが、これも脳が宇宙の法則に従って生成したのですから止むを得ません。できる限り簡単に説明しますのでお付き合いください。

    赤方偏移というのは、天体を観測したらほとんどの天体から発する光が赤の方にずれていたというのです。つまり、その天体は地球から遠ざかっているということになるのです。この観測によってビッグバン宇宙論が仮説された曰くつきの現象です。又、重力赤方偏移とは、ブラックホールがあると、やはり光が赤の方にずれるのです。これによりブラックホールがあることが推測されます。これから光のことについて追求しますので、その前菜として出しました。

    全体がティトム・オデッセイ6からの引用ですが、詳しくは下記を参照して下さい。
    http://momloveu.com/titom-j/index.files/Page926.htm

    宇宙のことで編集的瞑想(検索・リンク)すると、あっと思うようなことに出くわします。そうだったのかということに気がつくのです。時間と空間の常識を覆すような事に出くわすのです。まるで、悟りの段階を登っているような気になります。fatacy氏はD悟(表現)の段階にいるのでしょう。

    道元によると悟りには四段階があります。A悟(言葉による悟り)、B悟(悟りの体験)、C悟(本覚=体験)、D悟(言葉による悟りの表現)です。

    ここで悟ったような気になるというのは、言葉による悟りですから、まだ本覚ではありません。しかし、A悟・D悟のない悟りは野狐禅といいます。悟りについての説明は下記を参照して下さい。

    道元の悟り(4)悟りの表現に騙されるな
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070771933

    宇宙には、「混ざると流れ」がいたるところで見受けられます。混ざる・流れるは何なのでしょうか。わざわざ遠くの宇宙まで行かなくても、日常でも見かける現象ではないでしょうか。水は何でも混ぜてしまうし流れます。光も混ざったり、流れたりするのでしょうか。ティトムでは「光はバケツリレーされる」ということをいいます。えっ、なんだってと思うでしょう。光がバケツで伝わるというのはどういうことでしょうか。そのバケツとは何なのでしょうか。パケット交換なのでしょうか。パケット交換とは、インターネットなどでデジタルデータを小包にして送ることです。それなら分ります。ティトム(fatacy氏)は言葉が少ないので、なかなかテキストだけからは、理解が出来ないのです。こちらで独断解釈するしかないというのが難題です。まるで道元のテキストみたいです。

    普通の光の伝わり方なら誰でも知っています。光が物当り、反射して網膜に映り、それが認識となるのですね。新緑の葉が青く見えるのは、葉が青いからではないですね。葉が赤を吸収し、青を反射するからです。しかし、この程度では、光の伝わり方が分ったということにはならないでしょう。そこで調べてみました。光の伝わり方です。
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310338813
    以下編集的引用しました。

    要約しますと、
    ・光は「電磁波」です。
    ・光は「粒子(光子)」です。
    ・光は海の波、音波とは異なります。
    ・光は真空を伝わります。
    ・真空は何もない(無)空間ではありません。
    ・真空は特殊な空間です。
    ・真空は電磁場の変化を波として伝えていきます。
    ・ その波が電磁波です。
    ---

    光は真空を伝わるというのですが、その真空は無ではないといいます。特殊な空間らしいです。真空は電磁波の変化を波として伝えるということです。これでも良く分からないですね。困ったものです。もっと違う分りやすい説明が出来ないのかと思います。電磁波は、私達に馴染み深いものです。身体に害があるというのをニュースで騒いでいたから良く知っているでしょう。

    電波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線は、すべて電磁波です。波長の違いで呼び方を変えているだけなのです。私達の目で見えるのは可視光線のみですが、その範囲(0.4μm - 0.7μm)であり電磁波の中でも極めて狭いのです。これでも光はどうようにして伝わるのか釈然としないですね。fatacy氏は更にこういいます。

    光を伝える媒体がティトムです。ティトムとはエーテルのようなものです。最近分かった性質も加えてこれをティトムといいます。(Titom=Time+atom)

    でたぁ。エーテルは既に否定されているのに大丈夫かな。危ない危ない。それに、ティトムとは、直訳すると「時間原子」ということになります。原子時間というのは聞いたことがありますが、時間原子というのは、時間の原子という意味なのだろうか。時間厳守(^’)なのでしょうか。冗談は置いておき、先を続けましょう。

    道元は、時間と空間の概念を打破する方法として座禅をしました。しかし、無闇に座禅をしたわけではありません。A悟(時間と空間についての理解)しなければならないというのです。道元は時間と空間を、どのように理解したのでしょう。道元には有時という概念があります。有時とは有る時であり、在る時です。花が咲く時です。現代的言葉でいえば、有事のことと同じなのではないでしょうか。
    大きな有事もあれば、小さな有事もあるでしょう。戦争の時も在れば、死の時、誕生の時もあります。時とは瞬間です。
    時には、その事が起きる場所が含まれています。ですから有事とは我を忘れる時なのです。有事の時は空間と一体なのです。道元は、有時と有時を切断せよといいます。因果を断てというのです。こうしたらこうなるという三段論法で考えるなというのです。その場限りに徹せよといっているようなものです。世間では通用しないことを言っているのです。
    これでは、先に進めません。やはり空間と時間の母胎である宇宙に、いや、ティトムに答えを求めてみましょう。

    まず、事象の地平面とエントロピーという概念を理解しておきましょう。スポーツも禅も準備体操から始めます。事象の地平面とは別稿で述べました。事象の地平面とは光の届く限界のことです。エントロピーとは乱雑さを表す指標です。私達の生活を見てみましょう。掃除をしなければ、塵と埃がたまってきます。人は必ず死にます。細胞が死ぬのです。それは、細胞組織が壊され修復が追い付かないからです。エントロピーの法則とは、秩序から崩壊へ向う一方通行、片道切符の宇宙の掟なのです。

    すべての存在、例えば、人、組織、国、企業は栄枯盛衰のライフサイクルがあります。ライフサイクルには、それぞれの時間の進みがあり、それは内部の状態で決まるのです。早いスピード進む組織は、死も早いでしょう。私達は、石油を消費して生きている文明人です。スイッチを捻れば、たちまち、何でも手に入る魔法のランプを手に持っています。もはや、日出と共に起き、日没と共に寝る、自給自足の原始の時代には戻れないでしょう。現代と原始時代では、時間の流れは違うのです。消費するエネルギーや、消費する物質は、格段の差があります。

    生活時間とは、そのようなエネルギーの流れるスピードや物量に比例しているでしょう。原始人がこの時代に突然現れたら、その変化の早さに戸惑うことでしょう。逆に言えば、私達は、せっかちに忙しく生きていると言うことになります。

    ここでいう時間とは、原子時間ではかれるような宇宙統一の時間ではありません。時間はエントロピーと関係するのです。その場の感覚的な時間があるのです。一人一人が固有の時間を持っているのです。私達はそのような固有の感覚時間で生きているのです。道元は、このような固有の時間の流れを断てと言うのです。果たしてそのようなことができるのでしょうか。

    固有の時間とは、私達だけの特権ではありません。私達に意識が芽生える前にも、別の固有の時間はあったのです。遺伝子は、何億もかけて綿々とその遺伝子から遺伝子へと命を引きついてきたのですが、遺伝子には遺伝子の固有の時間があるのです。遺伝子にとってもその生命の場には、必要なエネルギーや物質の流れがあります。その中でエントロピーに逆らって生きてきたのです。その流れはゆっくりとした時間だったでしょう。

    しかし、宇宙には、とんでもない時間がありそうなのです。早い時間、遅い時間があるならば、時間が止まってしまうこともあるのです。光が出てこられない事象の地平面では、光はどうなっているのでしょう。光速が、徐々にゆっくりとなり、ついに、止まってしまうのでしょうか。光が止まれば、時間も止まってしまうのでしょうか。

    道元が有時を切断せよと行ったのは、時間を止めてしまえと言ったのでしょうか。問いだらけ済みません。問いこそが悟りの条件です。気を高めて続けましょう。
    続く。


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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 18時59分34秒

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    道元の悟り(4)悟りの表現に騙されるな

    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/道元の悟り(4)悟りの表現に騙されるな<補完共振>山水庵のテキストを編集的に引用して


    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(4)悟りの表現に騙されるな

    <補完共振>

    山水庵のテキストを編集的に引用しています。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    道元は悟りを四つのカテゴリー(A悟・B悟・C悟・D悟)に分けています。

