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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2010年07月14日 14時26分33秒

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    根源回帰(-1への自己への回帰)

    根源回帰(-1への自己への回帰)<PSとの共振>一旦は、用済みとした反共振ですが、Renshi氏の「反共振は共立と根源回帰ではないのか」http://

    根源回帰(-1への自己への回帰)
    <PSとの共振>



    一旦は、用済みとした反共振ですが、Renshi氏の「反共振は共立と根源回帰ではないのか」http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1542.htmlのあくなき探求の結果によって、もう一度、再考することにします。

    反共振はMP2の共振を否定する作用であると考えてきました。ですから、MP1の即非の共立を意味すると考えることができるとも言いました。

    これまでは、MP={i*-i,i*-(-i)}としてきたことを、MP1=iの-iの共立、MP2= iの-iの共役として、{i*-i、i*-(-i)}は棄却とすることになったのですから、大きな深化的な変更です。

    ところで、共立は和であるとして即非が妨げあわないで存在する様式を与えたのですが、これは、言ってみれば無風状態の和合夫婦のようなものです。いてもいない空気のような状態ですからpH7の夫婦、つまり、ゼロ、ないし0i夫婦と言えるでしょう。

    この無風状態からガウス平面を回転するとします。先ず、最初の位置を-1として、そこから、iは1/4右回転して、-iは1/4左回転して、虚軸で、i*-i となり、共振だと、+1となるのですが、反共振、つまり、-ですので-1となります。これを反共振の作用i*-(-i)⇒-1としたわけです。

    もし、このような回転があるとすると反共振と共立の和の二つの「解」があることになります。つまり、共立の和と反共役(反共振)の積の-1です。



    しかし、よくよく考えて見ると反共振とは、-(-i)ではなく、iと-i が回転してから-としましたので、i*-i =+1*(-)としたわけです。

    これは*の否定ではないかということです。つまり、共役自体の否定しているのです。共役とは即非の否定ですから、共役の否定は即非の肯定となるわけです。そうすると、i*-(-i)⇒-1は成立しないということで用済みとしたのです。

    つまり、反共振とは反積であり、それは、和、つまり、i+(-i)としなければならないのです。これによって、i*-(-i)⇒-1とは反共振の式は成り立たないということになったのです。

    そうならば、i*-i =+1*(-)は何かということです。これは、-1からでたiと- iが出会いを求めての別れの旅であり、iの右回転、-iの左回転であり、再び-1に戻るための起源(-1)への回帰・再帰とみなせるのではないのでしょうか。

    しかし、このような回転があるかどうかが問題ですし、起源(-1)への回帰であるならば、他にも、-1へのルートがあると思うのです。

    その一つとして、互いを包む商を観ても良いのではないでしょうか。

    商を/で表記すると、-iが iを包むなら i/-i⇒-1、iが-iを包むなら-i/i⇒-1となるでしょう。無風状態の夫婦は人生を悟った夫婦であり、阿吽の呼吸で、i/-i⇒-1-i/i⇒-1しているのかもしれません。

    少し複雑になってしまいましたが、以上から、反共振とは和=共立であり、商は根源回帰であるということになりました。

    こうして反共振は棄却されることになりました。そうなる残る疑問は、無我の否定としての-(-i)はどうなるのかということです。

    -(-i)とは+iですから凸iとなり、自我になるでしょう。つまり、無我-i、凹iの否定とは自我+i、凸iであり、それは、その否定によっては、積、即ち、i*-(-i)は無効な式ということです。

    一方、反動として、-i*-i⇒-1もありましたが、自我の否定としての-iはどうなるのでしょうか。これも、自我i、凸iの否定とは無我-i、凹iであり、それは、その否定によっては、積、即ち、-i*-iは無効な式ということです。

    この意味からも、i*-(-i)とした本来の意味は、自我+i、凸iの根源回帰、-i*-iは、凹iの根源回帰を意味するということです。

    根源回帰という表現だと虚の自己への回帰という誤解をしてしまうかもしれませんので、-1の自己回帰とした方がよいかもしれません。これだと、+1の自己認識との齟齬が出てきそうですが、+1の自己とは身体性があり、-1の自己は精神性(心の残像、残骸)なので、これでいきたいと思います。

    積とは自我凸iと無我凹iの積であり、無我の否定との積、自我の否定との積はないと考えてよいでしょう。無我の否定は単に自我、自我の否定は無我なのです。

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    from: kaisetsuさん

    2010年07月15日 22時54分12秒

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    「Re:根源回帰(-1への自己への回帰)」生成門様素晴らしい図ですね。海舌も、この図を基に考えを進めます。また、「共役複素数」の和と積を、「共立」「共

  • from: 生成門さん

    2010年07月14日 15時38分26秒

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    PS理論で使う概念の整理(自己と自我など)

    PS理論で使う概念の整理(自己と自我など)<PSとの共振>反共振という精神の作用はなく、それに変わって共立という概念が出てきました。共立とは、MP1の

    PS理論で使う概念の整理(自己と自我など)
    <PSとの共振>

    反共振という精神の作用はなく、それに変わって共立という概念が出てきました。共立とは、MP1の精神作用です。これがMP2の作用にブレーキをかけることができるのでしょうか。Renshi氏の思索が続きます。http://ameblo.jp/renshi/entry-10581504040.html
    以下、編集して引用しました。

    Media Pointおいて、凸iと凹i(iと-i)との関係をどのように考えたらよいのでしょうか。

    虚軸のMedia PointをMP1、実軸のMedia PointをMP2とします。

    さて、(+i)*(-i)⇒+1 において、*は積を意味し、その精神作用の結果として、+1の実軸上に同一性をもった実体を現象するとしました。

    同一性とは、実体(人や物)がどのよう場合でも、同じであり続け、変化しないことを言います。

    一般的な物の場合を自己同一性、人の場合は、一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていることを言い、自我同一性や主体性があると言います。

