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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2010年06月30日 21時37分26秒

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    Re:人間認識概念図2(続き)

    海舌さん続きです。次は、自己の客観化です。第12の原理:すべての人間は自己の位置を確定することができる。確定とは、自己を客観的に観察された事態です。以

    海舌さん

    続きです。

    次は、自己の客観化です。

    第12の原理:すべての人間は自己の位置を確定することができる。

    確定とは、自己を客観的に観察された事態です。以下、第8の原理:確定後は、実軸に配置するに従います。

    「私は今死につつある」「私は死にそうだ」という表現は、ing状態ではありません。表現したのですから自己を観察できている状態であり、従って、自らを客観視しているわけです。つまり自らが自らを確定したのです。

    >  ポイントは、第4象限を、肯定的に観るか、否定的に考えるか、ですね。

    第13の原理:すべての現象を肯定的・否定的に解釈することができる。

    第14の原理:第1象限とは凸と+1の見えない領域である。
    第15の原理:第2象限とは凸と-1の見えない領域である。
    第16の原理:第3象限とは凹と-1の見えない領域である。
    第17の原理:第4象限とは凹と+1の見えない領域である。

    第18の原理:第1象限の作用とは凸凹の共振である。
    第19の原理:第2象限の作用とは凸凹の反共振である。
    第20の原理:第3象限の作用とは凸凹の反共振である。
    第21の原理:第4象限の作用とは凸凹の共振である。

    第22の原理:第1象限の凸優位の凸凹共振の結果を実軸+1(凸)と表記する。
    第23の原理:第2象限の凸優位の凸凹反共振の結果を実軸-1(凸)と表記する。
    第24の原理:第3象限の凹優位の凸凹反共振の結果を実軸-1(凹)と表記する。
    第25の原理:第4象限の凹優位の凸凹共振の結果を実軸+1(凹)と表記する。

    第13の原理のすべての現象を肯定的・否定的に解釈することができる例を示します。

    恋愛中の場合:凸凹⇒ですから凸凹とも肯定的でしょう。

    普通の裁判中の場合:凸凹とも肯定的でしょう。

    自他共振ですから、肯定的な状態となるのは当たり前です。普通の裁判の場合、相手を裁くので、相手を否定すると解釈することもできますが、凸(裁判官)、凹(被告)としましたので、法律を守るという観点から、被告は認められたと考えれば、肯定なのです。検事と被告という構図では、また違った解釈ができるかもしれません。

    さて、凸凹⇒から、切り離された+1はどうなるでしょうか。

    第1象限の作用の結果、恋愛の場合:(男=凸・女=凹とします)では、互いを観察することになるでしょう。

    凸優位の+1(凸)では、自己の内部では凸(自我)>凹(無我)、二人の間では凸(男)>凹(女)の関係になり形式的、打算的となるでしょう。

    ときに凸凹⇒に復帰し、結婚にゴールすることもあるでしょうが、多くは破局、つまり、-1へ反転するでしょう。

    男と女の関係ではどちらを凸としてよいでしょう。

    自我(凸)・・・無我(凹)
    男(凸)・・・女(凹)

    自我(凸)・・・無我(凹)
    女(凸)・・・男(凹)


    第4象限の作用の結果、つまり、凹が優位の+1の恋愛の場合も、互いを観察するでしょう。

    +1(凹)では、自己の内部では、凸(自我)<凹(無我)、二人の間では、凸(男)<凹(女)の関係になり、深層的、疑心暗鬼となるでしょう。ときに凸凹⇒に復帰し、結婚にゴールするときもありまますが、多くは破局、背信、つまり、凸-凹⇒-1へ反転するでしょう。

    第2象限では、凸と-1(凸と凹の反共振)ですから、相思相愛の恋愛は成立しないでしょう。

    第1象限、第4象限からシフトしてきた凸-凹⇒-1は、他がないing状態ですから失恋中です。

    その他に観察されていない盲目的恋愛、つまり、片思いなどの例があるでしょう。

    第2象限の結果、第1象限、第2象限からシフトしてきた恋愛の場合、破局、背信、つまり、凸-凹⇒-1から、-1となって、「別れ」として観測されるでしょう。

    凸優位の政略結婚の場合を考えてみましょう。

    第1象限、第2象限からシフトしてきた恋愛と違って、初めから凸-凹⇒-1ですから、相手を否定した形式的結婚です。

    互いを観察するでしょうから、-1(凸)では、自己の内部では凸(自我)が主張し、凹(無我)を無視するでしょう。

    二人の間では凸(男)が優位、凹(女)は劣位の関係になり、形式的、打算的となるでしょう。稀に凸凹⇒に復帰し、幸せになるときもあるでしょうが、多くは、凸(自我)が凹(無我)を否定し、凸(男)が凹(女)を否定するので、同居離婚、仮面夫婦となるでしょう。

    第3象限の結果として凹優位の-1になるときの例は凹優位の政略結婚の場でしょう。

    凹優位の政略結婚とは、観察できない凸-凹⇒-1から観察できる-1移行しただけなので、相手を否定していることには違いがありません。愛のない結婚などと噂をされ、凸優位の-1と見分けが付かないでしょう。

    凸-凹とは、i*-(-i)=i*iですから、凸凸=凸ですから互いを観察しないのです。凸がすべてなのに凹優位の-1というのは変な解釈ですが、それが、何故、-1(凹)かといいますと、否定隠蔽された-凹がマグマとなり、事態をひっくり返すからです。

    自己の内部では凸(自我)が主張を強め、凹(無我)は否定されるでしょう。二人の間では凸(男)が絶対優位、凹(女)は絶対服従の関係になり、深層的、猜疑的となるでしょう。

    凸(自我)が凹(無我)を否定し、凸(男)が凹(女)を否定するので、同居離婚、仮面夫婦となるでしょう。

    しかし、否定隠蔽された-凹が、マグマとなっていつ噴火するかもしれないのです。それが第3象限の結果、凹優位の-1の事態なのです。

    これは、第3象限の否定的な例ですが、肯定的に位置付ける例を示します。

    裁判は、第1象限の自他共振の例として取り上げました。自(裁判官)と他=被告(容疑者)は、自他共振、つまり、自肯定・他肯定の関係です。

    これが普通の裁判なのです。自他共振が普通の裁判になるとは、一般的な感覚からするとおかしいかもしれませんが、裁判官は被告を容疑者として認めたのですから、裁判が成立したのです。

    これが第3象限になるときは、自他反共振であり、裁判官が被告を容疑者として認めないのです。ですから、裁判が成立しないのです。

    実際に、そのような裁判はいくらでもあります。検事側の控訴が棄却される場合がそれです。

    第3象限の結果、凹優位の-1の実軸には、裁判官しかいないのです。被告は存在しないのです。この場合、否定された被告凹は、否定されたことを感動しているのです。

    第26の原理:すべての解釈には解釈する人がいる。

    肯定的・・・海舌氏(ホン・ギルドの影響)、生成門、ニーチェ、空海、親鸞
    否定的・・・海舌氏、カント、最澄

    >  この図の場合は、単純、紋切り型に、近代的合理性を持たずに、直観的、体感的な判断で、世俗的、物質的欲望を目指す人間像を「悪」としてみました。

    第27の原理:すべての解釈の解釈は解釈である。

    第28の原理:すべての解釈の原点は、自他の共振関係、反共振から始めるべきである。

    第29の原理:自他の自と解釈する自分を混同してはならない。

    第30の原理: 解釈者はガウス平面の外にいる。

    第31の原理:自他の設定は任意である。

    第32の原理:自他の自を自分に設定することは自己の観察である。

    第33の原理:二つのガウス平面を同時に設置して解釈することができる。
    第34の原理:一つは凸=自=自我、凹=他=無我として、もう一つは、自=自分、他=他者などである。

    第36の原理:自我を肯定し、無我を肯定する中庸状態は、第1、2象限の作用の結果として+1に配置する。
    第37の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ自我優位の偏向状態は、第1象限の作用の結果として+1(凸)に配置する。

    第38の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ、無我優位の偏向状態は、第4象限の作用の結果として+1(凹)に配置する。

    第39の原理:自我を肯定し、無我を否定、ないし、自我を否定し、無我を肯定する中庸状態は、第3象限の作用の結果としての-1に配置する。

    i*-(-i)⇒-1と-i*-i⇒-1

    第40の原理:自我を肯定し、無我を否定する自我優位の偏向状態は、第3象限の作用の結果としての-1(凸)に配置する。

    i*-(-i)⇒-1
    例:西洋の芸術、宗教

    第41の原理:自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態は、第3象限の作用の結果として-1(凹)に配置する。

    -i*-i⇒-1

    例:東洋の芸術や宗教

    自他反共振で凹優位が、何故、東洋の芸術・東洋の宗教かといいますと自=自我、他を無我・無意識と設定するからです。

    西洋の自他の反共振では、他を否定するのですから、無我・無意識が否定されます。当然、無我・無意識の作用である東洋の芸術・東洋の宗教は否定されます。

    否定隠蔽されたからと言って、見えなくなっているのではありません。
    。ちゃんと表に出て観察されているのです。西洋から見ると隠れているだけなのです。ですから、第3象限ではなく実軸-1(凹)に配置するのです。

    しかし、自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態-i*-i⇒-1でみると、自我が否定されるのですから、無我・無意識が肯定されます。当然、自我・意識の作用である西洋の芸術・宗教は否定されます。

    否定隠蔽されたからと言って、見えなくなっているのではありません。ちゃんと表に出て観察されているのです。東洋から見ると隠れているだけなのです。ですから、第2象限ではなく実軸-1(凸)に配置するのです。

    これを纏めますと、

    第2象限:i*-(-i)⇒-1反共振の作用(見えていない)
    実軸-1(凸)科学や一神教
    実軸-1・・・・・・
    実軸-1(凹)芸術・東洋の宗教
    第3象限:-i*-i⇒-1反共振の作用(見えていない)

    となります。

    >  第二象限の芸術、宗教は、西欧のものです。
    >  東洋の芸術、宗教は第三象限です。
    >
    >  さらに、哲学でも、第三象限は、トランス・モダン哲学と書きたいところです。

    トランス・モダン哲学は第4ではないでしょうか。

    第42の原理:自我を肯定し、他を肯定するもの、又は、自我を否定し、他を否定するものは、第1と4象限の作用の結果として+1(凸) 、+1、+1(凹)に配置する。

    i*-i,-i*-(-i)⇒+1

    例:トランス・モダン哲学

    第1象限:i*(-i)⇒-1共振の作用(見えていない)
    実軸+1(凸) トランス・モダン哲学
    実軸+1・・・・・・
    実軸+1(凹) トランス・モダン哲学
    第4象限:-i*-i⇒-1共振の作用(見えていない)

    > >>科学の検証主義

    >  第二、第三、特に、第三象限に、解決の望みがあると思っています。

    私の解釈では、科学は自我肯定、無我否定なので、第2、3象限になるのですが、トランス・モダン哲学は、第1、4象限
    ですから大きな違いですね。


    海舌氏の解釈          
    第1象限 日常生活                    
    第2象限 科学・西洋
    第3象限 東洋芸術、東洋宗教       
    トランス・モダン哲学

    生成門の解釈
    第1象限 裁判の例・・・普通の裁判
         日常生活(常識に従うもの)
         恋愛
    トランス・モダン哲学              
    第2象限 裁判の例・・・冤罪の裁判
         科学・西洋芸術・西洋宗教
         非日常生活(革新)
         政略結婚・離婚 
    第3象限 裁判の例・・・控訴棄却
         東洋芸術、東洋宗教
    第4象限 裁判の例・・・同情的な裁判 
    トランス・モダン哲学

    >  最後に、私が立っている位置です。最近まで、「+1」だと考えてきました。今も、「+1」だと考えていますが、「+1」に居て、どうして、ダークマターの「-1」を想定できるのか、答えが出ません。

    私、生成門が立っている位置は、相手によって変わります。PS理論に対しては、共感しているので+1です。ですが、現在の日常的な文明に対しては、環境問題を考えても反対ですから-1です。

    ダークマターと私の関係は設定できませんので、私も答えがありません。

    >  今回は、海舌が書きたいことだけ、書きました。質問を待って、さらに、相互理解を深めたいと思います。

    お蔭様で、私の方はだいぶ整理できましたが、これでよいのかという悩みがあります。

    又、日常生活を+1としたのは、現状に満足している人は、自他共振しているので、それで良いと思っているからです。

    自=自分、他=生活であるわけですが、

    現状に満足していない人は、当然、生活を否定するのですから、自他反共振となるわけですから、-1になるわけです。

    つまり、日常生活=+1は、正確に言えば、日常生活を肯定する解釈位置です。日常生活自体が絶対的位置を占めることはないのです。解釈者の立場で決まることなのです。

    従って、日常生活=ー1もありうるわけです。家出人やホールレスにとって、日常はつらいものです。ですから、日常生活を否定する解釈位置です。

    スローライフ者やエコロジストは-1でしょう。

    この論理は政治の体制、企業の経営などにも当てはまると思います。

    体制の中心にいる党は権力を握っていて現状を肯定しているので+1、その党が野党になれば-1です。

    起業家は既成の価値を否定して起業したのですから、現状を否定してあり、-1、それが成功して成金亡者になれば+1です。

    偽装献金者は検察の追及を恐れており、検察を否定しているので-1、それが時効になって逃れば+1です。

    検察から見れば、証拠があり、犯罪行為として有罪を肯定していますから+1、証拠不十分で逮捕を断念すれば-1となるでしょう。

    要するに、どちらの立場で、この認識の図に反映するかで、同じ対象を扱っても違った位置に配置されるのではないでしょうか。

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    from: 生成門さん

    2010年07月01日 20時10分29秒

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    「Re:Re:Re:人間認識概念図2(続き)」海舌さんへそれはすばらしいことですね。今後の発展を祈願しています。>>物凄いエネルギーで、PS理論と「人

    from: kaisetsuさん

    2010年07月01日 17時36分36秒

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    「Re:Re:人間認識概念図2(続き)」生成門さんへ物凄いエネルギーで、PS理論と「人間認識図」を分析されて、とても嬉しいです。ネット一般でも、最近、