    A悟:言語による理解
    B悟:荒行による自覚(道元は否定)
    C悟:心身脱落
    D悟:言語による表現

    としています。


    悟りには大きい、小さな、広い、狭いがあるのですから、多様な水と月の検証が必要なのです。多様な水と月とは、自分の自覚、釈迦の自覚を含む、先達の自覚の内容との照合です。天月と水月の関係は、C悟が天月で、A悟が水月です。悟りを得ようとして、何かをすることは一つの悟りなのです。ですから座禅瞑想したらその内容を吟味して、一つの言語表現にするのです。その都度、その都度の座禅の瞑想で得られたアッハ(悟り)の内容を思索して言語にするのです。具体的には問答、提示、仮説的な表現になるでしょう。この言語表現された悟りをD悟と呼ぶのです。 

    言葉にされたものは、座禅の内容そのものではありえません。思索や言語表現においては、一の事に通じたからといって、すべての事に通じるということはないのです。職人芸がすべてのことに万能ではないことから容易に想像できるでしょう。ただ、抽象度が高ければ、「一つの事が通じれば、すべての事に通じる」といえでしょう。それは、宇宙の法則であり、色即是空、空即是色なのです。それを体現できるのは、ただただ座禅だけです。座禅瞑想=体験(C悟)こそが「悟り」を実現するのですが、しかし、悟りについて勘違いしてはなりません。より本当の悟りとは、理解(A悟)したことを体験(C悟)で確認し、その内容を言語として表現(D悟)しなければならないのです。ですから悟りはこういうものだと座禅瞑想=体験(C悟)して、悟り(D悟)を表現できたからといって悟ったと勘違いしてはならないのです。経典を読んで理解(A悟)したからといって悟ったと勘違いしてはならないのです。それは全悟りではないのです。たとえば『正法眼蔵』は「D悟」に過ぎないのです。これが座禅における悟りの全悟り=理解(A悟)、体験(C悟)、表現(D悟)の要請なのです。  

    このように全悟りを自覚すると道元の悟りに対する言語表現、すなわちD悟がいろいろ変化することは当然です。道元の言説で正しいというのは仏教の本質に限ります。『正法眼蔵』各巻は、いってみればその時々の道元の一つの悟りであるにすぎないのです。道元もいろいろと悩んでいたようです。D悟の変化がそれを示しています。道元ものテキストによっては、「仏像を建立するのは仏の道ではない」とか、「仏像建立はまさしく悟りへの入り口である」などと逆のことをいっているのです。あるいはこういう例もあります。「在家出家には関係はない」と言ったかと思うと、15年後には「出家のみ悟りの前提である」といっています。一体、道元はこの頃どんな水月を見て悟っていたのでしょうか。少なくとも、「出家だけが悟りの条件」という表現は、別のテキストからは道元自身が吟味したという形跡はどこにも見られないのです。

    ところで、非思考を言語表現するというのは釋尊すらたじろぎ躊躇した至難の業です。大概は否定を連ねるという工夫をしたり、壮麗な虚構のイメージで仏の世界を描いたりしました。それが仏教のテキストなのです。禅の世界では機智を用いた問答や身体言語、あるいは偈が導入され積み重ねられました。そしてそれは言語を否定するのです。不知・不明・不識・不可など否定がつくのです。それが極まって不立文字ということになったのです。 

    ところが道元はこれを全く無視しました。言語を裏方ではなく、武器として肯定的に使ったのです。道元は無を逆に取ったのです。その無をとって知慧としたのです。それは道元の座禅が知慧、つまり言語や思惟と深くかかわるという自覚以上に、無我を論証するための理法としてではなく、また迷を作り出すものとしてでもなく、座禅において現に生成している仏を肯定するという意図からくるのです。その意図はこう言語化されました。  

    言語の肯定です。しかし、説明の対象に限定されるような実体があるわけではありません。だから無なのです。知では把捉できないものですから、「虚空」とも表現されます。しかもその知慧と座禅が「虚空」を接点に、ものの見事に結ばれているのです。このように道元における言語表現の天才的能力は、漢語の経典を脱構築して和語の思考の中に自在に取り込む独特のスタイルを創造したのです。つまり、一応ふつうに自覚できる(たとえばおとぎ話が論理的ではなく事実と反していても、自覚はできるという意味で)テキストの文脈を無視して寸断して、それを自在に編集してアクロバット的に用いて、座禅において成り立っている理解できないことがら(非思考 )を説き示すという前代未聞のことをしたのです。
     
    その『正法眼蔵』(D悟)は、「悟り」としての正法眼蔵(C悟)ではないのは当然ですが、映された水月として、間違いなく月です。月でないものではないのです。仏法であるからには、悟りは言説を離れてはないのですから、言語の悟りも一応の真理なのです。道元は「悟り」とその言語表現の関係を、《夢中説夢》《空華》《画餅》《葛藤》などで省察しています。

    たとえば理解できない「悟り」を道元は「夢」と示します。ふつうは悟りとは夢のような現実から覚醒することであるとされ、あるいは覚醒してみたら現実と思っていたものが夢であったとわかると考えます。ところが道元はこの夢のみが真実であり実相なのだというのです。

    これは道元一流の逆説です。この夢は明らかな百草であるといいます。つまり、夢といっても仮想の世界ではなく、目前にある具体的現象ということです。それを人間が見れば歪みや迷を生じるのですが、普通はそれを現実といっているのです。また「夢」は、悟りを言葉で思考して掴もうとすることへの警告でもあります。悟りはただ心身脱落するところにあり、それを説明するのは、ただ夢を説明しているのであって、それが普遍の真実だなどと誤解してはならないのです。

    D悟は、いわば重層する夢ですから、道元のいうこと、学習方法、説得方法は変わるのです。道元の言葉に騙されてはならないのです。そうはいうものの、その言葉を使って「悟り」を示さねばならないのです。伝統的に禅宗は言語表現、とりわけ経論を、飢えを充たすに足らない画餅だといって揶揄してきました。ところが道元はいいます。〈画餅でなければ、飢えを充たさない〉、〈画餅でなければ、悟りは得られないし、悟りの道でもない〉と。画餅が、ぜったい必要だというのです。また仏教で空華というのは、迷っている人の妄想の例えとして、目の悪い人が網膜に映る眼球自身の傷を華と見るようなものだとしてきました。ところが道元はいいます。〈仏の世界は空華である〉と。真実の世界を「空華」というのです。 

    普通は、経典の言葉を仏法であるとみなし、たとえば法華経に書かれていることが真実だと思うでしょう。しかし、道元は、それらは空華であり、夢であり、画餅であるというのです。たぶん道元は、たとえゴータマが実際に説いたと科学的に証明される言葉があっても、それを悟りとか涅槃とか真実とかは言わないでしょう。なぜならゴータマでさえ知り得ないことを語るのです。

    その言表がどうして絶対的真実なのでしょうか。道元ほど言語表現が俗世であること、言語的悟りであることを自覚している人はまれなのです。以上によって道元における理解しえないことを語るというC悟(心身脱落)とD悟(悟りの言語表現)をめぐる事態が明らかになったと思います。  

    さて、では何のため、だれのために言語表現が必要なのでしょうか。換言すれば〈悟りを検点し、仏の悟りを理解〉するのは、何のためまのでしょうか。見方によっては誰の為、何の為でもなく、座禅の瞑想がおのずからに自覚の言葉、たとえば悟りの証明する言葉、悟りを感じた言葉になるともいえます。しかし、まずは道元自身のためでしょう。  

    自分の悟りの大小を点検しなければ、道元自身がどのくらいの悟りなのか、どちらの方向に行くべきかの選択を間違うでしょう。たえず釈迦の言という広大深々な水月を見比べ、古仏や新仏たちの大小の水月である言語表現を較校してはじめて、道元の水月の量 が明らかになるのです。逆にいえば命をかけて探究し、了解しない言葉など、たとえ釈迦の言葉であっても生きて働くことはできないのです。しかしながら道元の学習方法は、どこまでも道元の学習方法であり、それは「悟り」(C悟)としての真理でも悟りの標準でもないのです。むしろ道元という水月を、人は今、自らの水月を量るために、点検し、了解すべきなのです。身心脱落が「悟り」だ、と誰かがいうこともすでに道元は警告しているのです。  

    終り。

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 14時37分32秒

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    道元の悟り(3)悟りには表現が必要

    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/道元の悟り(3)悟りには表現が必要<補完共振>山水庵のテキストを編集的に引用していま


    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(3)悟りには表現が必要
    <補完共振>

    山水庵のテキストを編集的に引用しています。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    現成公案に含まれている謎解が必要なのです。道元の思考と言語の関わりについて吟味していきましょう。