    アイデンティティなどとも言い、「らしさ」というような表現も使います。

    自己と自我が出てきましたが、自己と自我の違いが、余り明確ではないようです。そこで、自己と自我の違いを学んでおきましょう。「自己と自我の相補性、ユングの心理分析」を参照してください。http://charm.at.webry.info/200608/article_6.html
    以下、編集して引用しました。

    自我と自己の最大の違いとは、現実的な自分の立場からの判断や知覚を最優先してそれ以外の精神内界のイメージや感情を否定する機能が自我であり、外的現実性以外の内的現実性も受け容れて精神内界のイメージや情緒の意味を読み取ろうとするのが自己であるという事です。

    意識領域の中心にある自我は、無意識領域から侵入してくる強烈なイメージ(元型)や圧倒的な欲望を否定して抑圧しようとしますが、意識と無意識の中心にある自己は、無意識から生起してくるイメージ(元型)の持つ意味を解釈し、圧倒的な欲望を現実世界に合わせた形で充足させようとします。
    ―――
    ユングの自我と自己の定義を満ちこんだのは、PS理論との整合性が良いからです。その根拠は、

    1:ユングには自己という元型があります。
    2:自己とは無意識と意識の両方を合わせた精神内界全体の中心に位置します。
    3:自己は自己実現の原動力になっています。
    4:元型は陰陽の対称性があります。
    5:自我の行き過ぎにブレーキをかける無意識の補償作用があります。
    6:自我と自己の葛藤があり、それが心のエネルギーの揺り戻し、反動となります。
    7:元型イメージが意識に現れてきます。
    8:元型には言語を生成する体系があります。
    9:夢に現れるのは元型であると解釈します。
    10:夢解釈はすべて元型の対称性を基盤にして解釈されます。
    ―――
    自己は意識と無意識を統括して、自我は意識であるということです。仏教では自我に対して無我がありますから、無我は無意識に対応させることにします。また、仏教では本来の自己とも言いますから、その場合は、無我を自己としているのだと思います。

    自己と自我、無我、自分、そこに自我同一性、自己同一性、主体性と難しい言葉が頻発しますので混乱していますが、一応、ここで、概念の整理をしておきます。

    意識:自我を生む精神(虚軸凸i)
    無意識:無我を生む精神(虚軸凹i)
    自我=凸i(虚軸の自=虚的自己)
    他者=凹i(虚軸の他=虚的他者)
    MP1領域: 差異の共立(凸i♯凹i)=即非
    MP2領域: 差異の共役(凸i*凹i)
    不連続的差異:虚軸の対称性=(凸iと凹i)
    連続的差異:実軸の因果性で繋がる違い
    差異:単に、差異と言ったときは不連続的差異を意味する

    差異の共振:差異の共役=即非を無化する
    差異の反共振:ない

    MP2の作用=差異の共役:凸i*凹i⇒+1
    MP1の作用=差異の共立:凸i♯凹i⇒-1

    自分:差異の共役によって+1に現れた+1(凸凹)「私」
    自己:自己を認識した人間(自分)
    自我人間:差異の共役によって+1に現れた意識優位+1(凸)の「私」
    無我人間:差異の共役によって+1に現れた無意識優位+1(凹)の「私」
    自己同一性:+1に現れた+1(凸凹)「私」が普遍であることの性質(即非=差異がある共立人間)
    自我同一性:+1に現れた意識優位+1(凸)の「私」が普遍であることの性質(即非=差異がなくなった自我人間)

    +1:現象世界、客観的世界、物質的世界、日常的生活世界
    -1:非現象世界、主観的世界、直感的世界、非日常的超越世界


    まだ、曖昧ですが順次更新していきたいと思います。

    MP1が共立(凸i♯凹i)、MP2が共役(凸i*凹i)の違いについては、この後に明らかにします。

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  • from: 生成門さん

    2010年07月14日 15時23分42秒

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    共立は二回転して+1に出てくる

    共立は二回転して+1に出てくる<PSとの共振>反共振は姿を消して、替わって共立が主役に踊り出てきましたが、この即非(差異)の共立の「力」をどう生かすか

    共立は二回転して+1に出てくる
    <PSとの共振>

    反共振は姿を消して、替わって共立が主役に踊り出てきましたが、この即非(差異)の共立の「力」をどう生かすかが人類に課せられた大きな課題となってきました。

    PS理論は、その理論化に向けて頑張っているところなのですが、その手始めとして、この共立をどう数式で表現できるのでしょうか。「反共振について:i*-(-i)とは何か」http://ameblo.jp/renshi/entry-10580784980.htmlを参考にして考えます。以下、編集して引用しましした。

    海舌氏は、共立は和であるとしています。テレビやラジオの電波は、この空間を互いに妨げないで飛び通っていますから、共立を波の重ねあわせと考えられます。

    量子力学でも、波の動きを表現する式は、未来からやってくる波と、現在から未来に向かう波の和として表現されています。共立する波は、回転しているときは当然見えないのですが、-1の位置にきても非存在では見えないでしょう。

    共役する波も、途中では見えないのですが、+1に位置にくると粒子という存在として現れるのです。

    私達の心もオイラーの式で表現しているのですから、波であると考えてよいでしょう。そうであるなら、共立の和は-1となりますから、それは心の残骸であり、夢みたいなものであり、主観なのですから観測者からは見えなくて当然でしょう。

    一方、Renshi氏は、ー1は商(i/-i)から出てくるとしています。i/-i=-1ですから、式としては問題ないのですが、これはどのようなことを意味するのでしょうか。