  • from: 生成門さん

    2010年06月29日 19時57分22秒

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    Re:人間認識概念図

    海舌さんへありがとうございます。>「人間認識概念図」ですが、結構、「やっつけ仕事」です。>>まず、細かく見ていきます。>>+1は、勿論、物質です。-1

    海舌さんへ

    ありがとうございます。

    >  「人間認識概念図」ですが、結構、「やっつけ仕事」です。
    >
    >  まず、細かく見ていきます。
    >
    >  +1は、勿論、物質です。-1も勿論、物質です。-1も質量を持っています。重力があります。見えないだけです。実軸上の点なので、

    +1が物質で、-1が暗黒物質ですね。

    私はPS理論の最初のころの定義、i*-i,i*-(-i)に依存しており、i*-iを自己肯定・他者肯定、i*-i,i*-(-i)を自己肯定・他者否定と考えております。

    これが原点で自己肯定・他者肯定の物質A、自己肯定・他者否定の物質Bと分類したのです。

    それで、
    物質A:-1・・・すべての物質
    物質B:+1・・・ポジトロニウム

    としました。

    理由は、
    すべての物質は、自己保存のために自己を維持しようとしています。つまり、他者を否定して存在しているのが物質だと考えたのです。エネルギーの保存則は、
    そう仕向けるようになっているのではないかと考えました。

    ですから、暗黒物質は、まだ、よく検討していませんが、

    第二象限物質A:自己肯定・<他者否定>・・・自己を強く主張することで、他者否定する物質

    第三象限物質A:<自己肯定>・他者否定・・・他者を強く否定することで自己を強く主張する物質

    第二象限物質A:-1・・・すべての物質
    第三象限物質A:-1・・・暗黒物質

    として見ました。

    >
    > > 物質についても、+1に物質、-1に物質があってもよいのではないでしょうか。
    >
    >  
    >
    > 「+1に物質、-1に物質」です。
    >
    >  第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界は、「この部分が、複素平面」ですので、海舌の理解は、生活世界に置いても、常に、凸iの虚数の影響を受けて生活していると考えています。

    複素平面であるということ自体が見えないのではないのでしょうか。見える場所は+1と-1の地点しかないのではないでしょうか。

    人間は見える見えないに関わらず生活しているのですから、複素平面で生活していると思います。

    ですから、第1象限 生活世界の生活、だけでなく、第2象限の生活、第3象限、第4象限の生活というものがあるのでないかと思うのですが、如何でしょうか。

    それを、日常生活者と言わないで、宗教家の生活、哲学者の生活と捉えるのでしょうか。

    もし、そうだとする、人はいろいろな顔を持っていますから、一人に人間は、全複素平面で生活しているということになります。そういう理解でよいのでしょうか。

    全複素平面での生活とは、四つの象限をめまぐるしく生きるのが人間であると言うことなのでしょうか。

    あるときはサラリーマン、あるときは芸術家、あるときは哲学者、あるときはXとして生きていると言うことでしょうか。

    卑近な例ですが、ホームレスや自閉的な人は、他人との関わりを捨てていると考えれば、超越的ですので、第4象限に入るのでしょうか。

    人間は多重人格者であるとも言いますから、それらはどこに入るのでしょうか。

    ぶつぶつとつぶやきながら生きている人がいますが、この人は、自分の殻に閉じこもって生きているようですから、他者を否定しているというより、他者が存在していないかのようなので、第2象限でよいのでしょうか。

    象限と人間の分類を決めるルールのようなものがあると良いのですが、どうでしょうか。

    >微分自体が、無限大など、日常生活を超越した概念を用いているので、一般的に、「第1象限 生活世界、ニュートン、近代的世界」は、+1と凸iの影響力が大きいエリアと捉えています。

    このことの言っている意味は、同じi*-i⇒+1でも、i<<*-i⇒+1、i*>>-i⇒+1というように強弱をつけているのでしょうか。

    従って、
    i*-i⇒+1:中庸
    i>>*-i⇒+1:凸i に支配されているi*<<-i⇒+1:凹i に支配されている

    従って、i>>*-i⇒+1を第1象限に配置して、i*<<-i⇒+1:凹i の支配が強まった場合を第4象限に位置するということに解釈してよいのでしょうか。

    第1象限と第4象は自己肯定・他者肯定と理解しているので、良いイメージでしか解釈できないのですが、海舌さんの解釈では自我がここにきているので、理解に苦しんでいるところです。

    近代的自我とは、自己肯定・他者否定の典型ですよね。ならば、第2か3に配置されると思うのですが、これが第1に来ているので困っているのです。

    i*-iを自己肯定・他者否と理解することが間違っているのでしょうか。

    >
    >  次に、第2象限。マイナス1の分野と凸iの精神分野です。
    >
    >  一応、マイナス1を超越的な存在としています。超越的存在が、質量を持たないというのが、近代合理性だと思いますが、中世以前は、質量を持っていることが当然だったと思います。dark matterは、勿論、質量を持っています。宗教家、芸術家などの基本的なスタンスは、ミメーシス、
    >
    > ミメーシス【ギリシャmimēsis】
    >
    > 1 芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。
    >
    > 基本的には、「超越的存在」を積極的に肯定する立場だと思います。逆に、第1象限は、「世俗領域」で、「超越的存在を断固否定します。」この意味では、虚数は、超越的存在ではなくて、単に、電磁関連作用です。
    >
    >  勿論、コスプレを何処に入れるか、など、悩ましい問題もありますが、一応、伝統的な立場で区分しました。

    この場合も、i*-(-i)からしか考える手立てがないので、
    i*-(-i)⇒-1:中庸
    i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されているi*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている

    従って、i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されている場合が、第2象限ということになるのでしょうか。

    自他の関係からいいますと、他者の否定の仕方が、自己を強く肯定することで、他者を否定するような仕方でしょうか。

    他者を否定することが、どうして宗教世界なのかということが、分かりにくいのですが、これが一神教の宗教であるといういなら分かりますが、一方、芸術までここに配置されているので、とたんに分からなくなってしまいます。

    芸術とか東洋の宗教などは、第4象限にくると分かりやすいのですが、どうなのでしょうか。

    >
    >  第3象限。ここが、最も、難解な部分です。私達の日常性から、最も乖離した領域です。
    >
    >  -1と凹iの複合した領域です>
    >  ここは、本来、不明な部分ですが、プラトニック・シナジーにとっては、好ましい領域と、解釈しました。
    >
    >  プラトニック・シナジーで主に使う、「哲学」「数学」を此処に入れました。両者とも、超越性を積極的に肯定し、また、精神世界のバックグラウンド、背景、地下水脈を暴くもの、というイメージです。

    第3象限は自己肯定、他者否定ですが、

    i*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている

    と考えて、凹iと他者とすれば、徹底して他者を否定することで、結果として自己を肯定していると解釈できますから、それが「哲学」「数学」だと言われれば、なんとなく分からないでもありません。

    しかし、科学の検証主義と言うのは、それが前提ですから、科学全般はここには入っても良いのではないでしょうか。

    人間は正当化する手段として、「俺が正しい」と先ず、自己主張をする人と「お前が悪い」と先に相手を非難する人に分かれますが、

    「俺が正しい」・・・i>>*-(-i)⇒-1:凸i に支配されている・・・第二象限

    「お前が悪い」・・・i*<<-(-i)⇒-1:凹i に支配されている・・・第三象限

    これはニーチェが分析した事例からです。

    >  第4象限は、世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージです。
    >

    i*<<-i⇒+1:凹i に支配されている

    自己肯定、他者肯定の場合ですが、自分より、他者肯定の度合いが強いと解釈すれば、良い場合は他者尊敬、悪い場合は、
    謙遜とかになるのでしょうか。

    世俗的な欲望と不透明な世界の「汚物」というイメージが自己肯定、他者肯定から湧いてこないのですが、どう理解すればよいでしょうか。

    生成門

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    from: 生成門さん

    2010年06月30日 21時33分20秒

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    「Re:Re:Re:人間認識概念図1」海舌さんへ丁寧なコメントありがとうございます。図式化こそが理解の要だと思います。図式化がなければ、これほど要領よ

    from: kaisetsuさん

    2010年06月29日 22時31分04秒

    icon

    「Re:Re:人間認識概念図」生成門さんへ双方の理解が深まる良い機会だと思います。さて、内容に移ります。まず、図示する理由は、ポイントを明示することだ

  • from: 生成門さん

    2010年06月25日 18時28分33秒

    icon

    PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面

    PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面<PS理論との共振>自己を認識するのは、内部でもない外部でもない位置に立つ必要があるということになりました。で

    PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面
    <PS理論との共振>

    自己を認識するのは、内部でもない外部でもない位置に立つ必要があるということになりました。では、内部でもない外部でもない位置とはどういう位置なのでしょうか。



    それを明らかにするために少し観点変えて探求していきます。今までは、オイラー公式を変形して、e^iθ-isinθ⇒cosθとしましたが、今回は、これを、z=e^iθとして、cosθをa、sinθをbとしてz-ib⇒aとしてみます。

    複素数は一般にz=a+ibと表現されますのでz-ib⇒aでもよいわけです。

    z-ib⇒a

    は何を意味するのでしょうか。

    元の複素数からの意味から言いますと、複素数とは、測れるものと測れないものとを合成してできた数の概念です。

    何故、心のことを理解するのに心理学ではなく、ガウス平面を理解しなければならないのかいう疑問を持ったシムハンターさんはすごい人です。

    心理学では、心は理解できないからです。何故なら、心理学は科学的だからです。科学的というのは、客観的という意味と同じです。心とは主観なのです。主観を客観したらそれはもう心ではありません。ですから、主観を主観のまま、客観を取り入れるにしても、主観を除かないように注意しなければならないのです。例えば、直感的に洞察したことを、どうすれば認識できるのでしょう。それを客観的に表現したら、もう直感ではなくなるでしょう。

    ガウス平面とは、そうした相矛盾するものを同時に扱うことのできる思考空間であると考えたら分かりやすいのではないでしょうか。

    複素数とは、測れるものと測れないものとを合成してできた数の概念であると言いましたが、ガウス平面とはまさにそうした相矛盾する空間なのです。

    測れないものとはなにでしょうか。

    測れるものの代表は物質、測れないものの代表は心でしょう。心は大きさや重さがないのですから測る方法がないのです。

    この心と物質を同じ土俵で扱おうというのがガウス平面なのです。この心を主観的な精神作用と物質を客観的な精神作用とすれば、心⇒現象としたのですから、

    主観⇒客観という表現も可能でしょう。

    これを発展させて考えると、主観と客観の違いがより明白になってきます。

    例えば、株で大儲けしたあなたは客観的には存在しますが、株で大儲けしているあなたは客観的には存在しません。株で大儲けしているあなたは第三者に知られているとしても、それは現在完了したあなたなのです。決して、現在進行形のあなたではないのです。この瞬間に大暴落してすべての儲けを失っているかもしれないのです。

    現在進行形のあなたと過去形ないし現在完了形のあなたを次のように表現して区別してみます。

    現在進行形:⇒あなた(現象)

    過去形ないし現在完了形:あなた(現象)

    これがz-ib⇒aという形から解釈した図式です。

    従って、z-ib⇒aは、合成してできた数から、測れないものを取り除いて、測れるものだけを残した数となります。つまり、複素数から虚数を除くと実数になるという意味です。

    本来の実数と複素数の実数部とは、同じ意味なのでしょうか。お金に色がないように、実数にも色が付いていませんから、どの実数でも、同じはずですが、果してどうなのでしょう。汚れたお金を洗浄して清いお金にすることをマネーロンダリングと言いますから、実数にも、そのようなことをすることがあるのでしょうか。

    もし、そうなら、aとは、⇒aからロンダリングされたaなのでしょうか。

    ⇒からでてきたaという記号で表現されるのは何を意味する実数なのでしょうか。これが今回の謎解きです。単位円の図はhttp://www12.plala.or.jp/mz80k2/electronics/complex/complex.html
    から引用しました。



    これをz=a+ibで表現したものが下の図です。これらは本質的に同じものです。


    ⇒が水平になったとき、つまり、実軸に位置したとき、θ=0ではa=1、θ=πではa=-1となります。

    ⇒が回転するとして、θ=0以外では、z=a+ib は、四通で示されます。第一象限では、a+ib、第二象限では、-(a-ib)、第三象限では、-(a+ib)、第四象限では、a-ibです。

    ⇒がどこにあっても、aは、ある値を持っています。⇒の先端がiを示すときは0、±1を示すときは、+1とー1です。それ以外では-1<a<1です。

    複素数z=a+ibのaは、もともとの定義からして実数部をaとしたのですから、実数であるのは当たり前のことです。ですが、普通の実数と同じかどうかが問われているのです。