    「深いは高い」という。なんだか、当たり前のことをいっているようです。これは、悟りには奥行きがあるのだということを言っているのでしょう。時間にも長く、或いは短かく感じる時があります。大きい湖と小さな湖があるように、天と月では、天は広く、月は狭いという関係と同じであることを知らなければなりません。悟りにも悟りを得るまで時間と広さ深さがあるということです。道元のテキストには、主語がないのです。ですから、場の状況を知らなければならないのです。場があって思考があり、言葉が出てくるのです。

    レストランで食事を注文する時に、「俺はカレー」ということがあります。これは正確な表現ではないでしょう。「私が注文する料理は、カレーです」というのが正しい表現であり、意味です。しかし、ウエーターは主語がなくても、それを理解できるのです。このような主語がない会話というは、場の論理が働いているから成立つのです。このことを西田幾多郎は、場所という概念を駆使して道元を理解しようとしたのです。主観と客観、自分と場という対立を超えてブラックホールの特異点の場所を「無」の場所としたのです。

    上村氏による西田幾太郎の悟り(自覚)へのプロセス球を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758550

    この気配的な無の「場所」を「述語的な場所」としました。「俺はカレー」というとき、「俺」は「カレー」に含まれているのです。つまり、「主語=自我」は「述語」のなかに包まれているのです。
    「述語」の連鎖をどんどん放散していくとその場そのものは宇宙場に包つまれてしまうのです。ブラックホールの内側にはなにもありません。これが「無の場所」なのです。ブラックホールはすべてを含んでいるように述語は主語を包んでいます。主語は述語の中に陥没するのです。有は無の中に没するのです。

    「主語」ない事象の地平面が現われたのです。この「事象の地平面という場所」こそ、それぞれの「言葉」を超えた反転する構造なのです。分裂性親和的思考というのは四次元思考なのです。述語思考とは場所を中心に置く思考です。ですから自我=主語は吹っ飛んでしまうのです。座禅とは場所のことなのです。だからこそ、座禅では、心身脱落するといいます。そこでは自分、自我、我という主語などという余計なものなのです。

    道元の主語なしテキストが、事象の地平面が超越場であることを理解できれば、述語的思考の世界を理解したといえるでしょう。しかし、宇宙の用語である事象の地平面と述語的思考の世界を結びつけるのは、少し強引のような気がする。

    道元の言うことを聞いてみましょう。天月という言葉があります。これは悟りを自覚したイメージを表現しています。つまり悟りを得た心の状態であり、水に映った月は座禅の思考であり、自覚であり、述語的に言語化されたものです。つまり、水が場であり、月が自分です。水に包まれている自分を自覚せよということです。

    天月が水に映る。それはまったく誰にでも、同じように映るのです。ですから「悟り」は難行苦行の特別な体験して悟りがくるのではないのです。それは月が水に触れなくても映るように、修行でなくても意識の持ち方で悟りが得られるのです。座禅と悟りの関係は、水と月の関係であり、座禅をすれば悟が映るのです。悟りが割り込んでくるわけでもないし、座禅が悟りを招くのでもないのです。只座れば悟りが映るのです。月は濡れるわけでもないし、水も破れるわけではないのです。天月が水に映るのです。

    悟りには奥行きがあるのです。座禅をしたら、直ちに全部を了解したり、直感的に意識が転換することはないのです。水湖の大小によって、広狭、高低があるように、修行の長さや深さに応じて、映る月、即ち、悟りの会得度合いには個人差があるのです。その悟りを得たことをどうすれば確認できるのでしょうか。それを確認するのは、その実感したことを自己満足せずにありのままに言語で表現すべきです。その言語表現とは、当然、主語論理ではなく、述語的表現でなければならなりません。述語的思考をしたのであるから、述語的言語なくては、悟りを実証したことにはならないのです。

    科学は客観的に実証するのが仮説の正しさを主張する根拠です。悟りは科学ではないのですから、客観的な実証はできません。悟りを実感するのは主観であり、悟りという状態です。体験したからといって実証したことにはならないのです。

    しかし、実証して見せなければ、他人からは評価されないでしょう。悟りは主観の問題だからといって自己満足していたのでは自覚したことにはならないのです。表現して始めて自覚したことになるのです。表現して始めて、疑似悟りではないことを実証できるのです。

    表現することで悟りの段階が浅いことを確認することもできます。表現ができれば、それで最高の悟りまで達した(A悟)ということも確認できます。これが言語表現の必要な理由なのです。 
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 13時41分40秒

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    道元の悟り(2)落語は悟りのカテゴリー

    引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/道元の悟り(2)落語は悟りのカテゴリー<補完共振>以下、山水庵のHPを参照、編集的に引用

    引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(2)落語は悟りのカテゴリー
    <補完共振>

    以下、山水庵のHPを参照、編集的に引用しました。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    道元の悟り(1)の続きですので、こちらを参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070723845

    すでに述べましたように「悟り」はどこまでも主観であり、客観的に示すことは出来ません。その事態を敢えて言語化すれば「仏が仏を招く」であり「仏は知っており、見ている」というような拙劣な表現にしかならないのです。それではなにも伝わらないでしょう。それを伝えうるような言語表現はいかに可能なのでしょうか。座禅では瞑想をします。ただ、文字通り座っている訳ではないでしょう。脳は活発に回転するのです。眠っている暇等ないのです。脳だけではありません。身体も使うのです。全身全霊、振る回転、即ち、全機現(一体一如)なのです。私達の脳は、日常的な会話においても、社会的な活動、ビジネスの場面、科学的研究でも、活発に働いています。しかし、それは、大部分が左脳による分別論理、即ち、主語論理(である)が主です。実はこの主語論理が曲者なのです。自我の巣屈なのです。悟りは自我の解体を目指しているのですから、瞑想によって、自我の解体をするために思考するのです。その思考とは即非的思考(である、ではない)です。即非的思考によって思考するのです。これが禅問答の訳の分からない論理の展開の様式なのです。詳しくは、別稿の起死回生の思考を参照して下さい。

    起死回生の思考(1)吾輩は猫である。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070757046

    起死回生の思考(2)カミングアウトして救われる。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758122

    起死回生の思考(3)=救世の哲学=プロセス球
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758550

    この訳の分からない論理の展開の様式こそが、西田幾太郎が生涯をかけて辿り着いた絶対矛盾的自己同一=絶対無の場所の哲学=救世の哲学=プロセス球=分裂親和性思考=スキゾ=色即是空・空即是色=四次元思考=即非の論理なのです。

    禅では、この即非の思考様式を瞑想することで得ようとするのですが、瞑想そのものが問題になります。つまり、主語論理、形式論理で思考=瞑想したのでは元の木阿弥なのです。よく、禅では「思考するな。非思考せよ」といいます。考えよ。しかし、考えるなといっているのです。これではさっぱり分らないでしょう。
    ですから、思考には二つのタイプ(パラノとスキゾ)があり、それが、気質と関係していることを理解しておかなければなりません。この当時は文化人類学。宇宙論もなかった時代ですから、『野生の志向』などというものさえ、存在すら知らなかったのです。まして、四次元などとい世界があるとは想像もしなかったでしょう。

    先ずは、パラノ=主語論理的思考を断ち切らなければならないのです。それには、右脳による述語論理の展開を行なわなければならないのです。道元の正法眼蔵、現成公案が、分かりにくいとされるのはここに原因があります。すべてではないが肝心のところは述語論理で書かれているのです。これをそうとは知らずに、専門家が主語論理で解釈するものだから、なお分からなくなってしまうのです。
    道元の言語様式が述語論理であると言い出したのは西田幾太郎です。西田幾太郎は禅の即非の論理を哲学にしたのです。しかし、本人の気質は分裂的親和性であったといいます。述語論理は、分裂的親和性の人の得意とする論理なのです。

    西田幾太郎は、日常において、誰からも理解されず疎外感をもち、悩み抜いて思索を続けた人です。思索の痕跡を見ると確かに、分裂的親和性=右脳タイプだと思わわれる節があるのです。シムダンスでは、西田哲学が人類を救う最後の哲学になるかも知れないと予感しています。
    それは分裂的親和性=右脳=四次元思考であるからと思っているのです。

    精神病理学者の中井久夫氏の著書「分裂病と人類」の中にも分裂的親和性=右脳であることが著されています。中井久夫氏は次のように述べています。

    狩猟民は分裂病親和的であり、かすかな兆候を敏感に察知します。農耕民は几帳面に田んぼをこまめに手入れします。ですから、狩猟民の中では分裂病者は正常ですが、農耕社会では分裂病親和者は疎外されるのです。と述べています。

