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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2010年10月22日 20時39分23秒

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    多様性の源泉は何か

    多様性の源泉は何か<PSとの共振>モードを流儀と置き換えれば、モードが多様であることは自明です。モードとは、落合監督のように俺流に「やる」という意味で

    多様性の源泉は何か
    <PSとの共振>

    モードを流儀と置き換えれば、モードが多様であることは自明です。モードとは、落合監督のように俺流に「やる」という意味ですからモードとは述語なのです。その俺流が主語なのですが、主語は隠れているのです。

    チュモンはベクトル・モードであると言いましたが、チュモン流に「やる」という意味であり、落合監督やチュモンという主語がモードではないのです。

    クラシックやジャズにしても、カナ入力方式やローマ字入力方式にしても、それは「演奏する」「入力する」という述語です。

    モードが述語なら、そこには場があるのですから、場に限定されるでしょう。つまり、修飾されるでしょう。従って、モードは多様となって現れるでしょう。

    それなら、モードの多様さは何によって生み出されるのでしょうか。

    それはモードだけを考えていたのでは、理解できません。ベクトルと結びついてこそモードなのです。何故なら、モードは現象であり、それを推進するのがベクトルだからです。

    ベクトルとは光の矢http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100098203049で示したように、エネルギであり、方向なのです。

    従って、モードにはベクトルがあり、
    モードを流儀と置き換えれば分かりやすいと言ったのも、流儀は人間が介在しているからであり、背後に意図というベクトルがあるからです。

    意図は人の価値観によって違いますから、場によって修飾されるでしょう。つまり、解釈されるので多様にならざるを得ないのです。

    では、そのベクトルの出所はどこなのでしょうか。それは、云うもでもなく、ガウス平面の単位円を考えれば、そこを回る矢印がベクトルですから、

    原点が出所です。

    原点とは何でしょうか。これも云うまでもなくMPです。MP:メディアポイントこそが多様性の出目なのです。

    これで、多様性の源泉→MP→ベクトル→モードという連鎖ができました。

    後は、多様性の源泉を探すことになります。MPはどのようにして多様性を生むのでしょうか。


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  • from: 生成門さん

    2010年10月21日 14時49分19秒

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    「俺流」というモード

    「俺流」というモード<PSとの共振>流儀こそモードに相応しいと言いました。何故ならそこに意図が隠れているからです。意図があるということは、方向を指し示

    「俺流」というモード
    <PSとの共振>

    流儀こそモードに相応しいと言いました。何故ならそこに意図が隠れているからです。意図があるということは、方向を指し示しているということです。つまり、意図とはベクトルなのです。こうしてベクトルとモードが交差するのです。

    そこで、流儀をモードとすると直ぐに思いつくのは「俺流」です。「俺流にやり方で、優勝する」と大言壮語して、その通り優勝したのが中日の落合監督です。今年もリーグ優勝しましたし、これからCSシリーズ(昨日20日は4対0で勝ちました。)、日本シリーズとなりますが、さてどうなるでしょうか。

    落合監督の「俺流」というのは、当事の打撃の天才と言われた山内打法というのがあって、彼に指導を受けて取り入れようとしたのですが、ボールが前に飛ばないので、持ち前の柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに自己流で改造したことがオレ流と呼ばれる所以だそうです。

    要するに、落合監督は自己流だったということです。そのような「俺」を通す主義は監督になってからも変わっていないようです。

    野村克也氏が侍ジャパンの監督に彼を推したことがありますが、「俺」をあまり前面に出さない日本では「変わり者」という評判でしたので、大反対されて、実現しなかったのですが、そのときの反対の理由が「型破りな思考」だったとされています。

    野村克也氏と落合監督には互いに元パ・リーグ三冠王であり、非凡な二人には通じるものがあったのかもしれません。

    「俺」をあまり前面に出さない日本人の偽装自我社会の中で、一人、自己を前面に出す俺流を貫く落合監督ですが、この俺流は、日本人の自我や西洋の近代的自我と同じなのでしょうか。

    似ているようですが、全く違うのです。同じなら自我というでしょう。自我と言わないで自己と言っているのには理由があるのです。それを解明できるのがPS理論の力なのです。

    それは落合流とは「型破りな思考」だということです。どう型破りかと言いますと、組織に従わない、個人主義、一匹狼なのです。どう見ても日本人的ではないからです。でも日本人なのです。

    変人ベクトルだということです。この変人ベクトル=精神が自我とは言わない自己を持っていると言っておきましょう。

    さて、落合俺流モードの背後には型破り思考=自我ではない自己があることと言いました。そう言えば、ファッションのモード系も型破り、iモードも、モードジャズも型破りモードでした。モードというのは型破りなのでしょうか。

    モード=型破りとするのは無理があるようです。制度としての流儀の定義では、その芸系の同一性であり、それを維持することであるであるとしています。

    ファッションのモード系に対して、コンサバ系が存在していましたし、ジャズに対してはクラッシクがあります。ジャズをアドリブの音楽とすると、クラッシクは自己同一性の音楽です。

    このようにして見るとモードは流儀であり、イデア由来の対称性(+1凸iと1+凹i)があるということではないでしょうか。

    モードとは、本来の意味は様式なのですから、先進的で革新的なスタイルもあれば、保守的なスタイルもあるでしょう。

    モードの対称性から言っても、MP段階では即非ですから、現象面でも中性として現れてもおかしくないのです。ただ、現象化するときは、凸と凹のどちらかに傾斜するのです。従って、モード系というのは、+1凹iに傾斜したモードだと理解すればよいわけです。

    そこで、傾斜したモードを保守的モード+1凸i、革新的モードを+1凹iとすれば、
    +1凸i・・・・・・・+1凹i
    クラシック・・・・・・ジャズ(モードジャズ)
    伝統的古典能・・・・・・新しい能(新作能)
    モード系・・・・・・・コンサバ系
    電話・・・・・・・・・・・・iモード
    カナ入力方式・・・・・ローマ字入力方式
    原流・・・・・・・・・・・・・・落合流
    と配置できるでしょう。