    一応、実数⇒aは⇒付きですが、これまでの文脈からすると、心⇒現象としたのですから、aも現象していることを示していると考えるのが常套でしょう。

    ところが、aを現象しているものと解釈すると、+1(a=1,b=0)を現象とするというPS理論の前提と齟齬が生まれてしまうのです。さて、困りました。

    この難問に挑戦するには、まだ力不足は否めないのですが、何とか頑張って見ましょう。

    先ず、⇒aと⇒+1では根本的に違うと考えることからはじめましょう。

    実軸とは見える地平であるとしたのですから、-1<a<1であっても実数ですから、見える地平であることに違いはありません。単位円は、無限の直線を丸めて円にしたものだという話をしたことがあります。つまり、+1、―1は無限の代用なのです。

    そうなると、aはすべての実数となりますから、aを現象しているものと解釈するのは間違っていないようです。

    しかし、PS理論では、現象とは+1、ないしー1としたのですから現象化する前のaは見えないはずです。これより、しばらくは+1だけで考えていきます。

    実数a<1とは、そもそも何なのでしょうか。

    見えないはずの現象化前の状態が見えるまるで、赤ん坊(+1)が生まれてくる様子(a)を超音波で見ているような感じです。果して、胎児は+1の現象なのでしょうか、それとも、aは現象ではないのでしょうか。最近では帝王切開で生むこともありますから、この喩えは適切でありません。胎児も+1の現象なのです。

    このとは現象とは何かを提起しているのです。見えるということはガウス平面ではどういうことなのでしょうか。

    ガウス平面は人間の心を表現しているのですから絶対に見えない内部です。胎児のようなものには喩えられない内部なのです。

    自分の心は、何かに熱中している最中は自分でも分からないものです。自己を分析し、反省すれば分かったと言えるのでしょうが、それで心を見たと言えるのでしょうか。

    分っても見えたことにはならないのですから、まして、他人の心など見ることなどとてもできないでしょう。言葉を聞くとか振る舞いを見ない限り相手が何を考えているなど分からないのですから、見ることなどとてもできないでしょう。

    自分や他人の心を「こうだ」と確定的に言えるというのは「何か」を見たからなのです。見るまでは心の状態は不確定なのです。不確定な心を外から見るというのは、このようなことを考えている「だろう」という推理であり、想像なのです。それは事実でありません。

    確定=事実と不確定=想像では、天地の差があるのです。ただし、想像していること想像したことでは違います。想像したことを言葉にした瞬間に、それは確定した事実なのです。

    推理したことを、恰も確定したかのように断定して「言うこと」があります。それに対して、それは憶測に過ぎないと嗜めることがありますが、憶測でも、言った瞬間に、言った人の心は確定したのです。

    言ってはいけないことを口に出すことを、「それを言っちゃおしまいよ」と言いますが、言うまでは、お互いの関係は不確定なのですが、言った瞬間に、断絶することが確定するからなのです。

    このように、表面化するということは、すべて内面に対する+1という地点での言葉の戦いという現象なのです。

    表面化するということは、まだ確定していない心aを想像して表現しているのです。aは見えない内面zを、aだけを取り出して、不確定なのにも関わらず、aだろうと表現したのに過ぎないのです。つまり、見たわけでもないのに、見たかのように誤認ないし虚言しているのです。

    誤認ないし、虚言であろうと、それは言葉として発せられたのですから現象したのです。では、心の中で呟くと言いますが、それは内面なのでしょうか。それも現象でしょう。呟きと観察したのですから現象なのです。

    では、見えないaがどうして実軸に現れるのでしょう。現象とガウス平面の関係に対して何か大きな解釈の間違いを犯しているのでしょうか。

    もう一度、ガウス平面に戻りましょう。

    +1に現象化する前は、⇒は第一象限にあります。他の象限に移動することもありますが、今は、第一象限に限定して話を進めます。

    ⇒から実軸にはz=a+ibのaが出てきています。これをz-ib⇒aと変形して、しかも、aは実軸ですから、心が現象化したと解釈したのです。

    しかし、a<1です。これが⇒+1と大きな違いです。これによってPS理論と齟齬が生じたのです。これをどう考えるのかということが問題なのです。

    ⇒a(a<1)は⇒+1ではないのですから、まだ、現象していないのです。z-ib⇒aの⇒は現象化させるMPの働きと解釈しましたが、形式的にはそれでよいでしょう。

    しかし、現実には、⇒aを現象化と解釈してはいけないのです。何故なら+1以外では、⇒は+1の象限の途中なのです。⇒aの根元は原点0から伸びてきていますが、aは、+1までは達していないのです。

    現象化していない(現在進行形)
    0===⇒(a)―――――+1
    現象化した(現象化した瞬間)
    0========⇒(a)+1

    +1が現象化ですから⇒a(<1)は、まだ、現象化していない状態、即ち現在進行形なのです。ですから、見えない心の中の出来事なのです。

    従って、+1に達していない⇒aは、象限内にいるのですから心の内部なのです。図では原点から⇒が伸びていますが、+1に届いていない⇒aは、見えないのです。

    要するのに、ガウス平面上の単位円の内部は見えないということです。言ってみれば、単位円の内部とは原点=MPを拡大した図なのではないでしょうか。単位円そのものがMPなのではないでしょうか。

    所謂、MPとはブラックホールのようなものなのではないでしょうか。

    そう理解すれば、円の淵が事象の地平面ということになり、私達はその外側にいて、赤ん坊の誕生(+1)という現象化を見ていると解釈できます。

    もちろん、MP=単位円とは私自身でもあるのですから、現象化を見る私と合わせると、二人の私がいることになるわけです。従って、ガウス平面は、自分が自己を指し示している図なのです。

    私(自分)⇒私(自己)

    この⇒aのaを現象と解釈したのは間違いでした。それはz-ib⇒aとしたことに起因します。z-ib⇒a は複素数z=a+ibを、便宜的にaとibに分けて表現しただであり、本来は分離できない⇒z(=e^iθ)なのです。分離できるのは、+1、-1のときだけなのです。

    自分が自己を指し示している「私(自分)⇒私(自己)」は、⇒aでは指し示しが終わっていないのです。

    ですから、単位円の途中にいるときはz-ib⇒aは見ることができないのです。何故なら、まだ、現象化+1していないからです。この世に現れていないものを見ることはできないのです。指し示しが終わっていないのですから、自己反省もできないのです。見ることができなければ、それがどのようなものかも確定できないのです。

    実軸+1、-1こそが見えるための場所であり、同じ実軸でもa<1=円内部は、見えないのです。いや、a<1=円内部はMP=原点であり、実軸ではないのですから見えなくて当然なのです。



    このように見るまでは確定されないというような事態は、量子力学でいうところの幽霊波ではないかと思うのです。

    幽霊波というのは複素数の波であり、a+ibの形をもっています。幽霊波ですから見えないのですが、見ることによって粒子に変身するのです。つまり、観測したときに、そこに波が粒子に変身した姿を見るのです。

    これこそが、見ることで見えないものを確定したと言える事態を示しているのです。

    不確定⇒確定

    幽霊波a+ibの aだけを取り出して見ることはできないのです。もし、aだけを取り出して、それを現象というなら、それは波が粒子に変わりつつある途中の状態を見たというようなことなのです。

    脳を砕いて、これが言葉として発する前の言葉になる前の未熟な言葉なのだと言うようなものなのです。そのようなことは実際には起こりえません。それは誰でも知っていることでしょう。

    ですから、波のような粒子と表現しても、波であり粒子であるような混合した状態にあるというわけではないのです。見る前は、波であり、見た瞬間に粒子になるのです。それは、一瞬にして無時間に波が消滅するのです。

    海舌氏の海塩の例でも、食塩水から結晶化した塩になるのに途中の段階はありませんでした。それは突然やってくるのです。

    これで、aと+1ではまるで異なるということを理解して貰えたでしょうか。

    ところで、aは現象ではないという話はこれで終わりではありません。

    私達は、想像することができます。人の心を憶測できるのです。自分の内面でさえ覗くことができるのです。

    だからと言って、それで、内面を見たことにならないとは、既に述べたことですが、実は、これが、自己を認識する内部でもない外部でもない位置の話に繋がっていくのです。


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    from: kaisetsuさん

    2010年06月29日 14時02分49秒

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    「人間認識概念図」生成門さんへ御質問、ありがとうございます。>そこで、質問です。>>今、海舌さんの概念図を考えているとことろですが、>>科学と数学と宗

    from: Renshiさん

    2010年06月29日 11時50分45秒

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    「Re:PS理論の基本7:ガウス平面とは心の内面」生成門さんaの問題を興味深く見ました。ここでは、私見というか直感を述べさせていただきます。+1は覚醒

  • from: 生成門さん

    2010年06月29日 10時38分05秒

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    PS理論の基本10:未来からきた私と過去からきた私のがっちんこ

    PS理論の基本10:未来からきた私と過去からきた私のがっちんこ<PSとの共振>鶴の恩返しの話から、光のエネルギーの話に飛び火して、卵が先か鶏が先かの話

    PS理論の基本10:未来からきた私と過去からきた私のがっちんこ
    <PSとの共振>

    鶴の恩返しの話から、光のエネルギーの話に飛び火して、卵が先か鶏が先かの話になって、一応の結論が出たようです。

    虚軸の凸凹(iと-iが振動するMP=ゼロポイントでは、まだ、何も現象化していないのですから、現象が先とは絶対に言えないという結論です。

    つまり、凸凹が単に存在しているだけのMP=ゼロポイントからは、ガウス平面は生成されていないということです。つまり、まだ、回転がはじまっていないということです。

    では、凸凹(i,-i)が静的に単振動しているような状態から、どうして回転して現象化するのでしょうか。

    虚軸の凸凹(iと-i)が振動するMP=ゼロポイントでは、ガウス平面は生成されていないのですから、最初の世界はゼロ次元なのです。ゼロ次元とは、イデア界のことですから、当然、イデアが先なのです。

    既に、MP=ゼロポイントには二つの顔があると言いました。MPは虚軸と実軸に顔を向けているということです。虚軸に顔を向けているほうをMP1、実軸に顔を向けているほうをMP2とました。四次元能の文脈で言うと、虚空、実空としたものです。

    iと-iが振動する状態というのは、MP1を意味しています。

    この状態から何時、どうしてMP2にシフトして、更に、そこから+1となり、回転するのでしょうか。

    それはMP1に揺らぎが生じるからです。MP1では、iと-i、凸と凹が鬩ぎあっているのです。それがMP2にシフトするとiと-i、凸と凹が反発したり、衝突したり、共振したり、反共振したりするのです。

    MP1からMP2にシフトするときは、いろいろな状態があるのですが、ここでは簡単に、i*-i、i*-(-i)、ないし、凸i*凹i, 凸i*-凹iとしておきます。

    凸凹はまだ使い慣れていないので、i*-i、i*-(-i)でいきます。i*-i、i*-(-i)を説明しだすと長くなるので、今はi*-iだけに限定します。

    MP1で、i,-iが振動しているとして、MP2でi*-iになるということはどういうことでしょうか。

    MP1とMP2の関係を深層心理の意識と無意識とし、この関係で説明すると、分かり安いのですが、それでは四次元能の文脈に入ってしまうので、ここでは、PS理論のi*-iとは、衝突であり、共振であるということから思考してみたいと思います。

    従って、オイラーの公式に戻ってみましょう。



    オイラーの公式、e^iθ=cosθ+isinθでは、iしか出てきませんでした。-i がでてきていないのです。

    図でも分かるように、-iが出てくるのは、ガウス平面でe^iθが第三、第四象限です。しかも、第一と第三は、第二と第四は、鏡像の関係にあり、第一と第四、第二と第三は共役の関係にあります。

    すべての関係を扱うと複雑になってきますので、第一と第四の共役だけを取り上げます。

    共役というには、共存、共生、協力などと近い意味ですが、数学的には共役複素数といって、a+ibの共役複素数をa-ibなどと言います。互いに、共役複素数となっているわけです。ごく簡単に言えば、「虚数部分が反対符号の複素数」のことです。こちらを参照してください。http://onohiro.hp.infoseek.co.jp/amanojack2/a/kisokaku018.htm

    ibに対して-ibとなっているのですが、iにだけ注目すると、i,-iの関係です。これこそ虚軸のi,-iの関係そのものです。

    この共役関係が、renshi氏が指摘した「同時の指し示し」の謎を解決してくれそうな予感がします。

    では、その探求に参りましょう。



    ガウス平面はMPであり、心の内面であると考えましが、図に示したように、⇒は第一象限にしか表記していませんでした。これはガウス平面には波が一つしかないことを意味しており、しかも、回転していない上に、ぽつんとa+ib 即ち、e^iθ=cosθ+isinθがあるだけです。

    これでは世界の始まりを示していないので、ビッグバン理論に替わって、イデア創世論、を証明するために、「先ずイデアがありき」の図を描いて見ました。

    何もない世界では、実軸がないのですからビッグバンがおきようもありません。MP1では、iと-iが振動しているだけです。しかし、この状態で、既に共役関係は発生しているということです。つまり、iと-i は同時に存在しているということです。

    この状態から揺らぎが発生して、共役関係(MP1)から共振関係(MP2)に移ります。MPはカオスの状態にあり、そこから揺らぎが発生するということです。カオスの状態から揺らぎが発生するということは、この世界でも、よくあることです。MPに於ける揺らぎの発生とは、iと-iの衝突といってもよいでしょう。

    この衝突が一回限りでなく、固定され、次の共振状態に移ると解釈(想像)してよいでしょう。この共振状態を*で表記します。

    これで、i*-iとなりましたが、この、iと-iが同時にあることの意味が、イデア創世論にとって、とても重要な意味を持っていることになります。「イデアありき」とは、凸凹のイデアであり、世界の初めはイデア対称性があることが前提でなければならないのです。その理由が、これで証明されたといっても良いのではないでしょうか。