    確かに、スキゾ人は自分の近い空間のことは無関心で遠い空間のことに敏感です。遊牧民が地平線に敏感なのは視野の地平に現れた敵を素早く感知することが生きる智恵だったに違いないと思います。農耕民族は自分に近いところの空間、つまり畠、田圃で何が起きているのかが最大の関心です。こういうことからも農耕民族と遊牧狩猟民族では脳の働きが違うのです。

    道元のA悟を理解するには、人の気質と思考の関係を捉えておかなければならないのです。どの宗教においてもこのところが曖昧です。すべての人が同じ思考をすると考えており、分裂的思考は異常であると決めつけているのです。文化人類学という視点で思考と気質の関係が明らかにされなければならない時がきているのですが、残念ながらこの方面の知見はまだまだのようです。

    「東洋と西洋の知の比較」を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068727834

    「右脳と左脳の機能的意味」を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068721706

    東洋と西洋の知の比較が教えてくれるのは、西田幾太郎も道元も釈迦も分裂的親和性の人であったと推測されます。インド人は分裂的親和性の人が多いと推測されます。更に言えば、モンゴロイド系の人は分裂的親和性の人が多いと推測できるのです。分裂的親和性の人は述語論理を駆使します。述語論理を駆使した道元は当然「悟り」を即非的に思考せよというわけです。

    即非的に思考するにはどうすればよいのでしょうか。

    客観的ではない「悟り」を言語表現するにはどうすればよいのでしょうか。

    座禅での瞑想は、空(有り無し)であり、それは普通の形式論理、主語論理(有り有り)とは違う述語論理的=即非的思考ですから、禅問答のようになるしかありません。それでは進歩がありません。こういうところこそがシムダンスの得意とするところです。即非的思考は、スキゾ思考であると仮説を立てました。更にスキゾ思考は述語論理=右脳優位=四次元思考であるとしました。

    四次元思考とは何でしょうか。これをここで説明するのは、まだ早いのです。ティトムの進行がそこまでいっていないからです。シムダンスはオカルトやSFではないので、四次元のイメージを余りなんでもありの世界にしたくはないと思っているのです。ですからティトムが四次元のイメージを明示してからにします。それまでは、主語的思考=三次元の思考を解体する準備をしておきましょう。

    座禅の瞑想では、まったく主語的思考や自我意識がないわけではないのですが、それはやがて無となっていくべきものなのです。けっして何かを分析的に考え、意識してはならないのです。このように主語論理とは異なる、別の思考のスタイルがあるということです。道元はそれを述語的思考とは言わなかったのです。その当時は文化人類学や言語学が発達していなかったから、仕方がないのですが、それは間違いなく述語的な論理です。

    例えば座禅で瞑想をしているということは、自我がない、無の状態です。無だからといって何もないわけではありません。自我と本来の自分が溶け合って対消滅(空)したのです。これが西田幾太郎の場所の論であり、量子論でいう場の概念です。
    音楽を聴いていることを想像しましょう。「自分が」何かの「曲」を聞いているとします。しばらくするとその曲に没頭するでしょう。「自分が」何かの「曲」を聞いているという自分の意識はなくなっているでしょう。だからといって「自分が」何も聞いていないという意識がない状態ではないでしょう。「自分が」聴覚を媒介して、外界にただ開かれているという状態でしょう。この時の自分が時分であり、有事=有時=空です。自我が消えている無意識の状態です。実際に、「自分が」聴覚を媒介してというテキストの「自分が」なくても意味は通じます。意味が通じるということは、単なる文法上のことではないのです。実際に、その場所にいれば、理解可能なことです。回りは当然、本人の意識からも自我は消えているのです。この自分の意識がない状態=自我がないが聞いている意識はあるという状態が心身脱落なのです。

    もし、座禅中に何を聞きましたか、といわれて答えられたら、それは「聞いていた」のであって、座禅していたのではないでしょう。逆に座禅中なにも「聞こえなかったら」、居眠りかなにかをしていたのであり、座禅していたわけではないでしょう。聞いてはいけないのであり、聞こえなくてもいけないのです。このような悟りの状態を作り出すにはどうすればよいのでしょうか。

    ここが、悟りが得られるか得られないかの分水嶺なのです。救急車のサイレンの音が聞こえてきたとしよう。どこの誰が、何事だろうと思うでしょう。すぐに昨日のニュースのことを思い出すでしょう。「タライ回しにされるのかな」なとど気を回すでしょう。これは自我が前面にでている証拠です。心身脱落していないのです。かといって、サイレンの音を気にしないといっても、聞こえてくるでしょう。聞こえない振りをしても意味ないのです。「救急車が人を運んでいる」ここで思考がきれれば良いのです。しかし、「救急車はたらい回しされる」だから「人はタライ回しされる」ここまでは仕方がありません。誰でも思考するでしょうから。

    問題は次にあります。「魚もタライ回しにされる」だから「人は魚である」となればしめたものなのです。これが分裂症親和性の思考です。これにより思考は発散していくでしょう。この思考が病的な思考でないことを示しておかなければならないでしょう。

    連歌・連詩というのは主語的思考を積極的に行う換喩を主体とする芸術です。重なりとずらしです。前の人が謳った歌・詩に続くのです。その場合に、前の歌・詩に関連がなければならないのです。主題、背景、季節、事件なんでもいいのですが、とにかく関連づけるのです。全く同じでも、全く離れていてもダメなのです。連歌・連詩には主語的思考から逸脱しようとする生成の遊びがあります。しかし、所詮、連歌・連詩とは連なりの辞です。主語的思考=自我同一性=連続性から逃れることは出来ないようです。

    そこにいくと、不連続性な芸術があります。落語に目を転じて見よう。落語には必ず落ちがあります。話はテーマに沿って進んでいくのですが、突然脇道に逸れます。連歌の逸脱とは比になりません。何事かと聞く方は注意を向けるようです。そして、最後にテーマと結びついて落着します。そして、その意外性に笑いがうまれるのです。これが落ちです。意外性=脇道=不連続性が述語的水平な逸脱なのです。この落ちも反復して聞きいてしまうと飽き飽きしてくるのですが。

    落語漫才のような脇道に逸れる思考は分裂症親和性思考=隠喩的思考です。常識的な会話の中でもよくあることです。しかし、ビジネスや緊迫した真面目な場では、これが許されないのです。そうした場面でも分裂症親和性の高い人は、ちょっと油断をすると、「人は魚である」類の関係のない話をしてしまうのです。本人は関係していると思っているのであるが場が白けてしまうのです。場が緊迫していますから、結びつく迄の時間を待ってくれないのです。このタイプの人はこのような気まずい思いをする経験を何度もして、やがて社交性が失われていくはめになるのです。

    このような脇道に逸れたがる傾向は、あきらかに分裂症親和性です。脇道に逸れる=寄り道をする=脇見運転は同じなのです。脇見運転は事故につながるのでやめなければなりませんが、よそ見をするのは子供の得意とするところです。ここには常識的な分別思考とは違った、しかし、れっきとした共通の論理があるのです。

    このような逸脱思考は、現実の緊迫した雰囲気をほぐす効果とか、バッファ的役割があるのです。もっといえば、社会の潤滑油であり、創造性のエネルギー源であり、さまざまなことの気付きが生まれる発想の媒体なのです。しかし、競争優位の戦略を掲げ、最少コスト最大利益追求を最大目標として、ムリムダムラをなくして、あくせく、いらいら、せかせかとした行動を強制するマネジメントスタイルの企業経営では不要の長物です。排除される思考なのです。

    さて、非日常的述語思考が意外なところで道元の「悟り」を得るための瞑想術と関係してきたということは驚くべきことです。そればかりか、このような思考と精神と言語、自我、社会、分裂症との関係をポストモダンが資本主義という物質文明の仕組みの特徴として明らかにしたことも驚くべきことです。人類にとって不幸中の幸いであるというしかないでしょう。

    四次元能はそこで満足していてはならないのです。道元を受け継ぎ、西田幾太郎を受け継いで、その先に向わなければならないのです。温暖化は待ってくれないのです。座禅もいいのですが、それでは人類は救われないことがはっきりしているのです。ただ人類は救われるためのヒントが道元のテキストに隠されています。それを読み取ることが必要なのです。人類が救われるといいましたが、正確な表現ではないでしょう。現代人は滅んでも仕方がないのです。自業自得なのですから。現代人の後をしっかりと受け継ぐ子孫がいればいいのです。その新しい人類とはシムピープル=玄生人です。玄とは玄関の玄であり、初めという意味です。