    これかも分かるように明らかに保守的と革新的を区別しても良いモードもありますが、どちらとも言えない中性のモードもあります。

    時代によって、保守的と革新的が入れ替わることもあるでしょう。保守的と革新的は相対的なのです。そこまでを考慮すると、

    +1
    電話・iモード
    カナ入力方式
    ローマ字入力方式
    伝統的古典能
    新しい能(新作能)

    ということになるでしょう。

    それでも、落合流は、やはり、時代が変わっても、+1凹iに位置するのではないでしょうか。

    これでモードの意味がはっきりしました。

    モードとは本来は中性なのですが、エネルギーのバランスによって、凸と凹のどちらかに傾斜するのです。従って、+1凹iに傾斜するモード、+1凹iに傾斜するモード、中性のモードがあるということになります。

    これならPS人間学を確立することもできるでしょう。言うまでもなく、落合監督式俺流人生は、+1凹iに傾斜する「俺流モード」となります。

    +1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹i
    原流・・・・・・・・・・・・・・落合流

    しかし、ここでおかしいことに気が付きました。

    +1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹i
    西洋的自我・・・・・・・・・・・・東洋的無我

    としてきましたが、落合流と言えば組織を無視して自己を主張する典型的な唯我独尊タイプです。このようなタイプを自我タイプと言ってきたのではないでしょうか。

    原監督はどちらかと言えば、自己を余り主張しないタイプです。こちらの方が自己主張をしない、感情を抑制し、規律を守り、律儀で、頑固であるがやさしい、誠実な組織人間であり、日本人らしい日本人でしょう。
    従って、
    +1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹i
    落合流・・・・・・・・・・・・・・原流

    とすべきではないでしょうか。

    ここは人間をもっと観察しないと整合が取れないようです。これは間違いなのです。「俺」を主張するからと言って、自我タイプだとは言えないし、「俺」を主張しないからと言って、無我タイプだとは言えないからです。

    自我には擬装自我もありますし、擬装自我から復活する自我もあるのです。場を支配する自我ではなく、場に包まれる自己(この場合は自我とは言えない)もあるのです。

    このような自我や自己の多様な現われを記号で表現するには、まだPS理論の数的表現が完成していないので、+1凸i・・・・・+1・・・・・+1凹iの線上に位置付けできないのです。

    擬装自我は、+1凸iの自我が否定されて、他者と同一化する場合ですから、+1凸iから+1凹iへ反動します。それを、+1凹iとすると、本来の無我の+1凹iと区別ができません。

    そこで、凸iは否定されますが、隠していると考えて+1凹i(凸i)とします。表面は無我人間のように見えるということですから、+1凹iでよいでしょう。(凸i)が隠れているイメージです。

    これが擬装自我を持った組織人間の構図であり、日本人の多くが建前と本音を分離するモードとなります。

    擬装自我とは建前モード、仮面モードなのです。

    組織人間は、+1凸iの自我が否定されると建前モードに入ります。つまり、組織の命令を優先して、個人的な欲求は抑止するのです。

    要するに、いい子をぶるのです。
    当然、組織(企業・家系)を優先するという意思を前面に出してきます。これが傾斜です。

    +1凸iの凸i(本音)が否定されるのですから、凸iを( )に入れなければなりません。つまり、+1?(凸i)です。( )が仮面です。

    建前の凸iを隠したのですが、+1の後に来るべきものがなくなって?となってしまいました。

    これでは、自閉で、幽霊です。しかし、+1(凸i)なら+1と同じですから、バランスの取れた人間か、あるいは、物事をはっきりと決断できない優柔不断な人間であるかのどちらかです。

    今は、自己を否定して、擬装しようとしているのですから、+1(凸i)ということはありえません。なんとか、+1の後に来るべきものを自己の代用として探してこなければならないのです。そうしないと自己喪失に陥ってしまいます。

    そうです。それが他者と同化するということなのです。もちろん、それは緊急避難であることは当の本人は理解しているのです。

    他者同一化とは、凸i(自己)→凹i(組織)です。よって、?は凹i(組織)に置換されることになるのです。これで、+1?(凸i)は+1凹i(凸i)となりました。

    偽装の構図
    +1凸i・・・自我→+1?(凸i)
    +1・・・・
    +1凹i(凸i)・・・建前・偽装・仮面の自我

    これで、+1?(凸i)が+1凹i(凸i)に反転することを示しました。ただし、+1凹i(凸i)と+1凹iとは本質的に違うことを銘記して置いてください。

    次に、偽装した人間が、建前と本音の使い分けるようになる心理現象を解明します。

    最終形は次のとおりです。

    +1凸i・・・本音
    +1・・・・・・・・・・
    +1凹i(凸i)・・・建前

    組織に従う自己+1凹i(凸i)とは建前であり、本音の自我+1凸iとは違うものです。もちろん、無我の+1凹iとも違うものです。

    こうして、できた自己は+1凹i(凸i)であり、自我=本音(凸i)を隠し、他者=建前(組織に従うこと)と同一化してしまった自己ですから、もはや自我とは言えないし、無我とも言えない新たな自己の出現なのです。これは他人を欺くことであり、偽装化したことの意味なのです。これで擬装自我=建前人間=+1凹i(凸i)が一丁上がりました。

    建前人間の特徴は、本音=自我を隠しているだけであって、自我を捨てたわけではありませんし、自閉的になったわけでもありません。

    いつでも、表に+1凸iとなって出てくるのです。これが本音と建前の使い分けなのです。人によって巧い下手がありますが、それは人生経験とも関係するでしょう。

    擬装自我の建前人間がいるなら、その反対の人間もいるでしょう。

    当然、それが俺流モードの落合監督です。落合監督を遊牧系の人間の代表とすると、その人間モードをPS理論で解明するとどうなるのでしょう。

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  • from: 生成門さん

    2010年10月21日 13時31分20秒

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    モードという現象

    モードという現象<PSとの共振>下の図は私達の世界のイメージです。http://www6.ocn.ne.jp/%7Ekishi123/page053.