    Renshi氏は即非=差異の共立を凸i#凹iとして表記するとしていますが、凸i#凹iとはどのような意味があるのでしょうか。

    共役(共振)では、+1⇒凸i*凹i⇒+1⇒凸i*凹i⇒+1と1/4回転でサイクリックに進むのでしょう。

    共立では+1⇒凸i#凹i⇒-1、+1⇒凸i#凹i⇒-1と1/2回転で半サイクリックに進むとしてよいでしょう。

    ただ、共立が半サイクリックであるとすると、それでは永久に共振に影響を与えることができないし、-1は非在(存在しない)ですから見えないままであり、私という主観の心の中に閉じ篭ったままです。主観は可視化されないのでしょうか。

    そのようなことはないでしょう。私達は、これは直感、主観、夢だけれどもと言って、熱く語ります。語るということは観察されたといことであり、+1に現象したということです。

    やはり、共立も+1に出てくるのではないでしょうか。実際、共立の式は1/2(a+ib+a-ib)=aですから、a=+1,-1となります。

    ここは電子の1/2スピンの振る舞いに習って、2回転して+1の位置に出てくると考えた方がよいのではないでしょうか。つまり、+1⇒凸i#凹i⇒-1⇒凸i#凹i⇒+1と進むとするのです。

    何故、これが2回転かと言いますと、+1から回転した波はガウス平面では-1で1/2回転なのですが、これをメビウスの帯に置き換えて想像してみてください。

    +1と-1が裏と表で一致していますから、これで1回転になるのです。しかし、裏と表では元に戻ったことにはなりません。更に、ガウス平面で1/2回転して、トータルで、2回点ということになるわけです。

    このようにすれば、MP1(無我)がMP2(自我)を抑えて、現象面に姿を現すことが説明できますし、直感のメカニズムもこれで説明が出来ます。

    つまり、
    一般的な現象⇒MP1⇒想像⇒MP1⇒現象
    芸術的な表現⇒MP1⇒直感⇒MP1⇒表現
    動物行動⇒MP1⇒条件反射⇒MP1⇒行動
    などとなります。

    一方、MP2の自我は、
    現象⇒MP2⇒現象
    となりますので、MP1とMP2の作用の結果が現象面で交錯することになります。

    MPのダイナミックスはMP2優位とMP1優位がありますから、適当に制御されていますが、ときに、MP2の意識的な行動とMP1無意識の行動がバッティングすることが実際の場面(いい間違えとか)でもあることですから、より、心理分析の面でも多様な分析を可能とするでしょう。

    ところで、反共振ですが共立を提示したので用済みとなったのですが、用済みとなった理由を補足しておきます。

    -(-i)の最初の-は、-iを否定するとしたわけですが、実際は、-iを否定することはできないということでした。そこで、考え方を変えて、反共振という言葉通り、共振の否定、つまり、積(*)の否定として見立てました。

    -(-i)の頭の-を、他者-iの否定と考えます。他者とは外部の他人でなく、私の中の他人の反映ですから、恋愛なら相手を思う心となり、-が付けば、他人の拒否の心=他者と呼ぶということです。

    このような心を持っていれば、やがて、反映が反射となり、実際の外部の実在する相手(他人)に向って拒否の行為となって現れるでしょう。

    自我・・・無我=他者=他人の心の反映
    自我*他者(自分の心)⇒+1(他人に対する拒否の行為)

    これが現象として現れる現実の拒否行為=否定ということであり、否定されたのは、他人であり、他者ではないということです。他者とは、心の中の自分のことですから、自分の無我=虚的他者の否定ではないということです。

    これを今までは、
    自我・・・無我=他者=他者の心の反映
    自我*-他者(自分の心)⇒-1(相手を拒否した心を持った人間)
    と解釈しました。

    他者(自分の心)を否定した結果として、-1に私が、相手を拒否した心を持った人間として現象したと解釈したのです。

    しかし、現象するのは-1ではなく、+1ですから、自我*他者(自分の心)⇒+1(相手を拒否した心を持った人間が相手に対して拒否の行為する現象)
    と解釈すれば済みます。

    つまり、i*-(-i)とは凸i#凹iのことであり、自分の中の無我に反映された虚的他者-iは否定されていないということです。

    一方、共振の*とは即非の共振を意味する記号でありながら、共立のように、お互いを邪魔せずに、同じ時空間を共有することなどもせず、即非そもそのを融合してしまうのが、積の機能であると言えるでしょう。

    ですから、差異の共立=即非を意味するには、反共振i*-(-i)とは異なる式とする必要があるのです。

    Renshi氏は、これを#の記号を使用して、差異の共立を意味させるというのです。ですから、凸i#凹i⇒凸i*凹iとなり、MP1⇒MP2となるわけです。

    これで、
    直感:現象(+1)⇒MP1⇒想像(-1) ⇒MP1⇒現象(+1)
    自我:現象⇒MP2⇒現象
    MP1⇒MP2
    となりました。

    後は、MP2⇒MP1があるかどうかですが、これもあるでしょうが、別途とします。

    共立と共振の結論を纏めておきましょう。

    共立は、反共振で定義したような虚の他者=虚の無我の否定ではなく、自他の共存の肯定、つまり、即非なのです。

    一方、共振は自他の融合、自他の共存の否定、つまり、即非の否定なのです。


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  • from: 生成門さん

    2010年07月14日 13時12分31秒

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    共振から共立へ

    共振から共立へ<PSとの共振>反共振から現象すると考えた間違いは、私だけでなく、PS理論に飛ぶ込む人は誰でも犯しやすい間違いではないでしょうか。i*-

    共振から共立へ
    <PSとの共振>

    反共振から現象すると考えた間違いは、私だけでなく、PS理論に飛ぶ込む人は誰でも犯しやすい間違いではないでしょうか。i*-(-i)という式がそう解釈させてしまうのです。