    つまり、イデア対称性からイデア振動、イデア衝突、イデア共振(メディア共振)へと、つまり、虚軸からMP1、MP2と変遷していくわけです。そして、MPの最も重要な仕事は⇒です。これが指し示しとなって、+1、つまり、現象化に進むのです。

    ここで、エネルギーの話が出てきていません。イデアとはエネルギーでもあるのですが、実エネルギーと区別して、イデアエネルギーということにします。

    Renshi氏によると、MPのエネルギーとイデアのエネルギーと現実のエネルギーを厳密に区別しているようですので、こちらを参照してください。http://sophio.blog19.fc2.com/blog-category-0.html

    世界は現象化して終わるわけではありません。世界は生々流転するのです。その流転は物質界だけで閉じているのではなく、必ず、そこにはイデア界に戻り、MPを介して、再び、イデアエネルギーを供給されて、現象化するのです。

    エコロジーが環境問題を考える重要な概念として持て囃されているようですが、物質循環しか考えていないのです。物質循環しか考えていないエコロジーなど、早晩、行き詰ってしまうのです。もう、行き詰っているのですが、それはエコロジー論ではエネルギーの限界があるからです。

    横道に逸れそうなので、抑えていきましょう。

    現象化した後はどうなるのでしょうか。

    ⇒は、⇒と⇒の二手に分かれて、方や、反時計回りに、第一象限に向かって、しかし、最後は里帰りとでもいいましょうか、自身の故郷である、イデアの世界のiに向かって回帰していくのです。

    もう一つは、時計回りに、つまり、第四象限に向かって、同じ里帰りですが、-iに向かって回帰していくのです。

    そして、二つの波が、iと-iに達したときに、再び、MPでi*-iに戻り、リサイクルするのです。このリサイクルはいつまで続くのでしょうか。

    それはイデアエネルギーが供給される限り続くのです。だから、光は永遠に進むのです。しかし、実際は、光子となって、どこかで静止するのですが、それでは、いつ、光子になるのでしょうか。それは観測者が+1に現れたときです。MPが収縮して、光子となるのです。

    これは鶴の恩が恩返しの場合も同じ構図です。自分が観測者となって+1に現れたとき、MPが収縮して、娘が鶴となったときにガウス平面の回転は止まるのです。

    ところで、シムハンターの皆さんは、三つの不思議なことに気が付いたのではないでしょうか。

    一つは、回転すると言いながら、四分の一しか回転していないということです。電磁波の図でも、フル回転で進むようなイメージでしか描かれていませんから齟齬があるように思えます。ガウス平面はメビウスの帯のように、虚と実が反転するとも言いましたので、四分の一しか回転していないとなると反転はどうなるのでしょうか。特に電子の場合、二回転しないと元に戻らないとも言いましたので、それとの関係はどうなるのでしょう。

    もう一つは、⇒の方向は原点から+1の方向に負かっているのですが、それは瞬間の出来事であり、無時間です。ところが、+1から回転すると、a+ib,a-ibのaはどちらも、+1から、0に向かって、だんだん小さくなっていくのです。

    これまでは、下の図に示すように、⇒a(<1)は、+1に向かってだんだんと大きくなるようなイメージ捉えていました。

    現象化していない(現在進行形)
    0===⇒(a)―――――+1
    現象化した(現象化した瞬間)
    0========⇒(a)+1

    これも齟齬があるように思えます。皆さんは如何でしょうか。

    そして三つ目は、二手に分かれて回転すると言うことです。何故、二手に分かれるのか、何故、反時計回りが時間の向きであり、時計回りが逆向きなのかということです。更に、逆向きに進むということは、どういうことなのかです。

    これらに答えるためには、少し思考する時間が必要です。

    その前に、共役から共振に変遷する理屈を考えておきましょう。

    a+ib の共役とは、a-ib ですから、オイラーの式は、e^iθ=cosθ-isinθとなるでしょう。

    この-iのついた式が何を意味するのかと言うことです。これが三つ目の疑問と同じ意味になるでしょう。

    a+ibとa-ibを考えると言うことは、同時に考えるということです。同時とは、文字通り、同じ時間に同じように「ある」ことです。

    ところが、同じように「ある」という「あり方」が問題なのです。

    -isinθという波を考えた場合、図でも分かるとおり第四象限にあります。



    このように、同時にあるということを拡張して考えると、MPとは波が閉じ込められた空間であると言いましたので、幽霊の波が無数に同時に存在しているということになるのではないでしょうか。

    無数の幽霊波を考えるのは厄介なので、とりあえずは、二つだけを考えていきます。

    この二つとは、第一象限のz=e^iθと第二象限のz`=e^-iθであり、z=a+ib z`=a-ibとなります。これらは同時に存在する共役する波なのです。

    同時に存在する波とはどういうことなのでしょうか。

    幽霊の波とは、縦波と横波が同時に存在すると言いましたが、この場合は、二つの幽霊の波が同時に存在するということです。

    紛らわしいので、縦波と横波が同時に存在ことを共立、二つの幽霊の波が同時に存在することを共役と言うことにします。

    この互いに共役するz=a+ib z`=a-ibの積を取ると、(a+ib) *(a-ib)となります。ここで、a=0とすると、i*-iとなります。

    このことは何を意味するのでしょうか。

    これは、始めにi と-iが衝突して共振する形として示したものです。波は、最初は単振動していて、虚軸にしかないのですから、(a+ib) *(a-ib)ではないわけです。

    しかし、重要なことは、i と-iは、初めから実数部のない二つの波であり、他の象限のどこからかやってくるのではないということです。初めは虚軸だけなのです。

    それがMPに入り、MP1では振動、MP2では共役するような形に変遷していくのです。

    共役した状態から共振する状態へは、ちょっとした加減でおきます。それが起これば同時に現象化するということです。そのちょっとした加減というのが揺らぎであり、MP作用の活動の始まりの合図でもあるのです。

    従って、世界の始まりは、共振であり、共振、即、現象化i*-i⇒+1なのです。しかも、⇒+1は時間的に無時間でおきるのです。これが本当のカタストロフでしょう。

    前回は、一つの波で、つまり、a+ibで、考えたので、b=0のときでも、a=1となるとしてのですが、これは間違いでした。

    二つの波で考えるとa+ib,a-ibで、b=1,a=0のときに突然に+1となるのです。aだけみるとaが0になると、突然1になるのですから、これが正真正銘のカタストロフです。これが不思議なところです。

    これまでは、一つの波a+ibがあり、それがb=1、a=0から次第にb=0、a=1になる右回転のイメージで考えてきたために、
    0===⇒(a)―――――+1
    となることをカタストロフとしたのですが、このようなことではないということです。

    実際は(?想像)、+1になった後に、+1から左回転が始まり、aが0に近づいていくのです。つまり、下のようになるのです。
    0――――a←====(a)+1

    そして、aが0になったときに、突然
    0(i*-i)⇒+1
    になるのです。

    二つの波が共役すると考えたことで、オイラーの式から自己認識の方程式が以外にも簡単に導かれました。

    ここには二つの幽霊が裏で画策、つまり、共役(共振)していると言うことです。

    二つの幽霊が共役するとは何を意味しているのかです。これが又、とんでもないことを示唆しているのです。

    鶴の恩返しでは、二人の自分がいると言いましたが、それは外と内の自分のことでしたが、ここでは、内に二人の自分がいると言うことになったのです。

    その一人は未来からやってきた自分であり、もう一人は過去から来た自分であり、それらが共振して、自分が飛び出してくるということです。

    ここで、iに-が付いているのは、時間が逆向きであることを意味しており、時間が逆向に進むなんて、皆さんはとても受け入れられないことでしょう。

    時計回りの右回転とは、自分が未来からやってくることを意味しているのです。つまり、この二つの波が共役共振することは、現在から未来に向かう自分と未来からやってくる自分が「がっちんこ」して自分になるのです。

    つまり、このi*-iこそが、同時の指し示しという「がっちんこ」状態なのです。

    ここから⇒が出て、i*-i⇒となって、i *-i⇒+1となって、⇒+1となり、更に+1となり、同時の指し示しの完了です。

    ここで、注意することは、回転のことはまだ、十分に検討していないのですが、初めに⇒+1があって、そこから回転がはじまるとうことです。

    オイラーの式e^iθ=cosθ+isinθからすると、θ=0からスタートするように思えるのですが、基点は虚軸、つまり、θ=90度(1/2π)の位置なのです。しかし、そこから回転するのではなく、i*-i⇒+1となって、θ=0から回転するのです。

    しかも、ぐるぐると一回転するのではなく、θ=1/2πで、i*-i⇒+1となるのですから、いつも、1/4回転してリセットされてしますのです。

    このことが何を意味するのか、二つの幽霊が共役と含めて、またまた、疑問が出てきました。

    追記です。

    先に、二人の自分がいると言いましたが、MPの世界は波の混合体でできています。この二つの波とは、時間の2つの方向、つまり「過去から未来」と「未来から過去」の2つです。これは、螺旋状に回転する回転する波、つまり「時計回り」と「反時計回り」の波でもあります。


    これらの二つの波が絡み合った世界、それが私達の世界なのではないでしょうか。

    二つの波が絡み合った世界をもう少し覗いて見る必要がある様です。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月28日 23時02分44秒

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    PS理論の基本9:鶴の恩返し

    PS理論の基本9:鶴の恩返し<PSとの共振>自己認識の方程式i*(-i)⇒+1を、オイラーの式の変形から、どのように導くことができるかを解明しようとし

    PS理論の基本9:鶴の恩返し
    <PSとの共振>


    自己認識の方程式i*(-i)⇒+1を、オイラーの式の変形から、どのように導くことができるかを解明しようとしているのですが、まだ、その答えが出ていません。

    もう少し、頑張ってみましょう。

    オイラーの式を次のように変形しました。
    e^iθ-isinθ⇒cosθ
    z-ib⇒a

    z-ib⇒aで考えても、b=0のときに、⇒+1となりますから、特に、i*(-i)⇒+1でなくても⇒+1となります。数学的な操作ならそれでも良いのですが、物理現象や心理現象にはエネルギーが必要なのです。

    そのエネルギーはどこから来るのでしょうか。i*(-i)⇒+1は、それと関連しているのでしょうか。

    鶴の恩返しの話でも、娘(主観)であるときは、心もおだやかだったのですが、覗いてみたくなったときから、つまり、主観⇒?となったときから、穏やかでなくなりました。

    どうしても見たいという欲望(エネルギー)ができたのです。そしてついに見てしまったのです。その結果、娘(主観)⇒鶴(客観)のカタストロフが起きたのです。

    でも、その代償は、とても大きかったのです。そこにいたのは、可愛い綺麗な娘ではなく、ボロボロにやつれた鶴だったのです。娘を失うことになった⇒+1は、それほどダメージが大きかったということです。⇒は心の欲望が向かう方向、つまり、主観⇒客観を意味しているのです。

    心の欲望がエネルギーだとすると、エネルギーとは何かということになります。

    当然、心⇒現象から欲望⇒客観化された形(鶴)となりますので、心エネルギー⇒物質が成り立つでしょう。

    実際、物理の世界では、エネルギー=質量×光の速度の二乗が成り立っていますので、エネルギー⇒物質としても、おかしくないと思うのです。一方、光のエネルギー=振動数×プランクの定数とも表現されるのですから、エネルギーとは波であるとも言えるでしょう。

    プランクの定数とは、エネルギーの最小単位のことですから、粒と考えればよいでしょう。そうすると、エネルギーとは粒の数ということになります。振動数が大きいということは、それだけ粒の数が多い、つまり、エネルギーが大きいということです。

    紫外線が普通の光(可視光線)より波長が短い、つまり、振動数が大きい、つまり、エネルギーが大きいので、肌に良くないという意味がこれからも理解できるでしょう。

    エネルギー=〇+〇+〇+〇+〇+〇+・・・・・=〇×n(振動数)
    〇:一粒のエネルギー

    エネルギーとは波であるということになったのですが、これでエネルギーの正体を掴んだことにはなりません。これまでの説明、つまり、エネルギー=〇×n(振動数)は、エネルギー⇒現象の現象面を説明しにすぎません。エネルギーその本性については何も言っていないのです。

    鶴の話を思い出してください。言うと、本性が逃げてしまうのです。本性を逃がさないためには、このジレンマから逃げ出さなければならないというのですから、皮肉なものです。

    そこで、再び、オイラーさんが登場してくるのです。ガウス平面の単位円の内部には波が閉じ込められているとも言いました。これが、その本性を逃がさない砦なのです。

    オイラーの式は、e^iθ=cosθ+isinθですが、この式に出てくるサインカーブがsinθの作る波であり、コサインカーブがcosθの作る波です。オイラーの式が示す波を示したのが下の図です。

    下の図は、http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/ed35400df27a2bc7e597531c08d99869から引用しました。


    オイラーの式が重要なことは、単にサインカーブとコサインカーブが別々にあるのではなく、同時にあり(共立)、しかも、それは複素数の、つまり、それ自体は見えない幽霊の波としてあるということです。

    光は電磁波(横波)であると言われるのですが、実際は、複素数の波ですから、オイラーの式で表現されます。すると、横波と縦波があります。横波である光が縦波もあるとは、どう説明したらよいのでしょうか。