    モードという現象
    <PSとの共振>

    下の図は私達の世界のイメージです。
    http://www6.ocn.ne.jp/%7Ekishi123/page053.htmlから引用しました。
    以下、編集して引用しました。




    華厳経では、帝釈天の世界には帝網(たいもう=インドラネット)が、はりめぐらされていると言います。

    私達はお互いに、蜘蛛の巣の糸のように見えない糸で結ばれていて、その結び目はすべてを照らして互いに映しあう水晶の宝珠でできているというのです。

    ひとつの宝珠が鈴のように鳴り響くと、それに応えるかのように結び合う帝網が共鳴し、鈴の音が次々と鳴り響き、宇宙の妙なる交響曲を奏ではじめるのだそうです。
    ―――

    ベクトル・モードとは、ベクトル(矢)とモード(模様)であり、光の矢のように生成消滅して回転して進みます。

    チュモンのように波乱万丈・自己革新の人生もあれば、普通の人の人生もあります。一期一会というように、人の人生は、一つのベクトル・モードであり、それぞれの人生であり、多様なのです。

    ベクトル・モードは精神の作用であり、MPなのです。それではベクトル・モードはMPなのでしょうか。

    MP(メデアポイント)とベクトル・モード
    とはどこがどう違うのでしょうか。

    これまではチュモンを例にとって示したのですが、ベクトル・モードを説明するための導入であり、本質を示したわけではありません。ベクトル・モードとは虚と実の交差が含まれているのであり、それを実軸+1の三次元の現象である、メタファーを使って説明しているので矛盾があるわけです。

    それでも、MPやベクトル・モードは心の作用であるのですから、チュモンであれ、なにであれ、虚=心という見えないものを抱えているわけです。ですから、本質に近い説明をしたと思うのです。ただし、まだまだ不十分でしょう。

    PS理論が森羅万象を説明する理論であるなら、何でも説明できなければならないわけですから、何を例に取り上げても矛盾が出てきてはならないのです。

    そこで、いよいよ海舌氏による説明を直接とりあげて、本質に迫ってみましょう。これまでは、ここに近づくためにウォーミングアップだということだったのです。

    海舌氏は「MPの種類は多様である。」http://blog.kaisetsu.org/?eid=811868と考えているようです。

    多様な MP(メディアポイント) が存在する様式を表わす記号がモード(Mode) であるというのです。

    ここで分からないのはモードが現象を現すのか、現れた現象がモードなのかということです。

    モードが現れた現象であるなら、その背後に、多様な MP(メディアポイント)であるということになるでしょうし、モードが現象を現すのならMP(メディアポイント)となるでしょう。

    更に、現象には-1の非在の現象と+1の実在の現象があり、その場合、モードとはどちらの場合でも、あてはまるのかということです。

    ここはいつも悩むことなのですが、心の作用(思うこと)と心の現象(思ったこと)と心の作用の結果の物質的現象(表現されたこと・行動したこと)との区別をどうするのかということです。

    現段階の理解では、心の作用=MP、心の現象=-1と心の作用の結果=+1という区分です。

    つまり、心で思うこと=MP、思ったこと=-1と思ったこと口に出していったこと=+1というふうに区分をしているということです。行動した場合も+1です。

    海舌氏はモードとは模様だと言っていますので、当面、+1=現れた現象=表現された事という理解でいきます。

    そう理解すると、モードの定義は文字通りに形式や様式や形態や方法であり、スタイルであるというところから考えることができます。

    では、モードを理解するためにいろいろなモードをあげてもましょう。

    テレビ及びパソコンでは省力モードとして、格闘ゲームではストーリーモードなどといった使われ方をします。パソコンでは更に、かな入力/ローマ字入力の切り替えや[半角/英数]キーの切り替えなどといったように入力方法の切り替えとしてもモードをという用語を使います。


    モードの使い方として馴染みが深いのはファションのモード系でしょう。最新のコレクションに出ているブランドで固めた服装や髪型をいうようですが、その反対に保守系を代表するモードをコンサバファッションと言います。

    本来、モードは流行やファッションのことを意味しており、革新的だからモードだということではないのです。それがいつの間にか型破りで先進的なコレクションをモード系というようになってしまったのです。本来はモードは中性なのです。ですから、モード系モード、コンサバ系モードと理解すればよいでしょう。

    これに対して市場におけるファッションの流行・動向や売れ筋のことをトレンドといいます。トレンドはモードなのでしょうか。トレンドは物現象の傾向であり、意思がありません。意思がなくても背後に何かがないといけません。単なる物質的因果ではモードとはいえないでしょう。モードには意図があるのです。


    モダンジャズでも、モードジャズという言い方をします。コード分解によらずスケールを用いたアドリブを行う演奏形態をいうのですが、一般的には「旋法」と呼ばれます。

    旋法(モード)とは、旋律の歌いまわし方の違いに現れる、楽曲の背後に働く音の力学の相違をいます。

    「iモードで、マナーモードを」とスローガン風に言ったときは、モードのモードを表現しています。つまり、静粛を求められるところでは「携帯音を鳴らさないように」という携帯の使い方を警告しているのですが、その携帯も新しいモードの形態なのです。

    つまり、iモードが出現したてのときは携帯からインターネット使うという新しい様式を提示したので、話題になったのですが、今では当たり前の様式となってしまいました。ですから、改めてモードというほどではないのですが、商品名にしてしまったので、「iモードで、マナーモードを」等という言い方ができるのです。