    しかし、i*-(-i)という式そのものが成り立たなくなれば、もはや、その間違いはなくなるでしょう。ここまでに分かったことを纏めておきます。

    -1:想像した世界、直感・主観の世界、心の残骸
    +1:現象の世界、知性・客観の世界、MPは精神作用
    -1、+1、MP:一人の人間のガウス平面的要素。

    従って、反共振を共振の反対の現象であるとしたのは間違いであるということになりました。それはどうして間違いなのでしょうか。これは式の解釈の仕方ですから、解明するのはちょっと骨が折れます。

    私一人ではとても危なっかしいので、例によってRenshi氏の助けを借りることにします。「反共振について:i*-(-i)とは何か」http://ameblo.jp/renshi/entry-10580784980.htmlを参考にして考えます。以下、編集して引用しましした。

    副題として、自我と無我の共立と共振:絶対的差異共立と連続的差異共振となっています。

    MPは、{i*-i,i*-(-i)}の即非であり、MP1とMP2の二面性があり、MP1は虚軸、MP2の原点であるとしてきました。

    これを大きく変更します。MP1をiと-iの共立として、MP2をiと-iの共役(共振)とします。これが新しいMPの考え方です。

    MP2をiと-iの共役はi*-iですから、今までと同じです。

    自我をiとして無我を-iとすると、自我が無我を否定することが出てきます。これをMP1とMP2で、どのように表現するのかということが問題として出てきます。i*-(-i)を使うと私が犯した間違いとなります。

    この問題を明確にするためには、共立と共役の違いについて明らかにしておかなければならないでしょう。

    その前に用語が難しいので大変ですが、私なりの理解を示しておきます。

    絶対的差異から説明しましょう。絶対的とは、実軸から離れ超越した次元という意味であり、差異とは虚軸のiと-i、又は凸凹、陰陽の対称性ことです。

    連続的差異とは、実軸上の現象のことであり、因果関係があるということです。どこまでも因果で繋がっているということです。因果がなくなれば縁が切れるということです。

    生と死は、実軸上の現象としては、肉体の物質還元、宇宙の新陳代謝にしか過ぎないのですから、物質的には連続しています。しかし、魂はどうでしょう。肉体から離れてどこかに行ってしまったのでしょうか。それとも消滅してしまったのでしょうか。どちらにしても、そこで、物質との連関は切れてしました。もともと生きているときから、物質との因果関係はなかったといってよいでしょう。なんらかの関係はあることは分かっているのですが、それがどういうものかが分かっていないのです。

    ですから、連続的という場合は、物質的な因果しかないと見ればよいでしょう。

    従って、連続的な差異とは、この私達の日常の因果な世界の様々な違いということです。例えば、格の違い、格差社会、性差別、差別化の戦略などと言われる差異です。格の違いでは力量の違いはまだ良いとして、格式の違いなどという場合は、仕来たりや身分の違いをさしているようですので、非物質的な違いを意味しているような気がします。

    しかし、それらをよく見ていくと、例えば、仕来たりは文化的な様式であり、ルールであり、習慣です。要するには朝起きて、顔洗うのにどんな石鹸を使うのかということに帰結します。

    つまり、物質に還元できるということです。身分の違いも同様です。どれだけの資産があるとかないとかのレベルになるでしょう。一見、物質的な因果はないように見えますが、記号化していくと実数化できることになるのです。そうなると、もうそれは物質と同じ、1、2、3と数えられる実体ということです。つまりは、因果があるということになるのです。

    差異の共振とは、相手がいて成り立つ共役のことです。共役とは文字通り、共に役に立つことです。暖簾に腕押し状態は共役とは言わないのです。相手がいなければ話も、何もできないのです。その良い例は恋愛です。

    恋愛を想像すれば分かるように絶えず心の葛藤があるでしょう。それをイメージすれば共役・共振の意味が分かるでしょう。

    恋愛するとは、MP2(実軸ゼロ点)に於ける意識の作用と反作用が頻繁に働き、二人の関係を密にしていくといことです。その過程で喜びや悲しみがあるのですが、それを引合いと反発と言い換えれば一般化できるでしょう。

    引合いとは相手に対する支配欲であり、反発とは相手の拒否です。どっちにしても自分が中心なのです。ですから、自分は自分であるということを崩さないという点では、支配も拒否も自我が中心なのです。

    反発する心理作用を、相手を拒否することとしてi*-(-i)とすると、これまでと同じ解釈になってしまうのです。

    恋愛を差異(自分と相手の心理)の共振は共役であるとも言いましたが、共振・共役だからと言って、いつも良い共感・共鳴となるわけではありません。

    それは恋愛に見られるように、最初は甘い水蜜の関係にあるでしょうが、やがて、マンネリ化し、破局、別離が来るのです。恋愛から結婚にシフトしたとしても、良い関係が何時までも続くとはとは限りません。

    どのように推移するにしても、それはガウス平面の内部の結果であり、その結果は、ガウス平面の+1に位置づけされるだけなのです。決して、-1に持ってこないでください。

    恋愛が破局するとガウス平面の内部からは一旦切り離され、現象化するのですが、そこから、新たなガウス平面の内部の展開が始まり、お互いに相手を詰ったり、恨んだりしながら、新たなパートナーとの人生(+1)を歩むことになるでしょう。

    電化製品に浸された私達の現在の物的欲求を支える石油文明という害毒を考えると、地球との離別があるのかも知れず、その後には、新たなパートナーとの生活を(+1)を歩むことはできるのでしょうか。

    新たなパートナーそのものがいないにことが問題なのです。詰ったり、恨んだりしても、事は済まないのです。もっと、真剣に、原因を根源に遡って考えなければならないのです。

    恋愛が破局するのは自我中心、つまり、打算的になるからです。私達の生活がダメになってきているのも、すべてが打算的だからなのです。打算とは自我の象徴なのです。

    打算的とは、差異の共振・共役の関係が、バランスの取れた本来的な水密関係を壊すということであり、自我に傾斜した関係にするということです。共役とは名ばかりの一方的な共役とするということです。