    光という電磁波は、電場の変化が磁場を生み、磁場の変化が電場を生み出し、何もない真空を伝わっていくという説明が一般的ですので、これに従っていきます。

    そこで、オイラーの式の実数部分を横波=コサイン波=電場とすると、縦波=サイン波=虚数部分は磁場に相当するとしましょう。

    何故、磁場が虚数部分に現れるのでしょうか。磁場は電場の変化なり、電流すなわち電荷の移動によって生じるものです。これが電磁誘導といわれる現象ですが、私達の身近なところに、これを利用した装置があります。それが電柱の上に乗っかっているトランスです。

    磁場と電場は、異なる次元をもつのであり、e^iθ-isinθ⇒cosθからすると、磁場⇒電場であり、光は横波=電場である言っていることと符号します。しかし、実態は光の本性は縦波と横波の共立(同時に存在する)なのです。

    ただ、磁場⇒電場であるとすると、「電場が磁場を生み、磁場が電場を生む」ということ、つまり、電場⇒磁場を説明ができません。

    実際、トランスで起きている電磁誘導というのは、二次側に負荷(あなたがテレビのスイッチをオンにすること)がかかると、一次側(送電線)の電流から磁場が誘導されて、電場⇒磁場(トランス内部)となり、更に、磁場⇒電場(トランス内部)となって、二次側に電流が生起されて、テレビがつくという仕組みになっているのです。

    これまでのPS理論では、磁場⇒電場は説明ができるのですが、電場⇒磁場は説明が出来ません。四次元能では、これを色即是空・空即是色(電場⇒磁場・磁場⇒電場)と説明してきたので、問題がないのですが、PS理論ではこれをどう説明するのでしょうか。

    言ってみれば、心から物質への次元転換は説明できるのですが、物質から心への次元転換が説明できないのです。オイラーの式はe^iθ=cosθ+isinθですから、e^iθ- cosθ⇒isinθと変形してもよさそうなものですが、これまでの文脈から、私が勝手にそうするわけにも、いきません。

    それでは、どこに問題があるのでしょうか。

    それは、まだ私の理解がPS理論の基本から始めたので、PS理論の奥深いところまで、達していないということだけなのです。

    ガウス平面の第一象限に留まっているからです。ガウス平面の単位円は回転するのです。回転すれば、+1からi方向にも行くでしょう。

    つまり、実軸から虚軸へも行くのです。実⇒虚のような現象は電磁誘導以外に、実際にあるのでしょうか。それは溢れていますから示すことは簡単です。

    あなたが生まれてここに存在していること自体がそれを物語っているのです。

    今現在のあなたは心を持ったあなたですよね。しかし、生まれてくる直前はどうだったでしょうか。

    心のもっていない受精卵としてのあなたがいたと思うのです。そこから、心のあるあなたがここにいるのです。

    つまり、
    物質⇒心
    ですね。

    これを、更に、詳しく見てみましょう。

    オイラーの式を変形すると、
    e^iθ- cosθ⇒isinθ

    です。これを応用すると、

    あなたという存在-肉体⇒あなたの心

    つまり、
    物質⇒心
    となりました。

    後は、オイラーの式を変形したe^iθ- cosθ⇒isinθが認められるのかということだけです。

    このことを理解するために、再び、光の話に戻します。

    光は真空を進みます。ですから、単位円に閉じ込めておいたのではかわいそうですから、外に引き出してやりましょう。

    オイラーの式e^iθ=cosθ+isinθのθを時間と解釈して、その様子を示したのが、上に示した螺旋の図です。

    この螺旋の波は、時間が虚数的に振舞うので幽霊の波と言われるのですが、電場と磁場が交互に入れ替わって進む波ということも意味しています。

    つまり、光とは、虚=磁場と実=電場が入れ替わって進む波であるということは、この時点で、既に、虚⇒実だけではなく、実⇒虚も含んでいるということです。虚と実が入れ替わるイメージは、ここからは読み取れないので、下の図を「電磁波」http://homepage2.nifty.com/eman/electromag/wave.htmlから引用しました



    「あまり正しくはない」という注釈がついていますが、光はこのようなイメージ伝わっていると考えても良いでしょう。

    縦波と横波というイメージ捉えるためには、下の図が最適です。「光の量子力学」
    http://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/seminar/MicroWorld2/2Part3/2P34/QM_of_light.htmから引用しました。


    こうして、あたかも見てきたかのように、光が進むイメージを捉えたのですが、どっこい、幽霊波なのですから見たわけではありません。あくまで想像です。見たといった瞬間に、ぼろぼろの鶴しか見えないのですから要注意です。

    そうならないようにするために、再びこれを単位円の内部に閉じ込めましょう。

    閉じ込められた内部が外部に現象化するためには回転しなければならないということが分かるでしょう。回転している波を時間軸に表現したものが、上の波の図なのですが、では、光が進むその原動力はどこから来るのでしょうか。言い換えれば、光を回転させるものとは何なのでしょうか。

    単位円で言えば、⇒が回転するということです。従って、⇒を回転させるエネルギーとは何かという質問に変わるということです。

    鶴の恩返しの話から、⇒は心の欲望が向かう方向、つまり、主観⇒客観を意味しているとなり、心の欲望は、エネルギーとなり、エネルギーとは波ということになり、その波は、幽霊なので見えないが、実と虚を交互にくり返しているようだということになり、その繰り返しは回転しているからだということになり、回転させるエネルギーがあるとなり、その元とは何かということになって、元に戻ってしまいました。

    電磁波は磁場=縦波と電場=横波があって、磁場⇒電場、磁場⇒電場が交互に繰り返して進むと言いましたが、では、どっちが先なのでしょうか。

    人間と受精卵ではどっちが先なのでしょうか。鶏と卵ではどっちが先なのでしょうか。

    PS理論では、現象化とイデア界のどっちが先なのでしょうか。当然、PS理論では、ではイデア主義ですから、イデアが先です。磁場、卵、受精卵が先なのです。

    でも、本当にそうなのでしょうか。そうであることをどう説明できるのでしょうか。

    四次元能では、これを次元化と現象化という概念で説明をしました。次元化と現象化は、交互に進むのですが、最初はゼロの次元から始まり、それが現象化して一次元になり、それが収縮してゼロ次元になり、それが現象化して二次元となり、それが収縮してゼロ次元になり、それが現象化して二次元となり、それが収縮してゼロ次元になります。それが現象化して三次元となり、それが収縮してゼロ次元になります。

    ゼロ次元とは四次元のことですから、三次元世界が出来てしまえば、常に三次元と四次元が繰り替えしていることになります。一、二次元はその中に含まれているのです。

    要するに、虚→実→虚→実と進むのですから虚が先なのです。

    すべてはゼロポイントから始まるのです。

    ゼロポイントとは、MPのことであり、MPは、虚軸に繋がっているのであり、虚軸とはガウス平面で示したiと-iです。最近では、海舌氏は凸凹で示すようです。

    虚が先という意味は、その凸凹の虚軸が、実軸のない無次元状態、つまり、凸凹が単に存在しているだけで、ガウス平面が生成されていない状態にあるということです。

    これは、凸凹が静的に単振動しているような状態であり、嵐に前の静けさのようなものです。真空とは、そのようなものなのです。

    ただ、本当に静かであるかどうかは、別のことです。それは外から見ての話しであり、内部に入って見たら、とても静かだとは言えないでしょう。

    実際に量子力学では、このゼロポイント=真空の世界を母なる海と称しているぐらい、活発に動いていて、粒子がダンスしている世界だと言っているのです。

    粒子という言葉でさえ、外から見た表現ですから、まだ正しい表現ではないと思うのですが、このことはこれ以上、触れないことにします。

    さて、凸凹(iと-i)の虚軸が振動するMP点=ゼロポイントでは、まだ、何も現象化していないのですから、現象が先とは絶対に言えないわけです。

    つまり、凸凹が単に存在しているだけで、ガウス平面が生成されていない状態にあるということです。

    では、凸凹(i,-i)が静的に単振動しているような状態から、どうして、現象化するのでしょうか。

    いよいよ、本丸に近づいてきたようです。

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    2010年06月28日 22時42分44秒

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    PS理論の基本8:カタストロフの地点

    PS理論の基本8:カタストロフの地点<PSとの共振>aは実数でありながら現象ではないということは、なかなか理解しにくいところです。何故なら、+1は無限

    PS理論の基本8:カタストロフの地点
    <PSとの共振>


    aは実数でありながら現象ではないということは、なかなか理解しにくいところです。

    何故なら、+1は無限大の代わりなのですから、それ以上の実数はないからです。

    このような行き詰まりをどう打破すればよいのでしょうか。

    ガウス平面は内部であると言いましたので、それを手掛かり解明してみます。外部から内部が見えないように内部から外部は見えません。

    このことは、私達が地平線にと喩えて見ればよく分かるでしょう。地平線までは見ることはできますが、その先は見えないのです。当然、地平線の向こう側にいる人は、こちらを見ることはできません。

    もし、自分一人でこれをするとどうなるでしょうか。地平線の向こう側にいる自分とこちらにいる自分、これをどう呼べばよいのでしょうか。

    今、自分が内部にいるとします。ガウス平面は、内部をMPとして心を意味しているので、自分の見える範囲が内部となります。

    つまり、内部の中心、即ち、原点に私がいるとして、その私から見える範囲は地平線であり、それが単位円の淵、無限遠点の+1だということです。

    ただ、この位置は私の位置、つまり、主観の位置なので、誰にも報告ができないのです。もし、誰かに秘密をもらしたら罰が下されるのです。

    鶴の恩返しの話を思い出して下さい。お爺さんとお婆さんは、娘から着物を織っているので、私を見ないでくださいと口止めされたのですが、見てはいけないと言われても、どうしても気になって、ついつい見てしまったのですが、そこには娘はいなくて、くたびれた鶴がいたという話です。

    このなんの変哲もない鶴の恩返しという昔話は、一体何を意味しているのでしょうか。何か重要なことを教えてくれていると思いませんか。

    四次元能らしく解釈をすると、これは自己の指し示しを意味しているのではないかと思うのです。

    これを海舌氏が、自分の分身である「a」が、自分に会うために近づいてくるけれども、「a」が自分だとはっきり分かるほどに近づいてきた途端に、カタストロフ、自己と重なって消え去るという表現で言い表わしてくれました。

    ただ、自分に会うために近づいてくるわけですけれども、それは想像上のことで、実際には、近づいてくる姿は外からは見えないわけです。内から見ると、離れていっているように見えるのですが、それが突然消えてしまうわけですね。外から見ると突然見えるわけです。どちらにしても、途中の姿は見えないのですからカタストロフなのでしょう。

    それでも、何故、実数なのかという疑問が残ります。

    これを解明するには、やはり、MPの問題を明確にする必要があります。

    内側から見れば、実数でも外から見たら、実数とは+1から始まるのではないかと思うのです。内側というのは実はMPなのでないかと思うのですが、如何でしょうか。

    内側から見たMP世界は、原点から無限大までありますが、外から見ると、それがどんなに大きなMPでも、それは点でしかないわけです。

    どちら側にいても、その境界をまたぐときに、カタストロフとなるわけです。

    外側にいれば突然の現象の現れですし、内側にいれば、突然の消滅です。

    波動の収縮というのは内側から見た、つまり、想像して、そう言っているのではないでしょうか。

    又、粒子として見えたというのは、外から見て、つまり、観測して言っているのでではないでしょうか。

    このことをもう少し具体的に検討してみたいと思います。

    鶴の恩返しの話に戻します。

    綺麗な娘と鶴とは自分のことなのです。綺麗な娘となって現れたのが主観的な自分、そして自分の分身が鶴なのです。

    どっちが自分の分身かというのは、自分の本質をどっちに置くかで変わってきますが、とりあえず、主観の自分を本質とします。

    娘を主観の自分とすれば、この物語は、自分が感じたことを口に出して言ったら、それはもう主観=娘ではなくなるということ暗示しています。

    主観の娘=自分を見ようとしたら、見た瞬間に娘が消えてしまったというのは、自分が自分を指し示すことの不条理といいますか、当然の帰結を言い表しているのです。つまり、この物語は客観と主観は、同時に存在し得ないことを暗示しているということです。

    このことをPS理論の文脈で言うならば、主観の娘が消えたということは、単位円が収縮したということではないでしょうか。単位円のMPが元の原点に戻ったのです。

    ですから、後には実軸の世界だけが広がるのです。MP、単位円、複素数の話をしているときは、見えない主観の世界の話をしているのです。

    では、どうして内部を覗くことができないのでしょうか。覗いてはいけないと言われても、覗きたくなるのが人間の本性です。

    鶴の話に出てくるおじいさんとおばさん達は失敗しましたが、実は内部を見る方法があるのです。

    それは簡単なことです。想像することです。

    想像することで、覗くことができるのです。人の心を憶測できるのです。想像することで、自分の内面でさえ覗くことができるのです。

    想像したことを口にすれば、既に述べたように、内面は逃げてしまうことを注意してください。

    想像するとはガウス平面ではどの位置にいるのでしょうか。

    これが、自己を認識する内部でもない外部でもない位置の話に繋がっていくのです。

    これまでの基本事項を要約すると、以下の通りです。

    ・ aは見えない
    ・ ⇒aと⇒+1は雲泥の差がある
    ・ ⇒+1と+1は異なる
    ・ ガウス平面は心の内面である
    ・ 単位円はMPを拡大した図である
    ・ 内部には複雑な構造がある
    ・ 外部でも内部でもあるという特別な位置がある
    ・ 特別な位置とは⇒+1と⇒-1である
    ・ 二人の自分がいる
    ・ <+1の⇒aは現象化していない
    ・ ⇒aと⇒+1は現在進行形の内部の出来事である
    ・ +1、-1は現在完了ないし過去の現象である
    ・ aとは不確定の心、⇒+1は確定の瞬間、+1とは確定の現象
    ・ 心⇒現象、主観⇒客観、不確定⇒確定
    ・ 二回転すると自己が認識できる