    モードの使われ方を示しましたが、これでモードとは何かを理解できたでしょうか。

    どうもまだ、すっきりしません。

    パソコンや音楽やファッションにしてもテクニカルな面での使われ方を言っているにすぎません。

    MPと結びつけを暗示するようなモードの例ではありません。これがモードだというよう例はないのでしょうか。

    モードを流儀と解釈してみましょう。「流儀」」と何かhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E5%84%80を参照してください。以下、編集して引用しました。

    流儀とは、敵とどう戦うか、ある戯曲をどう演じるかについて個人の技能でなく、集団的、伝統的に共有されている技能共同体を指します。

    例えば能であれば、所縁曲、使用する謡曲、戯曲に対する解釈、舞の調子や工夫の、装束の選びかたがあげられます。これからもわかるように、いかに演ずるかに流儀の源流があるのです。クラシックで言えば「主観」を省くのが流儀です。従って、流儀を制度化する場合には、次の二つの要素が求められます。

    1> 芸の同一性
    2> 同一性の維持
    ―――
    このような流儀の方がモードを的確に表わしているように見えますが如何でしょうか。モードの内容がどうであれ、その背後に流儀を維持するための意思(ベクトル)が感じられるからです。この様に解釈した方がモードを応用する幅が広くなるのではないでしょうか。

    PS理論は見えない世界をあたかも見えるが如くにする必要があるのです。ですから、応用力のある概念装置が必要になるわけですが、それが今ここで説明をしようとしているベクトル・モードとMPなのです。

    モードはベクトルを、ベクトルはモードを必要としているのであり、ベクトル・モードとMPの違いも明らかにしなければなりません。そのためには背後に意思(ベクトル)が感じられる流儀こそが相応しいのではと思うのです。

    音楽であれ、ファッションであれ、絵画であれ、その違いを単にテクニカルな違いとして理解するのではなく、その背景には、人がいるということを強く意識するということです。

    人を強く意識するということは、人の思考の違いを理解することです。人の思考の違いを理解するためには、人の精神の違いを理解しなければなりません。

    そのためには精神分析では物足りないのです。精神分析が人を理解した試しはないのです。

    これを理解できるのはPS理論しかないといってよいでしょう。従って、こうした考え方をPS流儀=PSモードというべきでしょう。その根拠をこれから明らかにしていきます。

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    from: kaisetsuさん

    2010年10月21日 14時26分25秒

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    「Re:モードという現象」生成門さん確かに、仰るとおりです。ベクトル・モードの理論的定義が、まだまだ曖昧です。どうなのでしょうか?まずは、生成門さんの

  • from: 生成門さん

    2010年10月19日 17時36分30秒

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    チュモンはベクトル・モード2:光の矢

    チュモンはベクトル・モード2:光の矢<PSとの共振>古朝鮮の図はhttp://jumong.jp/introduction.htmlから引用しました。

    チュモンはベクトル・モード2:光の矢
    <PSとの共振>

    古朝鮮の図はhttp://jumong.jp/introduction.htmlから引用しました。

    何故、チュモンがベクトル・モードなのでしょうか。

    それはこういうことです。

    「怨みを晴らす」ことを昇華させ「建国する」エネルギーに大転換することに成功するチュモンですが、その内容はドラマを見ていただくとして、ここは「怨みを晴らす」から{建国する}の大変身した進化のドラマを、ベクトル・モードを使って説明してみましょう。

    ベクトル・モードとはベクトルとモードなのです。先ず、イメージしやすいところで、ベクトル・モードを車の運転に喩えてみます。

    ベクトルとは運転する人の心です。目的があって向う方向(心=意図)があります。モードは運転している状態です。

    波乱万丈の人生という人生があるとするなら、それはサハリをラリーするようなものでしょう。つまり、人生をラリーモードにたとえて見たわけです。

    もっとも、人生はうつろうはかないものというモードもあるようですが、チュモンのモードは、運命に翻弄された恋愛、友情、裏切、悲哀ありの波乱万丈ラリーモードであり、英雄への大変身モードでもあります。

    チュモンに限らず大なり小なり、人の人生はそれぞれにとってのベクトル・モードなのです。人の人生の生き様、それがベクトル・モードなのです。

    人のベクトル・モードにはそれぞれの人生模様があるようにベクトル・モードにはそれを現象化させる仕組みがあるということです。それを、これまでは空=MP(メディアポイント)といってきたのです。

    ベクトル・モードとは空であり、MP(メディアポイント)ですが、厳密には区別しなければならないでしょう。

    メタファーでいうなら、運転している状態はモードであり、運転モードを実現しているのは人であり、ハンドルとエンジンと車輪はエネルギーを伝達するメカニックなメディアでしょう。それが車という定義です。しかも、道路という場もあるでしょう。

    ここからベクトルとモードをイメージしていくのです。

    運転モードを実現しているのはすべてメディア=媒介するものです。つまり、車は、心(目的地に行きたい)を実現するメディアとも言えるでしょう。

    メディアポイント(MP)とはイデアを媒介して現象化させる精神作用と言いましたが、ハンドルとエンジンと車輪という物体がそれを為しているのです。

    ここには最低限、場と心と媒体とモードがあるということです。

    ただ、MPに於ける媒体は物体ではありません。物体は現象サイドにあるものです。

    ですが、今は、ベクトル・モードの説明をしているので、これらを物体と思わないでください。メタファーとして使っているのです。誤解しないでください。あくまでも精神作用としてのMPのメタファーなのです。

    ベクトル・モードを理解するには、心の準備が必要なのです。では、メタファーを使っての説明を続けます。

    車輪は回転することで、エンジンからのピストン運動をエネルギー変換しているのですが、これを心のメタファーと理解してください。

    これが心の仕組みとすると、車輪とそれに突き刺さる軸ないし、エネルギー変換装置などがあることになります。それを端折って車輪と軸に代表させます。

    そうすると、軸⇒車輪:心⇒現象:ベクトル⇒モードという対応があることになるでしょう。

    軸には心の元(イデア由来の非在の-1)からハンドル、エンジンを媒介して、エネルギーを伝達して、車輪を回すという仕組みになっているのですが、これ全体が精神作用なので、抽象して、車輪(モード)とそれに突き刺さる軸(ベクトル)、即ち、車全体をベクトル・モードとイメージしてください。