    企業で言えば、対等、敵対、提携、吸収、合併、政治団体で言えば、敵対、連合、連立などはすべて、共役の一形態といえるのです。

    共役は水蜜から破局までの様々な形態をとりながら離合集散していくのですが、そのプロセスを支配する根源的な力は何かということです。

    PS理論は、このような問題に対して簡単に答えを出してしまいます。

    その答えは、虚の陰陽=凸凹、自我と無我の差異=対称性の力(共振)です。共振が自我の力を強大にさせるのです。

    どのような出会いでも、最初は無我を相手の心の反映と見て、受け入れ好ましいものとして共振するのでしょう。勿論、MP2には打算があるのですから、心から好ましいとは思ってはいないのですが、しばらくは、良好な差異の共役=共振するのです。

    しかし、やがて、MPの本領である自我が主張し始めるのです。ここは俺の領土だ、これは我が家の仕来たりだ、良い子にすれば小遣いをやるなどと、陰険に飴と鞭を使ってコントロールしようとするのです。

    手練手管、武力、強圧的、外交などという手段を使っている間はまだ共役の悪い形態であると認識できますから、その反動も起き易いのですが、知的レベルが上がってきて、巧妙になってくると、もはや、普通の人には、それが悪い共役なのかどうかが判断できなくなってしまうのです。まるで洗脳された囚人のようなものなのです。

    私達現代人は今そのような状態にあるということです。その証拠は「成長することは良いことだ」という神話を信じているということです。つまり、自他(差異)の共振であるバランスが完全に崩れてしまって、自>>>>>他となっているのです。

    つまり、一方的な共役、自我の暴走となった状態なのです。これを自覚できていないというところが深刻な問題なのです。今、私達の自我は、MP1の差異の共立を否定し、隠蔽し、抑圧し、無視しているのです。そして、それを私達は自覚していないのです。自己認識の方程式はそれを警告しているのです。

    共振と共立の違いを端的に言えば、共振は競争、衝突に近く、共立とは共生、共存に近いかもしれません。

    例えば、自然と共に生きる生き方は、人間本来のあり方ですが、それが差異の共立の意味なのです。それに対して自然を支配する生き方は、私達が現在志向している生き方です。それが市場主義であり、競争社会であり、打算に満ちた生活なのです。今日は共立的な志向は自我によって徹底的に封じ込められていると言ってよいのです。

    差異の共振の引き合いと反発とは、恋愛に見られるように愛憎の二面性のことです。これは恋愛に限らず、人間の生活全般にわたって言えることであり、特に企業の競争という場では、顧客満足のために行う駆け引きは顧客を取り込むか逃げられるかどちらかの熾烈な戦いなのです。

    私達が現代の置かれた状況を憂い、何とかしたいと思うなら差異の共立ということを考えることが重要になって来たということです。それは差異の共振という志向なり、生活スタイルに歯止めをかけることになるからです。

    果して、共振=共役から、共立へという変革は可能なのでしょうか。これまでは、MP2:i*-i=凸*凹の差異を即非として、これが、素晴らしい関係であると思ってきたのですが、とんでもない仮面を被った関係だったわけです。

    これからは、MP1:i,-i=凸#凹の差異の共立を即非とします。

    従って、これからの人類に課せられた課題は、Media PointにおけるMP1(虚軸のmedia point)とMP2(実軸のmedia point)の関係をどう再構造化、再活性するかということになってきたのです。

    企業の革新においては、MP1由来のMP2としてMP2を活性化しなければ、真の成功は達成できないということです。国を立て直すには、MP2よりMP1を重視すると言うことです。恋愛を成功させるためには、共立から共振(共役)の関係を形成しなければならないということです。

    しかし、相変わらず、現実の多くの恋愛や企業の経営や国家の運営は、一方的な共振であり、打算的な駆け引きが横行しており、MP2が支配する仕組みが頑固に膠着していているのです。

    それは不幸を現象するゲームなのです。そしてすべての人類は、無意識にこのゲームに巻き込まれているということです。

    このゲームを即刻中止して、新たな道に向わなければならないのですが、誰もその方法を教えてくれません。

    確かに、かつての私達の先輩達の中には、僅かですが、新たな道を目指した人達はいたことは事実です。MP1を再生して息を吹き込み、自我の根城であるMP2を弱体化させるということをやっていたのです。

    しかし、余りにもその自我の力は強大であり、持続して成功した試しがないのです。
    ややもすると、共役の戦略にはまってしまい、元の木阿弥になってしまったのです。

    今、バラエティ番組を見ると、あらゆる超越的な試みが、面白く可笑しく取り上げられています。つまり、記号化され消費されているということです。これは、まさにアンバランス共振です。自我とはなんでも、食い尽くしてしまうのです。

    先人達は何が足りなかったのでしょうか。

    それは自我の力を甘く見ていたことです。例えば、あなたが「明日から車を捨てなさい」と言われたとします。あなたは簡単に車を捨てることができますか。経済成長をマイナスにすると主張する政治家をあなたは投票しますか。アメリカ人があのコーラの飲む量を半分に減らすと思いますか。それは、あなたや彼らの自我がそれを許さないでしょう。

    要するに、便利や快適な欲望、成長する欲望を抑えなければ問題は解決できないのです。先人達は、無抵抗に徹するとか、自然に帰れとか、隣人を愛せよ、欲望を絶ち、節約せよとか言いましたが、その後の人類の歩んできた道を見てみると、そのどれも成功した試しはないし、仮に一時的に成功しても、自我がその目を悉く焼き尽くしてしまって、今では、石油がぶ飲みの贅沢三昧で消尽・蕩尽しつくす有様なのです。