    二人の自分がいる、二回転すると自己が認識できるということに関しては、まだ不明な点もあると思いますが、徐々に明らかにできると思います。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月25日 17時51分22秒

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    PS理論の基本6:内部が見える位置

    PS理論の基本6:内部が見える位置<PSとの共振>この当たりから自己を認識するとはどういうことかを探求していきたいと思います。PS理論では、自己を認識

    PS理論の基本6:内部が見える位置
    <PSとの共振>

    この当たりから自己を認識するとはどういうことかを探求していきたいと思います。

    PS理論では、自己を認識することをi*-i⇒+1と表現するのですが、これを現自己と現他者が共振して自己になる、或いは、凸i凹iからMP(⇒)を介して自己になると解釈もできるのですが、どう理解すればそのように解釈できるのか、全く分からないでしょう。

    これを理解するには、いきなり、i*-i⇒+1では、飛びすぎているので、オイラーの式から始めたのですが、それでも、何故、e^iθ-isinθ⇒cosθが自己を認識することになるのか、数学の素人のシムハンターの皆さんは、UFOを見たという話と同じぐらい疑心暗鬼でしょう。数学の素人の私もこれからどう話を繋ぎいで行ったらよいか苦労しているのですが、果して巧く着地できるでしょうか。

    しかし、PS理論は既にいろいろな分野で検証を済ませているので、私の水先案内が不調に終わっても、Renshi氏と海舌氏がいますので安心してください。

    四次元能でやっていることは内面の探検であり、その方法としてPS理論を駆使しているのですが、PS理論の文脈はかなり難易度が高いので、当方が理解するのに手間取っているだけなのです。

    ただ言えることは、脳の中で能をやっているのです。「能とは何か」を参照してください。http://www.nohkyogen.jp/visitor/noh1/noh1.html
    以下、編集して引用しました。

    能の主人公のほとんどが幽霊で、すでに完結した人生を物語ることが中心になっている不思議な演劇は能なのです。実体のない幽霊を登場させて、ギリギリまで省略された1つの動きの中にはいくつもの内容が込められ、一見無表情な能面には幾通りもの表情が隠されているのです。能は人間の本質や情念を描こうとしているのです。
    ―――
    幽霊⇒人間

    つまり、四次元能は、能と同じように、舞台(ブログ)で臨床することで、人間の本質に近づきたいと思っているのです。

    ギリギリまで省略された単位円の中にはいくつもの内容が込められているのです。一見無表情な能面=ガウス平面には幾通りもの表情が隠されているのです。

    臨床がシムダンスの方法ですから、四苦八苦して七転八倒する過程にこそが、真理に近づく唯一つの有効な方法であることは理解してください。これは西田幾多郎が教えてくれたことです。そして、その七転八倒のプロセスこそが回転のイメージなのです。

    ガウス平面を回転させると波のイメージになることを示しましたが、逆に言えば、波を単位円の回転の中に閉じ込めたとも言えます。回転する単位円は、外から見ると粒(球)に見えるのではないでしょうか。

    ブラックホールは内部が見えないのですが、それを外から見ると地平面として見ることができます。同じように、閉じ込められた波は見ることはできないのですが、外から見ると、粒子として見えるのではないでしょうか。このイメージを示したのが下の図なのです。下の図は、http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/ed35400df27a2bc7e597531c08d99869から引用しました。



    ガウス平面の内部は実体のない波であり、外から見ると、実体=粒として見え、内部から見ると実体のない波を閉じ込めた単位円に見えるということです。単なる粒と構造のある単位円では雲泥の差があるのです。

    もし、自分という内部を見るとどういう構造が見えるのでしょうか。

    自分の内部は波のように実体のない流動する心なのです。それを自分自身で見ることはできるのでしょうか。内観をするということで内部を見ることができるのでしょうか。

    内観したものが単位円なのでしょうか。もし、そうだとしても、自分は他人ではないのですから、他人の心は外である私からは見ることはできません。私という自分の内部なら、あたかも、外から見たかのように想像して見ることならできそうです。

    あたかも外から見るとはどのようなことなのでしょうか。

    普通に考えると、見るということは、大きな建物なら、その周りをぐるりと回ることでしょう。もし小さなリンゴなら、逆にリンゴを一回転させて見るでしょう。

    しかし、自分の内部を見るために、自分を自分の外に置くことはできないでしょう。ですから、一回転させても自分も回転してしまうので、見ることはできないでしょう。

    では、どうすれば、内部にいながら、外部にいるかのように内部を見ることができるのでしょうか。

    そう言えば、二回転させれば見えるものがありました。それは電子の場合です。電子は二回転しなければ元に位置に戻って来られない粒子でした。何故二回転しないと見えないかを説明するのは大変長くなりますので、詳しくは、「電子は二回転しないと元に戻らない」を参照してください。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100093885881

    簡単に説明します。ガウス平面の単位円の内部に、上と下に二つの円が二つあり、それぞれは反転して繋がっていると考えるのです。二つはそれぞれ一回転するのですが、全体として二回転すると解釈します。

    この二つ円を自分であると考えてみましょう。この二つ自分とは、自分の中の他人です。現自己と現他者といっても良いでしょう。

    このような二回転をイメージするために、メビウスの帯を想像して見ましょう。メビウスの帯は、表と裏が反転して繋がっており、これを鉛筆でなぞると分かるように、二回転しないと元の位置に戻ってきません。

    もし、単位円の外にいると考えると、一回転しても、内部は見えいなままですから、内部を見たことにはならないのですが、内部にいたまま二回転すると、内と外は反転して繋がっているので内部と外部が見えたことになるのです。

    実際は自分が回らなくても、単位円が一回転すれば、二回転したことになるという不思議な位置が二ヶ所だけあるのです。

    それが実軸+1とー1の位置なのです。

    外にいると、単位円の虚軸は見えないので、水平方向の実軸しか見えないのでしょう。ですから、内部が見えないというのは、当たり前のことです。

    外部にいても、内部の水平軸は実軸なのだから、見えるのではないかという反論が出ることは承知していますが、このことは本題の結論でもありますので、後にします。

    実軸+1とー1の位置に立っていると、内部と外部が同時に見えるのです。

    二回転すると、内部と外部が同時に見える位置というのはどういう位置なのでしょうか。

    回転するジャイロ(位置を示す)を想像してください。このジャイロは、+1、-1から離れて立っている、つまり、外の位置に立っている人には、内部が見えないとします。ですから、いくら回転しても内部は見えません。

    ところが、内部でもない外部でもない位置、つまり、+1、-1の位置に立っている人は、内部が透けて見えるのです。それを示した図がこれなのです。




    外部から見ると、ジャイロは円盤にしか見えないのです。天地を指す回転軸は見えないのです。円盤が回転すれば、球に見えるでしょうから、外から見ると内部の見えない粒=実体に見えるのです。

    しかし、内部は複雑な構造を持っているのです。そんなことは言わなくても、皆さんの心は複雑なことは、皆さん自身が良く知っているでしょう。しかし、これまでの心理学が、その心の中を示したことがあるでしょうか。

    心理学は外からしか見ていいないのです。その淵をたった叩いたりしてその反応を見たものを内部としているだけなのです。

    それに対して、単位円は、心の内部をまるでジャイロの内部のように透視して、簡単に示した図なのです。心理学が、これほど簡明に、しかも、ダイナミックな様子を示したくれたことがあるでしょうか。

    禅でも内部を見るのですが、その見たものを表現することはできていません。それを利用した内観心理療法などは、あるがままに見ると言いながら、外部の規定の価値を植えつけるような洗脳をやっているように思えるのです。その様なことになるのは内観法には内部のモデルがないからなのです。

    本来の自己とは何かという明確な内部のビジョンやイメージがないのですから、規定の価値を植えつけるような安易なことになってしまうのでしょう。

    本来の自己が何者かを知るためには、その内部と外部でもない、内部と外部でもあるというその立ち位置を示すことが重要なのです。それを明確にしたのが自己認識の方程式だと思うのです。

    勝利の方程式という言葉もあるように、勝利に導く方法という意味です。方程式という言葉に抵抗があるなら成功のシナリオ、匠の技などと解釈しても良いでしょう。

    もっと言えば、自己認識の方程式を自覚や悟りのシナリオ、自己反省の術と解釈してもよいでしょう。

    どう呼ぶかは別にして、大事なことは、自己を認識するために、すでに完成されたマニュアルに沿って学ぶことはできないのです。そのことを肝に銘じておいてください。

    マニュアルに沿って学ぶのは効率的ですが、それで自己認識が出来るのかというと、心のない心を学ぶということになるのです。もし、本当に本質的な内部を知りたいのであれば、シムハンターの皆さんも、私と一緒に四苦八苦して頂きたいのです。

    自己を認識するとはそういうことだと思うのです。悟りを得るような、こうすればこうなるといった成就のシナリオがあるわけではありませんが、少なくとも、それに近いものを見つけ出すのは自己自身しかないのだということを受け入れるべきなのです。

    自己認識の方程式はその土台を提供してくれているのです。

    では内部でもない外部でもない位置とはどういう位置なのでしょうか。いよいよ、自己認識の方程式の本題には迫っていくことにします。

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    2010年06月22日 17時37分55秒

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    PS理論の基本5:認識のカラクリ

    PS理論の基本5:認識のカラクリ<PSとの共振>まだまだ、PS理論の学習は基本段階なので、応用問題は解けないのですが、そんなことにはお構いなしに、どん

    PS理論の基本5:認識のカラクリ
    <PSとの共振>

    まだまだ、PS理論の学習は基本段階なので、応用問題は解けないのですが、そんなことにはお構いなしに、どんどん応用問題が出てきてしまいます。

    その一つが、Renshi氏から、指し示しには同時の指し示しがあるという指摘です。それはその通りです。これに答えるには、まだ、準備が足りません。

    テンポよく進めましょう。

    オイラー公式を変形して、e^iθ-isinθ⇒cosθとしました。

    ここで、θがゼロ(Media Point φ)になると、e^iθ-isinθ⇒cosθの値は、+1になります。これを示したのが次の図です。
    「数の認識とeiπ=-1の意味」から引用しました。
    http://www.togami.net/deep/potential/chapter33.html



    これを単位円にしたのが下の図です。これは
    http://www12.plala.or.jp/mz80k2/electronics/complex/complex.html
    から引用しました。




    θがゼロのとき、e^iφの矢印が、ゼロ点から伸びてその先端が円の淵に触れてゼロ→円の淵となっていることが+1の説明となります。

    もう一つの説明としては、Φをπとすると、eiπは、+1から単位円上を反時計回りに回転させたときに、距離πだけ進んだときの値ですので、それが、360度して戻ってくると+1になるという言い方もできます。

    どちらにしても、π=0のとき、ゼロ点からでた矢印の先端が+1を指し示しているのです。

    しかし、図を見れば分かるように、いつも+1であるとは限りません。何故なら、Media Pointは動いているのです。θがπ(パイ)の場合はどうなるでしょうか。Πとは角度のことで、180度を意味します。ゼロ点からでた矢印の先端がー1を指し示しているのが分かるでしょう。

    +1を示したり、-1を示したりするこの矢印⇒は一体何を意味しているのでしょうか。

    これをPS理論の文脈で言うと、変数シータがMedia Pointの「φ(ゼロの値)」を取る時に、精神世界のMedia Point=ゼロ点からでた矢印は、現象界ではゼロではなくて、+1となって、自己を指し示すと解釈するのです。-1は、自己の指し示しの対極にあることになります。

    ちょっと分かりにくいので、⇒+1とは方位磁針と考えて見ましょう。方位磁針は常に北を指すようにできているのですが、⇒+1を常に自己を指すようにできている自己方位磁針としましょう。

    でも、方位磁針は進む方向を示しているのでなく、現在の位置が進むべき方向に対して、どれだけ「ずれ」ているかを示すものです。ですから、方位磁針の示す北は、間接的に自分の進むべき方向を示しているとは言えるでしょう。

    一方、自分の進むべき方向を示すダイレクトに示す磁針を逆針というようです。従って、自己方位磁針とは逆針なのです。その意味で⇒+1は逆針と言えるでしょう。ただ、逆針という言葉からすると、逆方向を指すようなイメージと捉えてしまいますが、そうではないようです。

    でも、自己を指し示すというのは、不思議だと思いませんか。進む方向を示すのなら話は分かりますが、自己自身を示すなんて。そんな必要があるのでしょうか。一体、自己を示すのは誰なのでしょうか。

    もう一度図を見てください。矢印のへ根元は、ゼロから出ています。ゼロが自分なのでしょうか。自分が自己を示すのでしょうか。自分と自己は違うのでしょうか。

    自分を指し示すのなら、Uターンして戻って来なければならないでしょう。そうではないようですので、自分(0)と自己(+1)とは違うということでしょう。

    自分と自己の違いは0と+1の違いですから図的には明らかなのですが、これが何を意味するのかと言うことになるとさっぱりです。自分と自己の定義についても曖昧のままです。何かを引用して説明しても、深みにはまりそうですので止めておきます。

    そこで、オイラーの式、心⇒現象というところに戻りましょう。これを、自分の心⇒現象としての自己とします。

    現象としての自己から⇒をとれば、現象としての自己となり、心のない物理的身体ないし、心があると看做される概念的な客体としての身体となります。

    もっと簡単に言えば、
    ⇒現象としての自己とは、人間味のある自己
    ⇒が切り離された、現象としての自己とは、無味乾燥な自己
    ということになるでしょう。