    何せ、見えない世界を見える世界のメタファーで説明するので、混乱してしまうのですが、海舌氏は抽象の数学の世界の人なので、このような回りくどい説明はしないので、私が勝手に説明しているので、間違った解釈をしているかも知れません。

    間違いを恐れずにいきますと、ベクトル・モードは「〇と⇒」で示されます。
    つまり、ベクトル・モードとは異なるイデアの虚次元と実次元の物理現象を繋ぐ概念装置なのです。ですから、MPなのです。しかし、MPとは少し違うのです。その違いはおいおい説明します。

    これで、やっと、チュモンの「怨みを晴らす」ことも「建国する」もベクトル・モードであることをイメージできるようになるでしょう。

    人を恨むという心と行為には、恨む「対象」とそれに向って突き進むという「志向性」があります。

    ベクトルとは「指し示し」なのです。当然、指し示す対象がなければなりません。また、それに向っていくだけのエネルギーがなければなりません。そのエネルギーが恨みを晴らす行為の源泉ということになります。

    しかし、一人では恨みを晴らすことができません。多くの人を巻き込んで、その人達のエネルギーを結集しなければなりません。

    個人のエネルギーを組織エネルギーに変換しなければならないです。それにはベクトルを合わせなければなりません。それには大儀が必要でしょう。

    それをチュモンは漢に支配されている古朝鮮を探訪して掴むのです。こうして、生きる原点を見つけたチュモンは、「恨みを晴らす」というベクトル・モードを「建国する」というベクトル・モード、つまり、大儀=ミッションに大転換するのです。

    つまり、ベクトル・チェンジをするのです。

    そして、多くに人を巻き込んでいくというベクトル・モード=渦をつくり、建国ドラマというベクトル・モードを展開するのです。

    ベクトル・チェンジはモードチェンジであり、即、それがベクトル・モード・チェンジなのです。

    ところで、朱蒙の名前の由来は、父親であるタムル軍のリーダであり、弓の名人でもあったヘモス(解慕漱)からユファ(母)は名付けたとなっていますが、扶余のクムワ・ワン(金蛙王)に屋敷の中に閉じ込められたユファが身を引いて逃げても追ってくる日の光で身ごもり産んだ大きな卵から生まれた男の子がチュモンだとも言われています。

    古代朝鮮では、卵は神聖なものとされており、チュモンを神格化するためのものであると考えられるようです。

    そして、チュモンは名前の由来通り弓の達人であったために7人の王子に睨まれます。

    この「矢を射る」という行為も又、ベクトル・モードのメタファーなのです。ですから、朱蒙はベクトル・モードのシンボルであり、弓矢のベクトル・モードの達人ということになります。

    弓矢のメタファーを使って、ベクトル・モードの仕組みを説明してみます。

    ベクトル・モードは発生し、消滅します。ベクトル・モードが発生し、消滅するためには、ベクトルとエネルギーの発信源と受信する側、現象が現れる仮想円盤(モード)、ベクトルの場の5つの用件が必要なのです。

    この構成要件をチュモンで表現すると弓・矢・人・的・場となります。

    「矢」そのものがベクトルです。弓と矢を持って構えるとベクトル・モードが発生します。

    ベクトル・モードの発生源がチュモンです。

    弓はエネルギーを蓄え、心を伝える媒体(メディアポイント)です。その構えた姿が初期仮想円盤(モード)です。

    チュモンが矢を放つ瞬間、それが初期ベクトル・モードの発生です。

    矢が放たれると的に向って、矢とエネルギーと心が一体となって突き進みます。この状態が中間ベクトル・モードであり、走る矢の回りにある渦が中間仮想円盤です。

    渦は見えませんが仮想としてあるのです。矢がベクトルで、その回りをエネルギーと心が渦をなしているのです。

    そして、矢が的に到達します。矢が的に突き刺さった瞬間が終局ベクトル・モードであり、この的が終局仮想円盤であり、同時にベクトル・モードの消滅です。

    以上纏めると、

    初期ベクトル・モード:矢を張った状態
    中間ベクトル・モード:矢が走っている
    終局ベクトル・モード:矢が的に刺さった状態

    初期ベクトル:張った状態の矢
    中間ベクトル:走っている矢
    終局ベクトル:的に突き刺さった矢

    初期仮想円盤(モード):弓を構えた状態
    中間仮想円盤(モード):矢が走っている仮想としての渦
    終局仮想円盤(モード):的

    エネルギー発信原:チュモン
    エネルギー受信側:的

    メディアポイント:弓と矢と手が交差する点

    場:チュモンと的の間の時空間

    ベクトル・モードの発生→中間→終局

    となります。

    この説明ですと、ベクトル・モードの発生と終局は具体的でイメージしやすいのですが、中間が分かり難いと思います。

    何故、モードを仮想円盤と表現するのかと言いますと、まさに、「ない」けど「ある」かのように思ってくださいということなのです。

    初期仮想円盤(モード):弓を構えた状態にしても、別に「丸い」わけではありません。弓と人があるだけです。これを仮想円盤と看做すということなのです。

    よく、後光が指すというような言い方をしますが、まさにそれが仮想円盤です。

    中間になると矢が飛んでいるだけで、丸いものに相当するものは何もないのですが、それでも仮想円盤があると思ってください。

    矢が走っている状態は想像できるが、円盤に相当するものがないのだから「ない」のに「ある」と考えろと言われても、無理だという声が聞こえそうです。

    うーむ。

    そうなら、もう一工夫しましょう。

    矢が弓から放された瞬間に、弓に代わって、エネルギーを伝える媒体が空間に変わるということでどうでしょうか。場そのものが仮想円盤になるということです。

    これは光の場合を考えるとイメージしやすいかもしれません。

    光は電磁場という場を伝わっていくのですが、私達にはその場は見えません。

    しかし、明らかに、光という矢は丸い電磁場を、円を描きながら進んでいるのです。それを示すのが下図です。「光の量子力学」
    http://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/seminar/MicroWorld2/2Part3/2P34/QM_of_light.htmから引用しました。