    ですから、この即非(差異)の共立をどう、力とするのかが人類に課せられた大きな課題なのです。PS理論は、その理論化に向けて頑張っているところなのです。

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  • from: 生成門さん

    2010年07月14日 11時42分04秒

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    反共振から現象するとした錯覚

    反共振の結果の-1には現象しない<PSとの共振>上の図は、海舌氏の描いた認識の概念図です。私は共振について、間違った暗黙の前提を置いて考えていました。

    反共振の結果の-1には現象しない
    <PSとの共振>

    上の図は、海舌氏の描いた認識の概念図です。

    私は共振について、間違った暗黙の前提を置いて考えていました。つまり、共振は良い、反共振は悪いという前提と言うよりは錯覚です。それは、共振は良いという主観的イメージで解釈したからです。

    しかし、考えて見えれば、共振には、よい共振もあれば、悪い共振もあるでしょう。例えば、類は類を呼ぶ、腐ったリンゴの話などは、悪い共振の例でしょう。確かにRennsi氏が言うように、石油文明を作った近代的自我は悪い共振の例でしょう。

    更に、良い、悪いには感情的な良い、悪い、知的な良い、悪いがあるでしょう。それは主観と客観という見方でもあります。私は、このような基本的なことさえ、ガウス平面上で位置づけさえしていなかったのです。
    特に反共振については、根本に立ち戻って、よく考えて見なければならないようです。

    無我を否定するとは、どういうことなのかです。その反動としての自我を否定するとはどういうことかなのです。

    自我と無我の関係で言えば、意識=自我と無意識=無我であり、意識と無意識の関係で言えば、意識は氷山一角であり、水面から出た部分であり、水面下が無意識でしょう。

    自我と無我を意識と無意識に対応させるのであれば、自我が無我を否定することなどできないわけです。何故ならそれらは、双子のようなものであり、それらは虚界の分極した性質だからです。もともとの根源を否定するなど天に唾としか言いようがない罰当たりなことなのです。

    確かに、自我は現実的な自分の立場からの判断や知覚を最優先して、内面のイメージや感情を拒否はするでしょうが、無我自体を否定することなどできるわけがないのです。

    孫悟空がお釈迦様を否定することなどできないし、お釈迦様が孫悟空を諭しはしても、否定することなどするわけがないし、双子の片方が消えるときは、もう一方も消える運命にあるのです。電子と陽電子が出会えば、自分達の生まれてきた母体である根源の真空に戻るのです。

    一方、実軸についてですが、現象する場所を実軸+1と-1と考えていました。つまり、虚軸がiと-iに分極するように、実軸の+1とー1に現象が分極すると考えていたのです。しかし、反共振という現象が果してあるのかということです。それが怪しくなってきたのです。それを明らかにしようと思います。

    現象するとは、実体としてあるということであり、存在すということです。虚軸の陰陽、凸凹という対称性が一体化してなくなるということです。

    例えば、オスとメスという分極現象は、実軸の+1と-1に配置してはならならないのです。これは現象なのです。つまり、オスやメスという現象なのです。オス、メスそれぞれの中に陰陽、凸凹という対称性は溶け込んでいるのです。なくなったわけではないのです。その証拠が性であり、凸な優位のオス、凹が優位のメスという具合に現象しているのです。

    性同一性障害というのは、この凸凹という対称性が中間的な状態として現象しているということなのです。

    物質の±も同様です。物質には、正の物質(+)と反物質(-)がありますが、これを実軸の+1と-1に配置してはならならないのです。これは物質現象なのです。暗黒物質という変な物質がありますが、これをどこに位置づけるかは思案中です。

    物質にも、中間状態として現象するものがあります。例えば、中間子、中性子などです。

    要するに、すべての現象は+1であるということです。それを忘れて、実軸に±1にすべてを当てはめようとしたことが間違いの元でした。

    人間のタイプ分析や市場分析は、現象世界のことであり、この私達の日常の世界のことなのです。それをガウス平面の実軸に持ってこようとしたのです。まるで、サッカーにゲームにラクビーのルールを当てはめようとしたようなものです。まだ、サッカーとラクビーは、この世界のゲームですからいいようなものですが、ガウス平面は、内部の世界、つまり、次元が異なる世界の出来事なのです。それを混同してしまいました。

    余談ですが、人間には草食系と肉食系があるという話ですが、それはそのように観察したのですから、正しいとか正しくないとかは別にして現象したということです。

    私もそれと似たように人間の根本的な類型を遊牧系(S)と農耕系(P)と狩猟系と遊農系と分けています。そのSとPの見分け方ですが、特別な話題もなくただ会話をするときにその特徴が表れます。

    身近な話をもってくるのがPであり、遠くの事を持ってくるのがSです。これは渾名のつけ方と同じであり、隠喩(因果が飛ぶ)と換喩(因果が近接する)との関係があります。赤バットとつけるのは、赤いバットを持っているからであり、換喩の例です。亀とつけるのは、のろまだからであり、隠喩の例です。Pは換喩的なのです。Sは隠喩的なのです。

    遊牧系は遠い地平面を気にします。農耕系は近くを気にします。これが空間に対する換喩と隠喩の関係と繋がるのです。こうした違いは、どこから来るのかですが、実は根源の虚から来るのです。いつか、これを掘り下げて人間の性格が虚の対称性に由来していることを示したいと思います。余談でした。

    さて、本題に戻って、何故、私が-1を現象する場所と見立てるような混同をしてしまったのでしょうか。それは、私自身がどちらの世界にも所属しているからです。その切り替えや区分けができなかったのです。

    MP1は私の内部の共立の精神作用(無我)であり、-1に私という人間の心を誘導するのであり、MP2は私の共役(共振)の精神作用(自我)であり、+1に私という人間を現象させるのです。