    まるで、心⇒現象は、宇宙船に向かうロケットのようですね。心は、宇宙に思いを届けたい皆の心です。⇒はロケットです。その先端に載っている宇宙船は人間味のある自己です。

    宇宙船はいずれ、ロケットから切り離され一人寂しい旅が始まるのです。この状態を無味乾燥な自己とします。
    このロケットから切り離された宇宙船を無味乾燥な自己=船体としないために、もう一つのチャンネル⇒がロケットに代わって開かれるのです。

    ですから、ロケットから切り離されても地上との心は繋がっているのです。地上を私すれば、宇宙船も私です。同じ自分であり自己なのです。

    このように現象としての自己を人間味のある自己のまま、取り扱うには、心⇒現象の構図を守ることなのです。

    これではっきりしたと思うのですが、自己とは、指し示しをしている「あなた」自身であり、「私」自身のことなのです。「指し示された」あなたではないということです。

    あなたとあなたが切り離されてしまったらどっちのあなたが本当のあなたなのでしょうか。切り離されてしまったら、もはや、見られているあなたでしょう。過去のあなたです。今、現在、こくこくと交信して進行しているあなたではないでしょう。

    現在進行形のあなた、私は本来の自己であり、過去形のあなたや私は本来の自己ではないということです。まして、第三者の自己など、ずっと過去のことなのです。

    切り離されたということは見ると言うことです。観察すると言うことです。人間にとって見るということの一番分かりやすい例は、批判するということです。

    誰でも人のことについて語るのは簡単です。サッカーの試合でも、直ぐに失敗すると、監督や選手の悪口を言いたがります。

    そうした批判は大切ですが、今問題にしているのは、そのような批判が良い悪いとかいうことではありません。内面をどう見るのかということです。批判は現在を見ていないのです。批判は過去を見ているのです。


    ある選手が「下手は下手なりにやる」にやると言っていましたが、これは正直な内面の告白でしょう。

    しかし、本当に内面なのでしょうか。もう、シムハンターに皆さんは、これを内面だとは思はないでしょう。自己反省して対象化して、脚色して、「下手は下手なりにやる」と言ったのでしょう。本当の現在とは、そのことが報道されて、反応がどうなったのか気にしている今の姿でしょう。それは見えないのです。何故なら、それが心の内面だからです。

    同じく、自白というのは内面でしょうか。これも内面ではないですね。

    では、内面はどうすれば見えるのでしょうか。見えたのならそれは外面だということですから、内面ではないことになります。このジレンマをどうすれば解決できるのでしょうか。

    こうしたことを言うのはくどいと感じるかもしれませんが、これがボデイブローのように、後で効いてくるのです。

    今、私は内面のことをどう表現するのかで苦しんでいるのです。ですから、オイラーの式を変形して心⇒現象と理解して、心⇒のことを知りたいと思っているのです。

    それを、i*-iだと言ってしまうと、生半可にPS理論を理解して応用しようとするでしょう。何故そうなるのかが理解できないままでは、正しい応用はできないと思うのです。

    ⇒現象から⇒と現象を切断して、現象だけで心のことを述べようとするでしょう。或いは、i*-iを使って、強引に、心⇒現象を説明しようとするでしょう。その結果は、Renshi氏が指摘したように、-1と+1の意味を取り違えてしまったということです。

    そうならないためには、門前の小僧、習わぬ経を読むではないですが、PS理論にどっぷり浸かってみるしかないと思うのです。

    そこで、大きな関門です。

    オイラー公式が示す単位円は、心の内面を示しているということです。

    これが大きな関門だというのは、これが出発点だからです。これが間違っていたら、どうしようもありません。

    心とは見えない触れない内面なのです。誰かが、「私は悲しんでいる」などと言っても、それをその人の心などと思わないでください。心情を吐くと言いますが、まさしく吐いたのです。懺悔、告白、宣誓などはすべて、心ではないのです。

    心の映像ではあるでしょう。

    心の世界とは、そこには決して行くことのできないブラックホールなのです。つまり、Media Pointとは心のブラックホールなのです。

    その心から吐き出されたものは、言葉であり、行動で示された場合は、振る舞いなのです。激情して喧嘩をして、相手を殴ったら、その怪我をした証拠が現象なのです。

    このことを簡単に、
    心⇒現象
    と表現したのです。

    ただ、くどいようですが注意してください。

    単位円でさえ指し示したものです。ですから、単位円は心の内面と言いましたが、この時点で、過ちを犯しているのです。どうして見えない触れない心のブラックホールを、単位円という現象化した図で指し示すことができるのでしょうか。

    どうすれば、切り離された宇宙船が交信して繋がっているように、いつもでも、内面の心と繋がっていることができるのでしょうか。

    単位円は心の内面などではなく、心の内面を表現した図なのです。表現されたものは現象したものなのです。

    私がそれを心の内面として解釈して指し示したもの(概念)なのです。概念ですから、私の心の内面ではないのです。でも、それをシムハンターの皆さんが、それを心の内面と理解すれば、この概念を共有したことにはなります。

    私の心⇒単位円として表わした心の概念図(現象したもの)
    私の心⇒から、「単位円として表わした心の概念図(現象したもの)」を切断なする

    あなたの心⇒心として解釈した単位円の概念図

    共有の意味:私の心≒あなたの心

    ただ、全く同じであるという保証はないのですが、これを繰り返すことで、心の内面についての会話が成り立つと言うことになるわけです。

    同じように、海舌氏の描いた認識の概念図(下図)も、海舌氏の心そのものでありません。海舌氏が世界はこうであるとして解釈した概念なのです。

    心を映す鏡があるとしましょう。占いでよく出てくる水晶がそれです。心を映す鏡ですから、心そのものではないことは初めから分かっているのですが、占ってもらった人は、本当にそれが自分の心を映し出したものと信じてしまうのですから、占いという場所は不思議な力があることは確かです。

    このように、心とそれを映すものとが混同されてしまうのです。それが問題の所在を分かり難くしているのです。

    占い師の心⇒水晶にあなたの未来が映ったというお告げ(現象)

    お告げを⇒から切断する

    あなたの心⇒お告げを自分の未来と錯覚する(現象)

    海舌氏の描いた認識の概念が水晶に映ったお告げと同じだという喩えは適切ではないのですが、どちらも心そのものではないという点では同じなのです。

    単位円として示された心は記号化された心の概念図です。これを心´としましょう。ですから、心⇒概念=単位円=心´です。それを心=心´と勘違いしてしまうのです。

    まるで、「絵に描いた餅」を餅と思って喰らいついてしまうようなものです。この喩えが意味していることは、「絵に描いた餅」は概念であり、本物は餅のほうであるということなのですが、本物の餅を心と解釈すると、少々問題があります。

    本物の餅を心に喩えているのですが、その餅も現象なのです。

    ですから、正確に表現すれば、餅を思う心⇒餅、餅を思う心⇒絵に描いた餅であり、それを見た人が、餅を思う心で絵に描いた餅を見る⇒絵に描いた餅を餅と看做す、となるのです。

    今後、心のことをいう場合、このような混同を避けるために、「私がこう解釈した」という注釈をつけなければならないでしょう。しかし、それでは面倒です。ですから省略するのですが、シムハンターの皆さんは、もう混同することはないでしょう。

    つまり、心を「私がこう解釈した」のが心´なのです。心=心´ではなく、心⇒心´なのだということをしっかりと心に刻んでください。

    なぜ、こんな当たり前のことを、くどくど言うのでしょうか。言う方も疲れてきました。この辺で切り上げて、先に行きたいのですが、実はこの心⇒心´を心=心´と看做してしまうカラクリが巧妙なのです。

    オレオレ詐欺と言うのは、このカラクリを巧妙に使っているのです。「あばたもえくぼ」と言いますが、ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見えるものです。人間は錯覚の中で生きているかも知れません。これを特別なことと思わないでください。

    皆さんもそのような錯覚の中で生きているのです。

    これでは、自己認識の方程式に辿り着くのは何時のことになるでしょう。

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  • from: 生成門さん

    2010年06月19日 21時12分47秒

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    PS理論の基本4=指し示しとは

    PS理論の基本4=指し示しとは<PSとの共振>古典科学とは指し示しを無視していると言いました。指し示しとは、心⇒物質、精神⇒現象、魂⇒身体、気⇒身体な

    PS理論の基本4=指し示しとは
    <PSとの共振>

    古典科学とは指し示しを無視していると言いました。

    指し示しとは、心⇒物質、精神⇒現象、魂⇒身体、気⇒身体などのように物質ではないものと物質を繋ぐ行為なのです。

    そのよい例が食塩水から塩を作る場合です。食塩水から塩を作るのは心のない科学で説明が十分にできるのですが、ところが、ここでも指し示し(心)があるというのですから驚きです。

    海舌氏の「質と量の反転」http://blog.kaisetsu.org/?eid=810771を編集して引用しました。
    これが、又、難解なのですが、やっていきましょう。塩水の話が指し示しの例になる驚きの例です。

    塩の作り方は、だれでも知っている通り,きれいな海で海水を汲み、強火で熱するだけです。これだけなら古典科学です。指し示しを無視しているのです。

    海水の温度が上がると、水が蒸発して、海水中の塩分が凝結し、結晶化していきます。つまり、水に塩が溶けた流動状態から硬い状態に質的に変化するのです。

    これを、
    流動状態→硬い状態
    と表現しておきます。

    塩の水溶液とは、「水」の中に「塩」があるという意味です。「水」が主であり、「塩」は、味付けのようなものです。

    水という場に、塩(NaCl)が点在している感じです。つまり、水が背景となって「塩」を指し示しているのです。

    この段階で、何が変わったか感じてください。表現に心が入ってきたことを理解してください。

    水が塩を包む、含みむと言った方が感覚的には分かりやすいでしょうが、それがどうして指し示しとなるのかです。

    流動状態→硬い状態
    水⇒塩

    このような言い方をしても、どうしてこれが指し示し=心と言えるのか、理解できないでしょう。先に述べた弓矢の指差しの例とは違うからです。

    弓矢の場に戻って考えることにします。弓があります。そこから放れた矢が的に達します。表面的にはこれだけです。

    弓・矢・的です。矢を⇒とすれば、弓⇒的です。弓・矢・的を一つの場と考えて見ましょう。弓を引く前は、弓の場が先行してあり、的が後にあります。でも、大事なことは、こうして講釈しているのは私がいるということです。

    私は弓⇒的と解釈しているのです。弓というのを心と解釈しているのです。流動的と解釈してもよいでしょう。つまり、まだ状態が確定していないのです。これから矢が放されると状態が変化します。

    不確定から確定へと状態が進んでいくのです。そして、矢が的に接した瞬間に確定するのです。状態が固定するのです。

    矢の状態とは、不確定と確定状態が混在した中間状態にあります。

    ですから、弓と矢と的の関係を、
    不確定状態⇒確定状態
    と表現することができます。

    そして、それを観察している私という存在がいます。すべて、私という観察者が、事態を解釈しているのです。

    ですから、
    私を含む場があって、弓と矢と的があって、
    場<私:不確定状態⇒確定状態>
    が成り立っているのです。この私を弓を射る人に置き換えれば、
    場<弓を射る人:不確定状態⇒確定状態>
    場<弓を射る人:弓⇒的>
    となるでしょう。

    この場合、「場」の中心は、弓を射る人であり、弓を引くときは弓と一体となっているのですから、弓が主役=背景となって、その場に的を照らしているといってよいでしょう。

    これは演劇に喩えた方がよく分かるかもしれません。舞台が場であり、役者ないし演劇全体が的です。視線を送る観客は、舞台から見ると背景となっているのです。

    背景を従であり、役者が主であると考えがちですが、そうは考えないでください。
    視線を送る側が主なのです。舞台という場を支配している方が主なのです。視線がなければ場は成り立たないのですから、背景が主であり、役者ないし演劇が従なのです。

    不確定な状態の方が主=背景であり、確定される方が従なのです。ですから、観客にとっては、演劇を見るまでは不確定なのですから視線を送るのです。つまり、視線を送るということが、指し示す行為なのです。演劇を、役者を見ることによって、感動が得られたなら状態が確定したということです。

    演劇が開始する舞台の場<観客:不確定状態⇒確定状態>
    舞台の場<観客:観客自身⇒役者ないし演劇全体>

    この論理を塩の場合に適用して見ましょう。
    流動状態→硬い状態
    水⇒塩
    は、
    海水の場<観察者:不確定状態⇒確定状態>
    となるでしょう。
    当然、
    海水の場<観察者:水⇒塩>
    となるでしょう。

    最初の場では、海水の場ですから、水が支配しています。それは、その海水を観察者が水溶液と解釈しているのですから、そうだと言えるのです。

    これが、水が背景となって塩を指し示しているということの意味なのです。

    水が塩を指し示すというような言い方は、擬人的な表現と思うでしょうが、これは詩ではないのです。観察者という存在を組み入れることで、不確定と確定の状態の変化を指し示しと捉えることができるのです。

    これは、弓矢、演劇、駅員の指差し、贈与など、すべての森羅万象に言えることなのです。

    さて、海舌氏の説明が続きます。
    しかし、水に中に塩が溶ける割合は、温度によらず、3割を越えることはないと言います。つまり、3割を超えない範囲で、塩が溶けるということであり、それが、臨界点であり、Media Point であるということです。