    丸いイメージはここからは読み取れないので、下の図を「電磁波」http://homepage2.nifty.com/eman/electromag/wave.htmlから引用しました。


    渦を巻いて進むというイメージはオイラーの式が示す波が一番分かりやすいでしょう。下の図は、http://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/ed35400df27a2bc7e597531c08d99869から引用しました。




    この図から、チュモンが「光の矢」を放ったと想像すれば、なるほど仮想円盤とはそういうことかと納得してもらえるのではないでしょうか。

    結論として言えることは、ベクトル・モードは、発生と消滅を繰り返して伝わるということです。

    つまり、

    ベクトル・モードの発生→消滅→発生→消滅→発生→消滅→発生→ベクトル・モードの消滅

    というサイクルを繰り返しているといことになります。

    チュモンの矢の場合は、矢が放たれて的に突き刺さった瞬間で、ベクトル・モードのサイクルは終わりですが、実際の物理現象はこれで終わるわけではありません。便宜上、終わりにしたにすぎません。電子のレベルでは、更に運動が続いているのです。

    例えば、光の場合ですが、光源から放された光は寿命がないので永遠に飛びまわり続けていますし、網膜に入ってきた場合でも、電子の運動に代わって、神経を伝わり、更に、それが心のエネルギーに代わって、チュモンのように恨みを晴らすために外に向って矢を放すかも知れません。

    これがベクトル・モードのチェンジです。

    しかも、最初は「恨みを晴らす」ためだったのですが、次第に、それが「建国する」するというベクトル・モードに変わっていきます。

    これもベクトル・モードのチェンジです。

    ベクトル・モードは変身するのであり、現象としては終わりがないということです。

    しかし、ここで、もっと重要なことを言っておかなければなりません。ベクトル・モードはそこに虚次元を含んでいるということです。

    現象の背後には、虚があり、虚と実はリサイクルしており、実が虚に潜り込むというような言い方でも良いでしょう。

    ドラマでは戦争・陰謀・策略・恋愛などいろいろな事件が次から次へと起きてきますが、結局、それは現象→現象→現象という連鎖のみを理解するだけでは、真相を掴み損ねてしまいます。

    楽しんでいるだけならそれでも良いのですが、しかし、もっと、面白くなるためには、その背後にある心理を読むことです。登場する人がどのような動機で、どのような利害で動くのかということです。

    ドラマの面白さは、その心理描写にすべてがかかっているといってよいでしょう。かつては西部劇が流行りましたが、活劇ドラマは、ドンパチが中心で、あまり心理描写には重きを置いていなかったと思います。

    実は、この心理描写というのが行間を読むとことを求める工夫であり、見るものに参加を求めるものであり、面白さを生む四次元能のベクトル・モードなのです。

    つまり、ベクトル・モードに関心を持つということは、事件という現象(シナリオ)の背後にある虚次元(意図)に向うことなのです。

    これを簡単に示しますと、

    現象(事件)→現象(事件)の連続ドラマの行間を読むということは、虚(意図)を読むということであり、虚(意図)→現象→虚→現象→虚→現象という不連続な差異(ベクトル・モードのチェンジ)を楽しむということになるでしょう。

    現象→現象は連続ですが、虚→現象の間は絶対的な不連続なのです。

    ベクトル・モードは絶対的に不連続であり、従って、複素数の波=幽霊の波なのです。

    絶対的に不連続なベクトル・モードはガウス平面を回転しているのであり、虚と実が交互に、或いは同時に起きているのです。

    私達が目にする連続した現象というのは、不連続なベクトルなモードなのです。しかし、ベクトルは垂直方向の運動としてのモードの現象として現れますが、ベクトルそのものは見えないのです。

    それは心の向う方向であり、意図なのですから当然でしょう。しかし、方針として示されれば、それがモードとして現れたことで、確認できるということです。

    チュモンの初期ベクトル・モードの発生を「弓を引く」というような物理的な現象として説明しましたが、そこには心というベクトル、つまり、指し示すものが反映しているのです。

    その心=ベクトルとは、古朝鮮の民が漢の支配によって殺戮され、多くの人が流民となり、苦しん死んでいったその人達の恨みを晴らしたいという感情であり、内面の心なのです。弓を引くという姿は、心の反映であり、表明された方針、表明された決意、つまり、モードなのです。

    心がベクトルであり、弓を引く姿がモードだといったのは、それが虚と実の対応をしているからなのです。

    しかも、ドラマでは弓を引く姿や様々な姿が出てきますからモードは変幻自在なのです。

    同じように、心は場の状況によって変わるものです。チュモンのベクトルというその心も、恨みを晴らすという個人の感情から高句麗という国を建設するというミッションに変わったのです。

    ベクトルは「指し示す」という述語です。ただし、定義としては、抽象な対象があって「向き」があるというだけのものです。それがモードと結びつくには、その「指し示す」具体的な対象が現れなければなりません。