    ただし、MPの作用は複雑であり、MP1から、ダイレクトに+1に私という人間を現象させることもあります。直感的な行動がそれに当たります。MP1を直感作用の主観世界、MP2を知的作用の客観世界とすれば分かりやすいかもしれません。

    当然、MP1、2は同時に進行しており、+1と-1は同時に生起します。+1を現象というのは、それが見えるからであり、測定できるからです。ですから、人間として+1に現象する場合でも、それと同時に-1に心が生起していることを明記して於いてください。+1身体-1心、±1で心身なのです。MPの作用についてはもっと多様なので別途にします。

    -1は私という人間が想像する心世界であるということです。そういうと、心の世界はMPのことであると言いましたので、齟齬があるように感じるかもしれませんが、MPとは精神作用の世界であり、その作用の結果が+1、-1であることに注意してください。

    MPに裸体の元型(イデア)があったとして、それを想像して裸体のイメージを生起させたら、それは脳内のことであり、-1の世界だということです。つまり、観測されていないということです。大事な会議中に、誰もあなたが頭でそんなことを考えているとは想像もしないしょう。しかし、身体はそこにあるわけですから、あなたは、+1に現象しているのです。

    私は-1の世界=想像する世界と+1の世界=現象する世界を混同していたのです。ですから、-1と+1の世界を、もっと、分かりやすく言ったほうがよいでしょう。

    +1は客観の世界、存在の世界、-1は主観の世界、非在の世界、超越的な世界と言った方がよいでしょう。かえって分かり難くしてしまったかもしれませんが、+1は身体、-1は心の残骸、MPは精神作用と理解しましょう。±1とMPで心身ということです。

    間違いの原因は、i*-(-i)⇒-1を心⇒現象としたことです。確かに、オイラーの式を変形すれば、e^iθ-isinθ⇒cosθから心⇒現象が導かれるのですが、e^iθとe^-iθの共役(共振)からは、常にi*(-i)⇒+1しかでてこないのです。ですから、共振があるなら反共振もあると考えて、無理に-(-i)として、i*-(-i)⇒-1も又心⇒現象と解釈してしまったのです。言い訳になりますが-1の意味を深く考えなかったということです。

    私達の日常世界では、-は負債、負い目、減給などです。しかし、それらは負債企業、負い目を持った人、減給された人ですから現象なのです。つまり、ガウス平面の+1に位置づけられるべき現象なのです。

    つまり、ガウス平面の「-」と日常世界「-」では意味が違うということです。

    ガウス平面の+1と反対の現象として現れる現象として、-1を考えてしまったのです。これが大きな間違いでした。

    この間違いから、i*-(-i)⇒-1を、無我を否定した自我だけの人間の生成過程と解釈したのです。先に述べたように、自我は無我を拒否できますが、無我を否定はできないのです。実際に、自我優位の人はいますが、自我だけの人というのは見たことがありません。

    要するに、i*-(-i)⇒-1が間違っていたのではないかということです。ですから、もう一度、共振の+1、反共振の-1とは何かを考える必要があるということです。


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  • from: 生成門さん

    2010年07月03日 09時53分52秒

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    PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ

    PS理論の応用原理<人間編>暫定版<PSとの共振>これまでにRenshi氏と海舌氏から教えて頂いたことを咀嚼して、私なりにPS理論を応用する指針として

    PS理論の応用原理<人間編>暫定版
    <PSとの共振>

    これまでにRenshi氏と海舌氏から教えて頂いたことを咀嚼して、私なりにPS理論を応用する指針として、纏めてみました。順序付けやカテゴリー分けはまだしていません。メモと思ってください。

    第1の原理:実軸は±に分極化する。
    第2の原理:分極化への配置は、i*-i,i*-(i)の関係による。i*-iは+1とし、i*-(-i)は-1とする。
    第3の原理:分極化の配置の根拠は虚軸にある。
    第4の原理:虚軸とはイデア(精神)であり、MPは精神作用とする。
    第5の原理:虚軸も分極化する。
    第6の原理:すべての人間の心を複素平面上に確率的に、つまり、想像して配置することができる。
    第7の原理:現象したすべての人間の位置を確定することができる。
    第8の原理:確定後は実軸に配置する。
    第9の原理:確定後は心的関係で次のように区別する。