    日本は農耕文化であり、左脳優位の文化です。しかし、欧米ほどではないでしょう。混合文化です。やや、左脳優位といったところです。だから右脳の分裂症親和性もいるのです。隠れ行灯が必ずいるのです。組織が危機に直面するとこれまで昼行灯していた人が突然に前面に出てくるのです。明治維新の時がそうであったように、閉塞的状況を打開するのです。境界、障壁、国境の壁を乗り越えるのです。これはモンゴロイドの血を持った遊牧民の気質です。

    現代はインターネットの時代であり、明治維新の時のような閉鎖的な状況ではないので様相が大分違っているでしょう。共振的ダンス、行動、振舞い、仕組みが創出される可能性が高いのです。後は揺らぎが必要なだけです。小さな揺らが生まれればいいのです。それが共振して、大きくなればいいのです。

    揺らぎの発生源の1つとしてシムダンスがなればいいと思っているのです。そのためにも行動と思考と言語との関わりを詰めておかなければなりません。その最大の武器になるのが現成公案です。

    現成公案に含まれている謎解が必要なのです。謎解には、シムピープル(ナビゲーター)が必要です。シムピープルは玄生人です。道元、西田幾太郎は玄生人の先祖の先祖なのです。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 11時10分00秒

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    起死回生の思考=救世の哲学=プロセス球

    プロセス球の図は上村武雄氏著「気配論」から引用しました。起死回生の思考=救世の哲学=プロセス球<シムダンス=補完共振>十牛図は下記から引用しました。h

    プロセス球の図は上村武雄氏著「気配論」から引用しました。

    起死回生の思考=救世の哲学=プロセス球
    <シムダンス=補完共振>





    十牛図は下記から引用しました。

    http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2480/10cow/






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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 10時56分04秒

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    起死回生の思考(2)カミングアウトして救われる

    プロセス球の図は上村武雄氏著「気配論」から引用しました。起死回生の思考(2)カミングアウトして救われる<シムダンス=補完共振>起死回生の思考(1)「我

    プロセス球の図は上村武雄氏著「気配論」から引用しました。

    起死回生の思考(2)カミングアウトして救われる
    <シムダンス=補完共振>

    起死回生の思考(1)「我輩は猫である」では夏目漱石を取り上げました。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070757046
    以下引用です。

    スキゾタイプの人がパラノの世界に入ると被害妄想的になるのです。夏目漱石は巻き込まれたのです。夏目漱石がモンゴルに生まれたならば、被害者意識ではなく、魚が水を得たような天真爛漫な気質を出していたでしょう。スギゾがパラノ世界に生まれると、我輩は被害者である。猫は被害者である。だから、「我輩は猫である」となるのです。これが述語思考・論理です。考え過ぎでしょうか。知に働けば角が立ち、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。草枕の冒頭の言葉です。ここに、夏目漱石の分裂症親和的気質が現れているのです。
    ---
    今回は、夏目漱石と似ている西田幾太郎を取り上げて見ようと思います。西田幾太郎は、そのものズバリ、分裂性格者の救済の哲学といわれたのです。しかし、親戚の哲学者は分裂症親和的な性格の持ち主といわれることを嫌いました。世間体もあったのでしょう。必死になって否定したのです。家庭でも立派な父親であったと述べています。それほどにパラノ世界にいると、スキゾ的言動は異常と看做されたのです。

    今日では、性同一性障害は立派な市民権を得ましたが、それまでは本人はもとより、家族は白い眼で見られて大変な苦労を強いられてきたのです。性同一性障害はスキゾではないのですが、その悩みは、西田幾太郎の悩みと同質であり、スキゾの共通点があります。資本主義の自我同一性という、自己保存本能の弊害で、悩むパラノにも、共通性があるだろうと思います。それにしても、精神病院行きになりそうな人が、自分の悩みを解決して救済者にされてしまうのだから面白いものです。その西田幾太郎のテキストは、道元に劣らず超難解です。しかし、彼の場合は思考のプロセスが残されています。

    西田幾太郎に触発されて気配論を著述した上村武雄氏はこういっています。西田幾太郎は、混迷から自覚へと階段を登っていったのです。その思考の軌跡がテキストから読み取れます。混迷から自覚までのプロセスはこのようなものかということを理解できる形で残してくれたのは西田幾太郎一人でしょう。私達が、後を辿れるのは西田幾太郎が自分の苦渋のテキストを残してくれたお陰です。夏目漱石も自分の苦しい状況を小説という形で残してくれたのですが、それを述語論理による思考のプロセスとして、私達が利用できるところまでは心の裏側を見せてくれていないのです。その点で、西田幾太郎が道元に述語思考を発見し、それを哲学までにしたのは、大変貴重な仕事をしたと思うのです。それというのも道元の中に自分を見たからでしょう。これが、スキゾがスキゾを見抜く、共感するということの現れなのです。

    その反対に、西田幾太郎に道元を見ることができなかった後輩がいました。彼の無の哲学は、混在、混迷、いっしょくたであると批判したのです。それは本人がパラノだからです。パラノはパラノを見抜き、スキゾはスキゾを見抜くのです。後輩は、西田幾太郎の述語論理を理解できなかったのです。この後輩はパラノだから、二元対立で論理が体系的にされなければ気に入らないのです。つまるところ整理整頓、綺麗好きなのです。もうすこしで、西田幾太郎は消滅されるところでした。

    「いっしょくた」というのは、スキゾの特徴です。玉石混合、清濁合わせ飲む、混沌からの秩序形成、老子と荘子、陰陽の五行などはスキゾの現れなのです。このことが意味するのは、思想、思潮、言明を理解するには、気質を理解しなければならないということに繋がります。良いとか悪いという評価は、評価する人とされる人の気質が関係しているのです。つまりは、互いに反映しているということなのです。内が外にあらわれるというのはティトムでも基本です。

    上村氏は、自覚(悟り)の獲得までの思考の軌跡をプロセス球という形で浮彫りにしてくれました。出立ち、踏み迷い、知り覚え、還りゆくという循環によって表現されています。このプロセス球に、西田幾太郎自身の思考の軌跡である前期、中期、後期の作品を対応させたのです。彼の思考が時代と共に変遷していく様子が手に取るように分かるようになっています。

    その球は、

    出立ち<初期西田>
      →生まれたままの純粋の経験の場所

    踏み迷い<中期西田>
      →常識世界の苦を経験する場所

    知り覚え<中期西田>
      →苦から解放された自由意志の場所

    還りゆく<後期西田>
      →絶対の悟りの場所、生まれた場所

    ということになるでしょう。

    このプロセス球を参照して思考の軌跡を説明してみましょう。出立ちとは、生まれたままの世界であり、何の迷いもない赤子の状態です。それが、すぐに踏み迷いに入ります。ここは主語論理の世界です。自分は自分であり、他人ではないのです。そのようなきつい強制が働く、仕付け、決まり、ルール、常識の社会です。幾太郎はこの世界に違和感を覚えます。立身出世、名誉、利益などを優先する社会に、世渡りの下手な、堅物的頑固な性格もあり、被害妄想を持つのです。そして、猛烈に悩むのである。気狂い寸前までいきます。

    しかし、逃道がありました。精神病院に入らずに済む世界があったのです。それが哲学です。面目を潰さずに、生きられる世界があったのです。それは哲学という精神病院でした。ビジネスや俗世間の世界に満足できずに、悶々として生活しているとしよう。精神的な満足を得るために黙想したい人は意外に多いようです。ところが、生活するためには昼行灯のようなスタイルは許されないでしょう。このジレンマに悩むのです。上村氏自身も、同様のことに悩み、西田幾太郎に共感したと述べています。

    インドでは瞑想することが社会的に価値のあることという了解があるようなのです。日本ではサボっているとなります。これが文化の違い、気質の違いであり、パラノの中のスキゾには、苦しさを生むのです。今日ではブログが流行していますが、これで大分救われている人がいるのでしょう。誰も訪れることのないブログに投稿して、自己満足しているとしても、それはそれで精神的な満足があるのかも知れません。インターネットという新しいメディアが悟りを開く武器となるのです。これについてはこの後に続く補完共振「インターネット禅」で述べることになるでしょう。

    パソコンが流行り始めた頃は、パソコンの前に座るだけで上司から睨まれたものです。遊んでいると見られたのです。おたくともいわれたのです。ハッカーはおたくなのです。そうして、白い眼で見られたにもかかわらず、逃げ場を見つけた彼は、知り覚えに入るのです。

    知り覚えとは、「自分は自分であり、自分は、他人でもある」ということに確信を持つことです。性同一性障害者は、初め、自分がおかしいと気がつきます。そのときは、ひょっとして、自分(男)は他人(女)ではないかと思うのでしょう。しかし、肉体は男です。自分(男)は他人(女)であるはずがないと思うのです。そうして、ジレンマに陥るのです。この逆(女・男)もあります。これが踏み迷いです。しかし、やがてカミングアウトする時が来ます。毅然と、「自分は、男である」同時に「自分は、男ではない」と宣言するのです。カミングアウトしてしまえば、怖いものは何もありません。再び、元の生まれたままの場所へ還りゆくのです。