    そのとき初めて「古朝鮮人の恨みを晴らす」「高句麗を建国する」という具体的な対象を持った述語に変わるのです。

    いや、述語が現れて指し示すものが現れるのかもしれません。同時なのかもしれません。

    対象 ⇒ ⇒対象
    ⇒ 対象 ⇒対象

    述語が変わるということは、場が変わるということです。場が変わるということは、心や行動は場に限定されるのですからモードも変わります。

    従って、様々なモードの多様性はベクトルの多様性=述語に依存するということです。

    その場合、主語はどうなっているのでしょうか。

    場=述語と考えると、主語は初めからチュモンであり、初めからチュモンの場がありました。

    チュモンという主語が扶余という場所で生まれ、扶余を旅立ってタムル軍を再組織するチュモンという主語の場があり、漢との戦いの場がありました。

    そこでは、絶えず、ベクトルを生成しては、消滅させて、新しいベクトルを生み出していくチュモンという主語がいたのです。

    しかし、その主語は自我が主体となる主語ではありません。場に包まれる自我なのです。決して「俺が俺が」というような自我ではありません。

    仲間と一緒にいる自分、恋人を思う自分、母親を思う自分、父の意志を継ごうとする自分がいるのです。

    仲間と一緒にいる自分は、-1凹i由来の自我=+1凹iであり、もはや、弱かった擬装した自我+1凹iではありません。復活した自我+1凸iであり、西洋の近代的な自我とは異質な自我なのです。

    そうです。ベクトルとは述語であり、ベクトル場なのです。ベクトル・モードとはそれが現象化したことを意味するのであり、チュモンという主語が場に包まれて存在していることを意味しているのです。

    述語主体の主語=チュモンと言って良いでしょう。

    ところで、チュモンの擬装戦略はまんまと成功して高句麗という国を建設することに成功なります。チュモンは東明王となり、ベクトル・モードをチェンジして新しい自我=主語が出てくるのです。

    この新しいベクトル・モードのチェンジがどうなったのでしょうか。ここでのテーマではないのですが、PS理論を学んだシムハンターの皆さんなら予測可能でしょう。

    気になるところでもあるでしょうから、最後に補足しておきました。

    述語:場                    主語
    恨みを晴らす:古朝鮮、漢との戦いの場     「朱蒙=チュモン」

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  • from: 生成門さん

    2010年10月19日 14時04分14秒

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    チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力

    チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力<PSとの共振>韓国で脅威の視聴率を記録した壮大な大河ドラマ「朱蒙(チュモン)」があります。写

    チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力
    <PSとの共振>

    韓国で脅威の視聴率を記録した壮大な大河ドラマ「朱蒙(チュモン)」があります。

    写真はhttp://chumonlove.blog119.fc2.com/
    から引用しました。

    誰からも見下されていたチュモンが幾多の出会いと試練を重ねるうちに大きく成長し、やがて扶余を旅立ってタムル軍を再組織、漢との壮絶な戦を勝ち抜き、高句麗(コグリョ)の偉大な初代大王として歴史に名を残すまでの軌跡が描かれています。詳しくはhttp://www.bsfuji.tv/jumong/
    を参照してください。

    今回は、このドラマの説明をしようというのではありません。

    海舌氏の提唱する概念装置「ベクトル・モード」の説明をしたいのです。

    ベクトル・モードを使いこなさないと、この世界の現象がなぜ多様なのかを、うまく説明できないのです。

    しかし、この概念がまたまた難しいときているのです。そこで、簡単にイメージできる方法がないかと思って韓国ドラマを持ち出してきたというわけです。

    このドラマは時代考証的にはやや疑問がありそうですが、三度も見てしまいました。

    実に面白いです。最初は馬鹿にしていたのですが「宮廷女官チャングムの誓い」に続いて嵌ってしまいました。

    筋書きは単純なのですが、のめり込んでしまったのです。

    その理由は「怨み」を「ミッション」に昇華させる進化論的なテーマがあるからでしょう。

    韓国は「怨の文化」であると言われだけあってなかなか表現がうまいのです。

    恨みが人間の生きる原動力であるというのは、四次元能の提唱する新しい進化論です。果して、本当にそんなことが言えるのでしょうか。PS理論を援用して説明を試みたいと思います。

    恨みの感情は特別に韓国人だけの専売ではなく、人間に共通の心理です。犬や猫が人を恨んで復讐をしたという話は聞いたことがありません。

    復讐というのは人間固有の心理ですが、これが場の条件によって、それぞれの歴史や文化や国家観を作ってきたのではないかと思うのです。

    現代では復讐は禁じられており、それに代わって裁判によってエージェント化されていますから恨みの感情は処理できないまま、私達の日常の生活の中に隠されてしまうようです。

    復讐というほど大げさではないでしょうが、日常の些細な揉め事や虐めとか妬みなどは恨みと似たような感情でしょう。

    人を妬み、憎み、恨むというのは、実に人間らしい感情です。これがあるから、未来が開けるのです。その証拠がこのチュモンというドラマなのです。

    人間は恨みのエネルギーを昇華させることで、困難な状況に追い込まれてもしぶとく生きてきたのではないか思うのです。

    「復讐とは何か」を説明しておきましょう。「復讐心が生まれるプロセス」http://www.counselingservice.jp/lecture/lec192.htmlを参照してください。以下、編集して引用しました。
    まず、彼女は突然寂しくなってしまって、その寂しさを一番解消してほしい彼に電話をしました。そして、彼の声を聞いて、つながりを感じることで寂しさを埋めようとしました。

    ところが、彼が電話に出てくれないことで、つながりではなく分離感を感じてしまい、余計に寂しさが大きくなってしまいました。

    その寂しさや悲しみで傷ついてしまった彼女は、「もういいっ!」と携帯電話を放り投げて、彼とのつながりを求めようとすることをやめることで、これ以上傷つかないようにしています。

    そして、電話に出てくれない彼に対して怒りを持つことで、その寂しさや悲しみを感じないようにしています。 

    彼からの電話があった時、彼女は怒りと復讐心から彼の電話に出ませんでした。

    「私をこんなに寂しくて悲しい思いをさせたのだから、あなたも同じ思いをすればいいのよ!」
    ―――
    このような説明では、シムハンターの皆さんは物足りないでしょう。