    この値がネイピア数e=2.7とほぼ同じだということが不思議です。この不思議さを感じてください。

    海水の状態では、この範囲を越えることが無いのですが、確定した状態=結晶化になるとどうなるのでしょうか。

    弓矢にしても、演劇にしても、確定した後の話はしませんでした。演劇で言えることは、ブラボーの感動の嵐です。そこで、何が起きるのかです。弓が的を射たときに何が起きるのかです。

    結論を先に言えば主客の反転です。観客が舞台から見られるのです。舞台の役者は反応を知りたいのです。それで視線を観客に向けるのです。

    舞台の場はここで反転するのです。演劇が開始する舞台の場から、演劇が終了した舞台の場へと反転するのです。

    何が反転するのでしょうか。

    不確定の主体が変わるのです。観察者が変わるのです。観察者が舞台の役者に変わり、彼らの心の不確定が、動機となって指し示す行為となるのです。

    これを表現すれば、
    演劇が終了した舞台の場<役者:不確定状態⇒確定状態>
    舞台の場<役者:観客自身⇒役者ないし演劇全体>
    となるでしょう。

    ところで、「おーい、お茶」のケースでは、

    心:お茶を飲みたい(不確定)
    ⇒:「おい!お茶」
    現象:意思を理解した奥さん(確定)

    心:お茶を入れる(不確定)
    ⇒:奥さんがお茶を注ぎ、手元に運ぶ
    現象:手元に運ばれてきたお茶(確定)

    としましたから、すでに、反転した例を示していました。つまり、日常とは反転の繰り返しだということです。

    海水の場では、確定した状態からの反転はどうなるのでしょうか。

    水分が蒸発して、塩が結晶化するによって、質的変化をして凝結、固形化するでしょう。その状態を観察者は水溶液とは看做さないでしょう。

    質的変化したとは、塩の状態が流動的から固形化したということですから、位置が確定したということです。

    このような状態になると観察者は塩の結晶という名前で呼ぶでしょう。この状態こそが、塩(NaCl)が主体=背景となって、僅かとなった水分(H2O)を指し示す形になるでしょう。

    つまり、結晶とは、背景と指し示しの「反転」なのです。主客転倒の事件なのです。事件というには大げさかもしれませんが、名前が変わるということ事態が反転なのです。

    私達は名前で対象を呼びますが、それは、その度に指し示しているのです。ブーメランというのは、指し示しが自分に帰ってきたことを意味するのです。

    一般的な指し示しは命名です。命名とは、新たな事態=現象に対して、名前をつけることです。今度の菅内閣は奇兵隊内閣と名付けて欲しいようですが、果たしそうなるかどうかは分かりません。まだ確定していないからです。

    名付けるのは観察者=場の支配する方であって、支配される方ではないのです。ただ、主客は転倒するのですから、奇兵隊内閣から始まっても、それで終わりとことにとはなりません。

    出世魚という魚がいます。日本において、稚魚から成魚までの魚の成長に応じて異なる名前で呼ばれる魚のことで、ボラでは、ハク→オボッコ(イナッコ)→スバシリ→イナ→ボラ→トドと変化していきます。

    これも、不確定から確定した状態とみなすことができ、その成長の都度、観測者とボラとの間には反転があるのです。

    観測者:幼魚⇒ハク(生まれて間もない稚魚に名前をつける)
    反転した観測者:ハク⇒観測者(ハクに生態が変化していく)
    観測者:ハクとは呼べない魚⇒オボッコ
    以下、省略します。

    再び、海舌氏の塩に戻ります。

    塩の溶液では、指し示しの主体は背景としての量的に多い水であり、指し示し対象は量的に少ない塩です。ですから、これに観察者は水溶液と命名したのでした。

    一方、塩の結晶化が進むと、もはや水溶液とは言えなくなります。量的にも塩の結晶が多くなってくるからです。そこで、塩を主体として観察すると、そこに、指し示されるのは、量的に少なくなった水があるということになります。

    つまり、水溶液の塩水が、徐々に、水気の少ない結晶になっていくのですが、その中間状態というものがないのです。それが出世魚のように明確であれば、その段階毎に命名されるのですが、命名できないということは、それが観測できないということです。

    塩の結晶化が進んでいることは間違いないのですが、塩では不確定なのです。状態は曖昧模糊、混沌としているのです。

    それを弓矢で言うなら、矢が走っている最中なのです。演劇でいうなら、演劇が行われている最中なのです。この段階では、確定した状態、つまり、的の命中するのか、外れるのか、感動が得られるのか、ブーイングにされるのかは誰にも分からないのです。

    このどっちとも付かない、歯痒い時間帯、或いは状態をMedia Point=空というのです。

    ですから、Media Pointが開くときは、劇的なのです。それは演劇が終わった瞬間であり、矢が突き刺さった瞬間なのです。

    結晶化に於けるMedia Pointでも、同じような劇的な瞬間となるのです。

    結晶化が進んで、現象化すると観察者は、それを感知します。結晶化の程度は、何パーセントなどとは言わないのです。そこに現れた塩は水溶液でもなく、水気の多い塩などでもなく、明らかに結晶化した塩なのです。

    これが、塩が主役となった反転劇であり、背景と指し示しの対象が反転すると言ことの意味であり、急激な質的変化であり、不連続的変化なのです。

    観測者の立場でいうと不確定が確定した瞬間なのです。

    水溶液⇒結晶化した塩

    以上、指し示しの理解でした。

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    from: 生成門さん

    2010年06月22日 14時14分48秒

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    「Re:Re:PS理論の基本4=指し示しとは」Renshiさんコメント、ありがとうございます。>私の単純な発想では、>+iを水、-iを塩にして、>(+

    from: Renshiさん

    2010年06月22日 09時04分19秒

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    「Re:PS理論の基本4=指し示しとは」生成門様本稿を興味深く読みました。Kaisetsu氏の指し示し論を巧妙に説明していると思います。塩水を作る場合

  • from: 生成門さん

    2010年06月19日 20時47分47秒

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    PS理論の基本3=オイラーの公式の変形

    PS理論の基本3=オイラーの公式の変形<PSとの共振>この図は海舌氏が世界に対して認識していることを描いた概念図です。元の図はhttp://photo

    PS理論の基本3=オイラーの公式の変形
    <PSとの共振>

    この図は海舌氏が世界に対して認識していることを描いた概念図です。元の図はhttp://photozou.jp/photo/show/240326/40405552です。


    PS理論の中核である自己認識方程式、即ち、(+i)*(-i)⇒+1はオイラーの公式を活用したものです。自己認識方程式の諸要素、+i, -i, +1, -1, *, ⇒(Media Point)の説明は
    http://ameblo.jp/renshi/entry-10221750748.htmlに詳しく述べられています。数学的な説明はこちらです。http://ps-theory.kaisetsu.org/
    以下、編集して、引用しました

    オイラーの公式を変形する理由を説明するために、超越数を説明しようとして、手間がかかってしまいました。しかし、その背景には超越性が隠れているということを感じてもらえたでしょうか。超越数と超越性とは親戚なのです。

    そこで、話を精神性=超越性に戻します。

    オイラー公式を

    e^iθ-isinθ⇒cosθ

    (⇒は次元の違いを表す。)と変形しました。

    オイラーの式を変形したのは、精神と物質を=で繋ぐと言うのは、常識の世界でなくても、いきなりでは無理があるからです。

    精神と物質の世界では土俵が違うのです。ですから、=ではなく⇒で繋いでいるですが、その本当の狙いは、次元が違うということなのです。

    次元が違うことを土俵が違うことに置き換えて理解するために、長い遠回りをしたのですが、無駄ではなかったと思うのですが如何でしょうか。理解できなかったとしても、当方に責があります。もう少し頑張ってみましょう。

    さて、いきなり、精神世界と現象世界を=で結びつけられたら、オイラーさんも困ってしまうのでしょうから、オイラーさんを安心させるために、

    超越性=現象性
    ではなく、
    超越性⇒現象性としましょう。

    超越性にまだ抵抗がある人は精神性と言い換えても良いでしょう。

    どちらにしても超越性=精神性と現象性(物質)はまるで水と油のように溶け合わない、異なるものどうしです。それを=で結んでしまったら、A=Bでなければならないという=の使用ルールに違反してしまいます。

    Y=X+1という式があります。この場合、Y=3とすると、3=X+1ですから、X=2が決まります。これがルールです。これと同じように、水=油+xとして場合、Xには答えがありません。つまり、ルールが成立たないのです。

    精神と物質が交わらないと言うことを言いたいがために、水と油は交わらないというメタファを持ち出したのですが、最近では水と油を混合させる技術があるようですから、このメタファは適切ではないかもしれません。

    ⇒が、精神が物質になるという意味なら、尚更、水は油にはならないのですから、メタファとしてさえ使えないでしょう。

    水も油も分解すれば、電子と陽子と中性子になるのですし、さらに分解すれば見分けの付かない素粒子になってしまします。素粒子できているのが物質ですから、水も油にならないとは言えないのです。一億年前の水の素粒子が、その後に油の素粒子となっているかも知れないからです。

    将来では、スピンエレクトロニクスが発展して、自在に素粒子をコントロールして水から油を生成できるかもしれません。それは物質という次元の話し、つまり、土俵が同じだから言えることなのです。

    精神が物質になるという話になると、同じ土俵では無理があります。いくら、魂が乗り移るという話しが本当でも、同じ土俵、例えば、この世の身体同士では無理があるでしょう。

    それで精神と物質を=で結ぶということは、精神が物質になることを意味するのですから、水が油になるよりもっと酷いルール違反なのです。

    しかし、精神と物質を=で結ぶということがおかしいのは、それが数学の世界のことだからであり、精神が物質になるというのは事実なのです。魂が乗り移るという話しは「事実ではない」ということは「ない」のです。

    同じ物質の土俵なら、魂が乗り移るという事実はないのですが、土俵を変えさえすればそれは可能なのです。

    そのことを示して見ましょう。

    私が気合を入れるとします。するとその結果は溌剌とした行動に現れるでしょう。これが、精神が物質になるということの簡単な証拠なのです。事実は理論より奇なりなのです。

    これを古典科学という立場で、つまり、同じ土俵で説明しようとするから、どうにも説明できないのです。

    ですから、ルールの方を変えなければなりません。そこで、左辺の霊的世界=精神性から現象界に現れる様を「指し示し⇒」という記号を用いる解釈を採用したのです。これならオイラーさんも許してくれるでしょう。

    又、又、難解な言葉が出てきました。これでは、先に進めません。「指し示し」とは何でしょうか。海舌氏に助けてもらいましょう。「質と量の反転」http://blog.kaisetsu.org/?eid=810771を編集して引用しました。
    これが、又、難解なのですが、やっていきましょう。塩水の話が指し示しの例になるとは驚きです。

    普通、指し示しとは、指差しですから、指で対象を示すことです。駅員がやっているあのポーズです。弓矢のポーズも指し示しでしょう。弓で射るという行為は指し示しなのです。的が指し示す対象です。

    弓で射るとして構えた手には、弓と矢があります。弓はエネルギーを矢に伝える媒体であり、矢は弓を引く人の意思を伝える媒体です。弓矢という物質=媒体と身体と心が一体になって、矢を放した瞬間、意志とエネルギーが矢に移って的に向かって飛んでいきます。

    物理的には矢は手から放れますが、身体と心と矢は一体です。

    的に突き刺さった瞬間に、心と的がつながります。つまり、指し示しの完成です。
    これを図示すれば、
    ●⇒◎
    ●:身体・心・弓矢、場
    ⇒:矢、空気、場
    ◎ :矢、的、場
    と表わせるでしょう。

    ここで、●から、心だけを抽出して〇とします。的場には、矢が来ますが◎のままでよいでしょう。
    ●⇒◎は、〇⇒◎
    となりました。

    何をしたのかということですが、オイラーの式の変形したことと同じことをしただけです。厳密には、右側には身体も持っていかなければなりませんので、
    ●⇒◎は、〇⇒◎+矢+身体ですが、◎を物質の代表なので、表現としては〇⇒◎で良いということです。

    弓の指し示しは、
    心⇒的
    となりました。
    これは、
    精神⇒物質
    ということです。

    ここから言えることは、指し示しはオイラーの式で表せるということであり、精神⇒物質という一般的な形をしているということです。

    普段の生活でも、指し示しは良く使われています。良く使われているというより、すべてが、すべての行為が指し示しの連続であると言えるでしょう。

    「おい!お茶」と言ったとします。これはどのようになるでしょうか。
    心:お茶を飲みたい
    ⇒:「おい!お茶」
    現象:意思を理解した奥さん

    心:お茶を入れる
    ⇒:奥さんがお茶を注ぎ、手元に運ぶ
    現象:手元に運ばれてきたお茶

    こうしてことが日常会話では延々と繰り返されるわけです。

    贈答ではどうでしょうか。
    心:お祝いしたい
    ⇒:プレゼントする
    現象:贈り物を受け取った人

    この後の返礼などと続きますが省略します。

    交換というのは、普通の感覚では、
    交換したい心⇒交換したもの
    で表現されますが、
    経済学では、
    交換したいもの=交換したいもの
    となり、これを等価交換と言います。

    何が、どこが違うのでしょうか。経済学では、交換したい心がないのです。指し示しがあるのですが、無視しているのです。古典科学とは指し示しを無視しているのです。

    指し示しとは、心⇒物質、精神⇒現象、魂⇒身体、気⇒身体などのように物質ではないものと物質を繋ぐ行為なのです。

    これで、指し示しを理解する準備ができました。海舌氏の海水の例を取り上げて見ましょう。


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