    この生まれたままの場所を西田幾太郎は、絶対に信頼できる場所、無(空)の場所、生まれた故郷であると高らかに言明したのです。西田幾太郎も又、「私はスキゾである」(述語論理の得意にタイプ)とカミングアウトして、救われたのです。

    これを要約すれば、

      出立ち  <A=A>
      踏み迷い <A≠非A>
      知り覚え <A=A、A=非A>
      還りゆく <A≠A、A≠非A>


    ということになるでしょう。

    これは人生をかけた、苦しみからの解放される自覚のプロセス、悟りへのプロセスであり、禅の即非論理を、述語論理で哲学にしたのです。西田幾太郎の哲学は、西田と道元とのシムダンスした結果生まれた悟りなのです。

    下のプロセス球の図は上村武雄氏著「気配論」から引用しました。





    ここで示したプロセス球は、悟りの十牛図や宇宙のサイクルとどこか似ています。四次元能=シムダンスは、スキゾの救済の哲学ではなく、人類の救済=起死回生の思考としたいのです。果たしてそれで間に合うのでしょうか。

    このテーマ終。

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 10時20分29秒

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    起死回生の思考(1)吾輩は猫である

    起死回生の思考(1)吾輩は猫である<シムダンス=補完共振>温暖化がこれだけ深刻になってくると、人間の愚かさばかりが目に付くようになります。その根底には

    起死回生の思考(1)吾輩は猫である
    <シムダンス=補完共振>

    温暖化がこれだけ深刻になってくると、人間の愚かさばかりが目に付くようになります。その根底には人間の性ともいうべき精神構造=欲望にあります。そして、欲望を過剰に生産する文明という装置が私達を拘束しています。温暖化のランナウェー(暴走)の歯止めかける起死回生の方法はないのでしょうか。「起死回生の思考はないのでしょうか」については下記を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069732166

    ただ温暖化については嘘だという主張もあります。「環境問題の嘘の嘘」を参照下さい。http://www.yasuienv.net/TellALie.htm

    四次元能では温暖化の危機は人間の性=左脳優位=主語論理=パラノ=自我拡大=自然支配=文明化=グローバル化=過剰欲望=温暖化=ランナウェーという図式によるものと考えていきます。そこで、『起死回生の思考はないのでしょうか』では次ぎのように述べました。

    この閉塞状況から逃れるためにはポストモダン(浅田彰氏は資本主義をクラインの壷と喩えた)が「外へ逃げろ」といったのですが、資本主義がブラックホールであるとするならば、中にはいったら二度と外にはでられないアリ地獄です。クラインの壷に外はないのです。私達に逃げる空間・場所はないのです。それでは、諦めるしかないのでしょうか。四次元能は諦めません。更に、資本主義は本当に分裂症を作り出したのでしょうか、と問うて見ましょう。モンゴロイドはアフリカの奥地から世界各地に何万年もかけてゆっくりと移動して散らばっていきました。彼らは資本主義が生まれてくる前から存在していたのです。分ったことは、スキゾという気質は遺伝的であるということです。それならば前からスキゾはいたことになります。資本主義によって分裂症になったわけではないのです。もともとからスキゾだったのです。ところが資本主義という怪物が現れて世界を侵食したのです。スキゾも巻き込まれてしまったのです。この資本主義というのは西洋のパラノの叡智です。西洋人といったって、もともとは、アフリカの奥地から出たモンゴロイドと同じ原生人という先祖をもつ人類です。それが今、地球規模で再会しただけのことです。出発した時はパラノスキゾだったと思うのですが、パラノとスキゾに別れで再会したということです。ですから、スキゾは生み出されたのではなく、本来の気質が露出しただけなのです。
    ---
    ブラックホールに呑み込まれた以上、この閉息した状況から逃れる術はないのでしょうか。逃げることはできないのでしょうか。しかし、それでは解決しません。諦めてしまえば人類は絶滅します。それを座して待つしかないのです。何かうまい起死回生の方法、思考はないのでしょうか。お金がすべての資本主義というブラックホール、クラインの壷の閉じた世界、この閉息した状況から逃れる術はないのでしょうか。私達は生まれながらにしてクラインの壷の世界にいるのなら、逃げることはできないのでしょう。しかし、それでは解決しないのです。諦めてしまえば人類は絶滅します。それを座して待つしかないのです。何かうまい起死回生の方法、思考はないのでしょうか。四次元能では、きっとあるはずだと信じて、宇宙精神のトレジャーハンティング、シムダンスを始めたのです。

    量子論が見つけた答は、宇宙は対称性であり、対生成、対消滅を繰返しているということです。私達の世界も色即是空から空即是色というリサイクルしています。パラノとスキゾは対称です。左脳と右脳も対称です。ティトムとの共振でも宇宙はサイクルしているといいます。こういうことから推測すると、パラノとスキゾは、いずれ融合=消滅するのではないでしょうか。もともと人類の故郷であるアフリカでは、生まれたままのパラノスキゾの融合、つまり、対消滅した状態でした。それがパラノとスキゾに対生成して別れたのです。しかし、資本主義のお陰で再会しました。ここにパラノスキゾの融合のチャンスがあります。今は未だ、融合ではなく、衝突状態でしょう。衝突した後は、融合するしかないでしょう。宇宙の天体は衝突から融合するからです。パラノとスキゾの融合とは、西洋(左脳)と東洋(右脳)の融合のことです。しかし、左脳優位ではありません。右脳優位です。

    さて、そうなると、どのようなことになるのでしょうか。「主役の交代」「シムパラダイム」で示したように、これからは日本人の隠れスキゾが鍵を握っているのでしょうか。
    「主役の交代」については下記を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068833227

    シムパラダイムの世界観については下記を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068822496

    その隠れスキゾの代表は、東洋の叡智を受け継いだ、しかも、仏教の、その中の、道元が最有力候補でしょう。何故道元なのでしょうか。道元は、色即是空という仏教の本質を言語によって示したのです。しかも、主語論理ではなく、述語論理の言語で、悟りを表現したのです。シムダンスでは、悟りとは自我の解体した状態と考えていますが、それは同時に宇宙精神=四次元脳であると解釈します。道元は、悟りという状態を言語で表現したのですが、どのように思考すれば、その状態になるのかは、明確には言語で表現していないのです。ただ、座禅あるのみというだけなのです。それではシムダンスとしては困ってしまうのです。何とかしなければなりません。

    この解決策として期待できるのはトランスポストモダンです。これは不連続的共振的差異のモデル(即非の論理)で、資本主義の限界を解決しようと提案しています。そしてポストモダンを乗り越えようとしているのです。詳しくは下記プラトニックシナジー理論を参照して下さい。
    http://sophio.blog19.fc2.com/

    ただ、具体的にどうしたらいいのかは、不明です。哲学ですから実践論はできないのでしょう。自我がどうして良くないのかを克明に解説してくれています。しかし、なぜ、その思考がでてしまうのでしょうか。気質との関係はどうなっているのでしょうか。それらについては明らかにしていないのです。どのように自我の解体をすればいいのかということが不明なのです。パラノの多い世界、パラノの支配する世界、パラノのとの対決、それをどうやるのでしょうか。ただ、分ったとしても方法が示されなければ、とても不可能に思えてしまうのです。しかも、誰も自分がパラノだと自覚していないと思います。スキゾも自分がスキゾだとは自覚していないでしょう。それは性格だろうというだけです。これでは政治が悪い、誰が悪いというメディアと同じように現実を批判するだけに終ってしまいます。それではどうにもならないのです。シムダンスは、犬の遠吠えはしたくはないのです。

    人間をパラノとスキゾとに二分したのですが、実際は誰でもパラノスキゾです。多重人格です。パラノとスキゾの混合程度が違うのです。誰にでも右の脳はあるし、左の脳もあります。ですからパラノスキゾなのです。ただ、どちらかに偏っているのです。その偏りが遺伝子によるものなのか、教育や環境なのかは分からりません。シムダンスでは遺伝的であると思っています。熱さに強い魚と寒さに強い魚がいます。ちょっとした気候の変動で生態領域が変化します。この勢力関係は環境と相関です。つまり、魚の特性は遺伝的です。どちらが環境に適応するかで生き延びられるかが決まるのです。