    1)+1の場合(自他共振)
    ⇒+1:心的関係が持続している
    ⇒+1(凸):心的関係が持続しているが、自が強い肯定状態
    ⇒+1(凹):心的関係が持続しているが、他が強い肯定状態
    +1:心的関係が切断、自肯定・他肯定の共振状態
    +1(凸):心的関係が切断、自己肯定(法律が正しい)が強い共振状態
    +1(凹):心的関係が切断、他肯定が強い共振状態
    2)-1の場合(自他反共振)
    ⇒-1:心的関係が持続している
    ⇒-1(凸):心的関係が持続しているが、自が強い肯定状態
    ⇒-1(凹):心的関係が持続しているが、他が強い否定状態
    -1:心的関係が切断した人
    -1(凸):心的関係が切断した凸人
    -1(凹):心的関係が切断した凹人
    第10の原理:すべての人間は自己の位置を不確定(確率)的にさえ表示することはできない。
    第11の原理:特別な人間、ないし、特別な状態にあるときも、自己の位置を不確定(確率)的にさえ表示することができない。
    第12の原理:すべての人間は自己の位置を確定することができる。
    第13の原理:すべての現象を肯定的・否定的に解釈することができる。
    第14の原理:第1象限とは凸と+1の見えない領域である。
    第15の原理:第2象限とは凸と-1の見えない領域である。
    第16の原理:第3象限とは凹と-1の見えない領域である。
    第17の原理:第4象限とは凹と+1の見えない領域である。
    第18の原理:第1象限の作用とは凸凹の共振である。
    第19の原理:第2象限の作用とは凸凹の反共振である。
    第20の原理:第3象限の作用とは凸凹の反共振である。
    第21の原理:第4象限の作用とは凸凹の共振である。
    第22の原理:第1象限の凸優位の凸凹共振の結果を実軸+1(凸)と表記する。
    第23の原理:第2象限の凸優位の凸凹反共振の結果を実軸-1(凸)と表記する。
    第24の原理:第3象限の凹優位の凸凹反共振の結果を実軸-1(凹)と表記する。
    第25の原理:第4象限の凹優位の凸凹共振の結果を実軸+1(凹)と表記する。第26の原理:すべての解釈には解釈する人がいる。
    第27の原理:すべての解釈の解釈は解釈である。
    第28の原理:すべての解釈の原点は、自他の共振関係、反共振から始めるべきである。
    第29の原理:自他の自と解釈する自分を混同してはならない。
    第30の原理: 解釈者はガウス平面の外にいる。
    第31の原理:自他の設定は任意である。
    第32の原理:自他の自を自分に設定することは自己の観察である。
    第33の原理:二つのガウス平面を同時に設置して解釈することができる。
    第34の原理:一つは凸=自=自我、凹=他=無我として、もう一つは、自=自分、他=他者などである。
    第36の原理:自我を肯定し、無我を肯定する中庸状態は、第1、2象限の作用の結果として+1に配置する。
    第37の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ自我優位の偏向状態は、第1象限の作用の結果として+1(凸)に配置する。
    第38の原理:自我を肯定し、無我を肯定し、且つ、無我優位の偏向状態は、第4象限の作用の結果として+1(凹)に配置する。
    第39の原理:自我を肯定し、無我を否定、ないし、自我を否定し、無我を肯定する中庸状態は、第3象限の作用i*-(-i)⇒-1と-i*-i⇒-1の結果としての-1に配置する。
    第40の原理:自我を肯定し、無我を否定する自我優位の偏向状態は、第3象限の作用i*-(-i)⇒-1の結果としての-1(凸)に配置する。
    第41の原理:自我を否定し、無我を肯定する無我優位の偏向状態は、第3象限の作用-i*-i⇒-1の結果として-1(凹)に配置する。
    第42の原理:自我を肯定し、他を肯定するもの、又は、自我を否定し、他を否定するものは、第1と4象限の作用i*-i,-i*-(-i)⇒+1の結果として+1(凸) 、+1、+1(凹)に配置する。

    追加

    第43の原理:ガウス平面を、森羅万象が生成消滅する認識の場とする。
    第44の原理:ガウス平面上の単位円は、心の内部である。
    第45の原理:森羅万象を認識する者は、単位円の外の+1か-1に位置する。
    第46の原理:認識する者とは観測者であり、観察者であり、解釈者である。
    第47の原理:認識する者は、自己の単位円と対象の単位円を二つ設定することになる。
    第48の原理:自己の単位円は省略することができる。
    第49の原理:認識された単位円上に配置されたものは自己との関係で相対的である。
    第50の原理:自己を対象として認識して、単位円上に配置された自己は、単位円の+1か-1に位置される。
    第51の原理:+1に配置された自己は、自己肯定・他者肯定の心理的傾向がある。
    第52の原理:-1に配置された自己は、自己肯定・他者否定の心理的傾向がある。
    第53の原理:どこに配置された自己でも、自己以外の対象と向き合うと、相対的であり、変容する。
    第53の原理:すべての現象の生成はMPを媒介して行われる。
    第54の原理:すべての現象の消滅は、MPを媒介して行われる。
    第55の原理:MPには虚MP(MP1)と実MP(MP2)がある。
    第56の原理:虚MP(MP1)は、虚軸と繋がっている。
    第57の原理:実MP(MP2)は、虚軸と繋がっている。
    第58の原理:MP1は静的であり、MP2は動的である。
    第59の原理:MP1は凸と凹の共存{i,-i}であり、MP2は即非的共存{i*-i,i*-(-i)}である。
    第60の原理:単位円はMPである。
    第61の原理:単位円は伸縮する。
    第62の原理:自己観察するときは、単位円がMPであり、それが世界そのものであり、外部ない。従って、外部は見えない。
    第63の原理:外部から観察するときは、単位円がMPであり、単位円の淵が世界そのものであり、MPは内部である。従って、内部は見えない。
    第64の原理:外部から観察するときは、MPの動きは、⇒+1、⇒-1になってはじめて見ることができる。
    第65の原理:MPの動きは、⇒では不確定であり、⇒+1、⇒-1で確定する。
    第66の原理:MPの動きは、⇒では不確定であるが、想像することはできる。
    第67の原理:MPの動きを想像するとは、確率的に言うことである。
    第68の原理:MPの動き流動する波であり、+1-1とは粒子化することである。
    第68の原理:現象するとは、MPの流動する波が粒子化、実体化することである。
    第69の原理:すべての現象は観測されることで粒子化、実体化して認識される。
    第68の原理:すべての現象は、MP2を経由して出てくる。
    第69の原理:すべての現象は、MP1の検閲を受けている。
    第70の原理:特別なときには、MP1からダイレクトに出てくるときがある。
    第71の原理:特別なときにとは、緊急事態、つまり、生命に関わるとき、などである。
    第72の原理:MP2を制するためにMP1からダイレクトに出てくるときがある。
    第73の原理:すべての現象は消滅する。
    第74の原理:現象が消滅するときは、MPにイデア情報として畳み込まれる。
    第75の原理:畳み込またイデア情報は、収蔵され、再び、現象する時に繰り込まれる。

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    from: 生成門さん

    2010年07月12日 08時31分13秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ」Renshiさんありごとうございます。前回のRenshiさんの反共振はな

    from: Renshiさん

    2010年07月11日 21時20分37秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:PS理論の応用原理<人間編>暫定版メモ」生成門さん返事が遅れました。次の言葉は面白いと思いました。「また、無数の心が回