    原生人はパラノスキゾからアフリカを出立して、パラノとスキゾになり、やがて、混血によってパラノスキゾが混在している民族もいます。どちらにしても、民族としてはスキゾとパラノの混合体なのです。どちらかの割合の多い方をそれぞれスキゾ民族、パラノ民族と呼んでいるだけなのです。ところが現代になって突如として、全人類がパラノとスキゾのまま出会ってしまったのです。どちらも適応して生き延びてきたのですが、欲望のままに、これからも生き延びるのが難しくなってきたことを本能的に感じたのでしょうか。これからも生き伸びるためには本来の自分に戻るしかないという力が働いて、再会したのかも知れないのです。

    混血は進化論的には生き延びる可能性を高めるのですが、こうも突然に出会ってしまうとは、進化論もびっくりです。
    しかし、今は進化的にどうなるのかではなく、遺伝的宿命を超えてなんとか生き延びなければならない時なのです。それにはパラノ(スキゾ)から、スキゾ(パラノ)への変身、スキゾパワーの積極的利用が必要なのです。右脳の活性化、開発というような類の問題のではないのです。やるべきことは現代的禅問答、即ち、述語論理の習得です。金谷武洋氏の日本語に主語はいらないという著書があります。賛否両論です。賛成する人は、スキゾ、反対はパラノであると思うのです。どうしてそういうことがいえるのでしょうか。

    レストランで食事を注文する時に「俺はカレーだ」といったとします。それは横柄な言い方です。日本では通じます。インドでも、たぶん通用するでしょう。しかし、西洋に旅行した時は保証出来ません。スキゾはスキゾを理解するのですが、スキゾが極端に少ないフランスではどうでしょうか。英語では「私はカレーを注文する」という言い方しかありません。「私はカレーである」といったら病院行きです。「俺はカレーだ」は、常識的な論理ではありません。しかし、これが場所の論理です。場の雰囲気を理解しなければ理解はできないのです。それが出来るのはスキゾの世界か、スキゾパラノの混合世界です。

    夏目漱石の「我が輩は猫である」という著書があります。この作品に対する評価は好き好きです、といってしまうと話しになりません。何故こんなタイトルつけたのでしょうか。シムダンスはこう解釈します。夏目漱石を評価するのはスキゾであり、パラノは評価しないと思います。しかし、評価された後は、スキゾは「ふーん」といい、パラノは評価するでしょう。夏目漱石が「我が輩は猫である」というタイトルにしたのは、彼自身がスキゾだからです。これほど思考と気質の関係を露出した小説は他にないでしょう。他に沢山のスキゾ作品はあるのでしょうが生成門が知らないだけなのでしょう。

    夏目漱石がスキゾであるという解釈に対してはパラノからは反論があるだろうと思います。「猫の目線で物事を捉えたのだ」と。その解釈は常識通りです。模範的答です。ビジネスでも顧客の立場に立つというのは当たり前のことです。マーケティングの基本です。最近はそれが忘れられて、食べ残しの使いまわし、産地偽装、毒入餃子などの事件が相次いでいます。相手の立場に立つという視点は、日常の会話的にビジネス的に論ずるのならば、それでもいいでしょう。今は、悟りがかかっているのです。それで分かりましたで済ますわけにはいかないのです。夏目漱石がスキゾであると仮説すると、全然違った、しかも、面白いことになるのです。

    「我が輩は猫である」というのは、どこかの誰かが「我は天皇である」というのと同じです。これと似たようなことをいうのが分裂症親和性の人です。ある人種では「私は鹿である」と日常の会話で頻繁にいいます。人類学ではこういう思考を「野生の思考」と呼んでいます。このように述語の同一視、共通性を中心に思考するのを述語論理といいます。我が輩は天皇であると日本でいえば、一笑されるか気狂いにされてしまうのですが、これも述語思考なのです。夏目漱石はこれと同じ思考で、我輩は猫であると表現したのです。

    夏目漱石は気狂いではありません。れっきとした文芸人です。大事なことは「私は鹿である」と「俺はカレーだ」は、共に述語論理であるということです。何故「私は鹿である」となるのでしょうか。何故「俺はカレーだ」となるのでしょうか。分裂症親和タイプのスキゾと野生の思考(未開人)は、こう思考するのです。

    「私は早く走る」「鹿は早く走る」だから「私は鹿である」と。

    これは三段論法とは違います。「早く走る」いう述語が共通です。ここから「私は鹿である」となるのです。これが述語思考、述語論理なのです。三段論法、主語論理では「私は早く走れる」「鹿は早く走る」で、それから先には論理が展開しないのです。してはならないのです。

    「私は日本人である」「日本人はアジア人である」よって「日本人はアジア人である。」

    このように主語が述語に含まれる関係にならないと、三段論法、主語論理では推論が進まないのです。しかし、パラノはこう反論するでしょう。「私は鹿のように早く走れる」が「私は鹿のようである」となり「私は鹿である」と隠喩的に省略された喩えに過ぎないというでしょう。そのとおりです。隠喩的表現とは述語的思考なのです。しかし、それでも、パラノ自身は「私は鹿である」とはいわないでしょう。パラノは、換喩的な表現(自我同一性を保つ)は良く使いますが、隠喩的表現は余り得意ではないでしょう。英語の世界を知っているなら、それは明白です。彼らは「I am a pen」とは絶対にいわないのです。スキゾの本人は、本当に心から「私は鹿である」といっているのかも知れないのです。単に省略しているとは思えないのです。

    「私と鹿は同じなのだ」=隠喩・暗喩
    「私と鹿はようなのだ」=直喩・明喩

    これらを述語論理として隠喩を代表させていきます。一方、主語論理とは、
    「赤いシャツ」というようなあだ名=TV宣伝でのクローズアップの手法=換喩=近接性のもので喩える=主語の同一性を失わないようにする思考・論理ということになります。

    このように隠喩に代表される述語論理が場所の論理、共生の論理という哲学に発展するのです。理屈の共生ではなく、共振的共生なのです。そういう視点で見ると、夏目漱石は、ただの思いつきで「我が輩は猫である」というタイトルをつけたのではないということが理解できたでしょうか。文豪として評価されたのですから、気狂いではないことは確かです。夏目漱石はスキゾなのです。具体的にその証拠を示してみましょう。

    小説の内容は詳しく読んでいないのですが、大略次のようであると思います。

    ・迷い込んできた猫に同情しました。
    ・猫が鼠も取れずに苦労しています。
    ・台所は、猫にとって餌の取れない場所です。
    ・豪邸の台所は、更に、猫にとって餌の取れない場所です。
    ・猫の失敗を笑っています。
    ・猫と自分は似たもの同士であると思っています。同病相哀れむです。
    ・自分を笑っています。
    ・豪邸の有り様の文明開化を批判しています。
    ・自分にはへりくだって富みを得るようなことはできないという被害妄想があります。
    ・自分は猫のようなものという感情が根底にあります。
    ・一方で、猫のように気侭に生きたいという願望もあります。

    この小説の最後は、猫が残りビールを飲んで酔っぱらい、水かめに落ちて溺れ死ぬとなっています。これぞ、分かりやすいスギゾ人間の顛末です。夏目漱石は、当時の西洋風が巾をきかせて世の中が荒れている事態を批判的に思っていました。「この風潮はどうも良くないぞ」という心境にあったのだろうと思います。うまく立ち回れば、いい思いもできるかも知れない。しかし、自分には迎合はできない。そんなやっかみもあったのではないかと思います。そこに猫がやってきたのです。猫も人間から被害を受けた生き物であると感じたのでしょう。同情したのかも知れません。こんなことから、猫を通じて被害妄想的に日常を風刺してみようという気になったのかもしれません。

    過去の人の内面だから、推測するしかないのですが、他の著書にもいじめがテーマになっているものがあります。こんなことから推測すると、夏目漱石は被害妄想者だったのではないでしょうか。スキゾがパラノの世界に入るとそうなるのです。夏目漱石は巻き込まれたのです。夏目漱石がモンゴルに生まれたならば、被害者意識ではなく、魚が水を得たような天真爛漫な気質を出していたでしょう。スギゾがパラノ世界に生まれると、

    我輩は被害者である。
    猫は被害者である。
    だから、「我輩は猫である」となるのです。これが述語思考・論理です。

    考え過ぎでしょうか。知に働けば角が立ち、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
    草枕の冒頭の言葉です。ここに、夏目漱石の分裂症親和的気質が現れているのです。
    続く。


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  • from: 生成門さん

    2008年07月18日 15時25分11秒

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    道元の悟り(1)

    引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/道元の悟り(1)<補完共振>補完共振とは、道元とティトムの四次元能を補足するためのシムダ

    引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(1)
    <補完共振>

    補完共振とは、道元とティトムの四次元能を補足するためのシムダンスです。以下、山水庵のHPを参照、編集的引用をしていきます。

    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    悟りには、二つの概念あります。インド的「悟り」と中国的「悟り」です。インドの悟りはブッダの悟りであり、「菩提」です。この菩提とは、体験(苦行による特種体験、臨死体験等)ではなく、状態(身体に現れ出る、眼は口程に物をいう等)です。菩提は涅槃や解脱とほぼ同義です。涅槃とは煩惱や自我の火が消えることであり、欲や貪りを除き去ることが、不滅の涅槃の境地であり、なにか特殊な体験を指し示しているのではありません。解脱も悪循環からの脱出、生老病死からの解放であって、これも状態です。

    一方、中国的「悟り」は、成仏という特殊な体験を指します。禅では、これを継承し、かつての仏の悟りを、悟る体験として解釈しました。しかし、禅ではこれらとは異なった意味で悟りという概念を使っているようです。その一つが、言葉を媒介にした悟り、自覚の悟り、A悟です。その二つは、修行や知的会話に触発されて起こる心理的体験です。このような体験としての悟り(B悟)といいます。

    それでは、道元の場合、悟りとはどのような内容なのでしょうか。

    道元は「座禅」をすれば「身心脱落」するという方法論を示しました。ところが、これがあたかも特殊体験(B悟)であると誤解されてしまったのです。道元は、「何時」身心脱落したかなどを重要視してはいなかったのです。それよりも「如何に」身心脱落するかを問題にしたのです。その「如何に」して身心脱落するのかという命題を解決する方法を「座禅」であるとしたのです。『座禅』は方法なのであり、結果としての悟りの内容が『身心脱落』なのです。

    だから、当然『身心脱落』という悟りの内容が重要になってきます。ただ、座禅しても身心脱落はしないのです。自覚しなければならないのです。自覚するには、悟りが何であるかを理解していなければならなりません。たえず『悟りとは何か』を探究する心構えがなければ、たちまち、元の木阿弥になってしまうのです。
    自己中心的な物欲の亡者に戻ってしまうのです。だから、一過性の悟りではなく、自省的に古い自我を解体した身心脱落でなければならず、そのための座禅なのです。これは状態としてのインドの悟りと同じであり、これをC悟といいます。

    道元は、C悟のありようを《現成公案》という悟りの内容を思想詩(思想でもあり、詩でもあるような文章)として表現しました。繰返しますが、悟りの状態である身心脱落は座禅による結果ですが、決して、悟りを得らんがための苦行の体験ではないことを注意する必要があります。

    座禅している姿が、人間を透脱して円月相(丸い形)となって体現しているのです。円相とは、姿が消えたのではなく、座禅の姿そのものです。円月相とは、月のように丸い形を悟りのイメージであるとしたのです。これが道元の「悟り」のイメージであり、具体的には現成公案を紐解くしかないのです。ここに書かれていることは、A悟でも、B悟でもない。C悟なのです。 道元の「悟り」とは、何かに成ることでも何かを得ることでもないのです。それはたえず実践し、検証し、続けなければならない一つの状態なのです。それはただ行い、証明するだけでなく、発心・修行・菩提・涅槃の同時の円循環として示されなければならないのです。

    いつ悟りがくるのか、などという問は、ナンセンスなのです。大事なことは、悟っているかどうかではなく、悟りを「自覚」しているかどうか、そして、「体現」すなわち実感しているかどうかなのです。座禅すれば、直ちに、心身脱落は体現(C悟)しています。しかし、それは一過性の悟りであり、悟りを得るためのウォーミングアップです。ウォーミングアップを悟りと錯覚してはならなりません。それは持続性に欠けているのであり、体現したことはまだ自覚できていないのです。自分が意識の内部で、根本的な自覚(A悟)ができていないです。仏に成るというより、悟りを自分の身体で実感したことを言葉で表現できて、始めて悟りの自覚です。それにはA悟が前提なのです。しかし、身心脱落=苦行体験という錯誤は、だれもが陥る間違いですから注意が必要です。

    悟りの専門家でも、悟り=悟り体験(B悟)であると勘違いをしてしまうのです。一般人が間違えるのも当然でしょう。その理由は、次ぎのように考えられます。まず、悟りは簡単に得られない、特殊な意識状態であるという先入観があります。だから難行苦行しなければ悟りは得られないという思い込みとなるのです。

    何の努力も無しに悟りが得られるはずかないと勝手に思ってしまうのです。もちろん努力は必要ですが、努力の方向、内容が違うのです。道元は、決して、特殊な荒行体験修行などは求めていないのです。

    悟りは荒業体験が必要という間違った考えは、一般の社員教育やスポーツの分野での精神鍛練と称して為される鬼の特訓等とも酷似しています。実際に、無理な苦行をした場合、心身を疲労困憊に追い詰めるので、異常な意識状態を誘引することもあり、それを悟りと錯誤してしまうことがあるのです。異常な状態に追い込まれると幻視幻聴などが体験される等、人間の意識はもろく、何かの拍子で異常現象を起こすのです。意改革や自覚への旅なとど称しての体験的修行が強いられるような方法論には警戒が必要です。悟りを得たいという欲望そのものが問題なのです。そのような欲が、難行苦行すれば「悟り」が得られるだろうとい甘言に乗ってしまうのです。それで異常な体験(B悟)に嵌まってしまうのです。

    臨死を含め一般的に神秘的体験は、強烈な印象を残し、人生観すら替え得るので、絶望に追い詰められた人は藁を掴む気持ちでそれらを求めてしまうのです。道元はそれを戒めているのです。ところが面倒なことがあります。道元自身の初期の著作の中には、悟りを開くことを促す表現が多くあり、これが悟りは体験であるとするグループに利用されてしまったのです。この問題は、道元の説き方の変遷という視点から抑えておかなければならないでしょう。

    客観的に認識できない「悟り」の言語化は、道元において様々に変化していくのです。最高の菩提としての「悟り」と、悟りの言語表現との関連は密接でありますので、後で述べます。座禅の悟り(C悟)とその自覚(A悟)というのは、道元にとっては補完関係にあります。当時、中国禅の主流であった本覚に目覚める(体験=B悟)とはまったく異なるのです。道元の主眼はいうまでもなくC悟ですが、それを自覚すること(A悟)は、非常に難しいのです。

    悟りとは何かということを言葉でいうことは難しいので、禅では不立文字といったのですが、それでは始まらないので、禅問答いう言葉により理解する方法論が開発されました。道元も、言葉によらない座禅を重要視したが、正法眼蔵という膨大なテキストを残したのです。その難しさは半端ではありません。そこで道元は、「自覚」ではなく「信頼」を持ち出すのです。座禅こそが悟りへの正しい一つの道であると宣言しても、なぜ正しいのか、ということについては、釈迦をはじめすべての如来と祖師が座禅によって会得しているからだということしか言っていないのです。 

    道元は「悟りを開く」という表現を、頻繁に使っているのですが、それは悟りを開くための条件ではなく、座禅への無条件の信頼、つまり、悟りを得るためには、座禅すれば、必ず達成できるということを保証したのです。この薬(座禅)を飲めば、必ず治る(悟る)というようなことを危ないこと言ったのです。たしかに先達が座禅によって悟りを開いたというのは、事実でしょう。だが、道元は座禅をすることに、それ以上の意味を持たせたのです。燒香、礼拝、念仏、修懺、看経などをしなくても、座禅して身心脱落することが、仏のすべてであるとしたのです。これは、すごいことでした。当時の専門家に対して、強烈な衝撃を与える言明だったのです。

    しかし、残念ながら、道元自身にその悟りを言語化する「能力」が熟していなかったのです。もちろん聴衆の未熟さもありました。ですから、次善の策として、信頼を全面に押し出したのです。座禅を信頼すれば、その効果として悟りが得られるだろうとしたのです。座禅は、まさに仏法の全てと信じるべきであって、経典や公案などのテキストには依存する必要がないとしたのです。このように道元は、ただ「座禅だけが必要である」と信じて座禅すること、それは、「体現(C悟)を自覚(A悟)前に得る」ことであって、自発的な疑問を抱くことや、悟りの知的探究は無用だとしたのです。

    しかし、人々が禅に期待したのは、「信」ではなかったのです。むしろ、欺瞞的な悟りではなく、自己自身による自覚的悟りを欲したのです。その期待に答えようとしたのが正法眼蔵です。ここには、もはや信頼をせよという言明は述べられていません。道元も又、信頼では仏法は伝わらないということを悟ったのです。
    続く。

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