    PS理論ならもっと明快に解明することができると思います。

    復讐心を持つ多くの人は弱い人です。

    相手から無視されて怒るなら自己否定ではなく他者否定です。他者否定なら自閉という態度はとりません。

    復讐心を持つということは悔しいからでしょう。つまり、悔しさは敗北感の裏返しなのです。

    敗北感とは自己を否定することなのです。敗北を認めるということは自己が弱いことを認めることなのです。ですから、弱い人間は自己を否定するのです。

    しかし、その自己否定が生きる力になることがあるのです。小動物が恐竜時代を生きてきたように、弱い故に知恵が働くようになったのが証拠です。

    臆病で心配性な人は弱いのです。その証拠は猫です。猫は臆病で心配性で弱いように見えます。同じ猫科でも、トラは強いですが、やはり小動物と大きな動物の違いが大きいようです。

    人間の先祖は小動物であり、日陰でこそこそと生きてきたのであって、小心であったことで、今日謳歌することができたのではないでしょうか。

    その弱い人間がどのようにして生き延びてきたのかは知る由も在りませんが、想像することはできます。それが擬装戦略です。どのように擬装するのかは「自我は擬装する」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097854812を参照してください。

    初めから自我を擬装する人などはいません。母の胎内で守られて育つのですから天国の人生です。

    しかし、もともとが弱い小動物の遺伝子を持っているのですから、直ぐにその弱さが出てきます。

    人間は自己肯定、つまり、バラ色の人生と期待を持ってこの世に生まれてくるのですが、社会に出ると直ぐに自己を否定しなければならない状況に置かれるのです。往々にして苛められることになるでしょう。自分が如何に弱い人間であるかをいやというほど知らされるのです。

    そこで起こることは強がりか諂いか妥協であるでしょう。自尊心を保てないのであり、非自尊、つまり、自己卑下、反省、後悔です。

    これらはすべて+1凸iから+1凹iへの反動となって自己を否定して隠蔽する偽装的なルートです。自己を否定して閉じこもるのです。そのような選択をせざるを得ない状況に追い込まれるのです。自我が否定されるのです。

    それでどうするかです。遺伝子は「お前は弱い人間だ。だから、他者と同化して生きなさい。」という命令を下すでしょう。

    遺伝子の命令ですから、従わなければなりません。自分という存在を否定して、他者になるということです。ただし、その現れ方には大きく二つに分かれます。

    自信を喪失して完全に自閉してしまう場合と緊急退避と考える場合です。臥薪嘗胆しても呉越同舟した越の王の場合は、自分という存在を本当に否定はしたのではないのです。緊急退避と考えたのです。

    現代ではすべてがゲーム化して失敗しても反省と称して、お酒を飲んで忘れてしまい、翌日から、再び、復帰ということはよくあることですが、事態が深刻であればあるほど、そうはいかなくて立ち直るのに時間がかかる場合もあるでしょう。

    緊急避難の程度はあるとしても、自己を否定して、擬装して他者になるという点では共通しているのでしょう。

    こういうときは難を逃れ、敵が去ってしまうことを期待して、待つだけなのです。機会を待てば、元の自分に復活することもできるでしょう。

    実際、すべての小動物はじっと身を隠して嵐が過ぎるのを待っているのです。それが自我の擬装戦略なのです。

    どんなに惨めでも、弱い立場なのですから擬装でもなんでもして生きるしかないのです。

    小動物は恐竜時代をそうやって何億年も生き延びたのです。そして、恐竜が滅びて、やっと、我が世を謳歌することになったのですが、その遺伝子は私達に現として残っているのです。

    さて、チュモンの舞台となった古朝鮮は、漢の支配によって多くの人が流民となり、苦しみ死んでいったのでしょう。その場には、多くの恨みをもったまま浮かばれない霊+1凹iが浮遊していたに違いありません。

    本来、+1凹iは自我の対称性である無我ですから、無我の心-1凹iの反転した現れのはずですが、+1凸iの自我から反動した+1凹iは、無我ではなく擬装自我なのです。つまり無我のように見えて真正の無我ではなく、恨みを抱えた自我なのです。

    +1の反動

    +1凸i=自我→(反動)→+1凹i=無我(擬装自我)

    -1からの反転

    -1凸i=無我の心→(反転)→+1凹i=真正の無我


    擬装自我と真正の無我の心との戦いが、この物語の主人公チュモンの生き様であり、テーマでもあるのです。

    無我の心とは-1凹iであり、それを反転した+1凹iが真正の無我の自己であり、自我+1凸iから反動したのが+1凹iの擬装自我なのです。

    この擬装自我にどう打ち勝つのか、それをチュモンはどのようにして為すのか。恨みを建国のミッシション=自我+1凸iにどのように変えていくか。本当の自分を取り戻すために何をなすのか。これがこのドラマの見所でしょう。

    それはドラマを見ていただくとして、ここでは「怨みを晴らす」から{建国する}に自己革新した進化のドラマを、ベクトル・モードを使って説明したいと思うのです。


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    from: kaisetsuさん

    2010年10月19日 14時54分11秒

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    「Re:チュモンというベクトル・モード(1):恨みは進化の原動力」生成門さん今回も楽しく拝読しました。多くの人に読んで貰いたくて、海舌のブログでも紹介

  • from: 生成門さん

    2010年10月09日 08時29分31秒

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    主語は隠れている

    主語は隠れている<PSとの共振>上の図は擬装空洞http://t-walker.jp/eb/entry/から引用しました。以下、編集して引用しました。

    主語は隠れている
    <PSとの共振>

    上の図は擬装空洞http://t-walker.jp/eb/entry/から引用しました。

    以下、編集して引用しました。

    言語の殿堂、四次元能にようこそ!
    みんなの心の中には、素敵な冒険、思い出、いっぱいあると思います。
    それを、この四次元能で表現してみましょう。
    もちろん、あなたの姿も残すことができますよ。それに、この場では実験もできるんです。
    あなたも仮想空間を意識革命の場所にしませんか。
    ---


    日本語には形式的に主語のある学校文法と主語のない三上文法があります。学校文法は西洋文法を基盤にしており、三上文法は日本古来の文法だと言いました。

    この主語の有無について両者の見解は水と油のように真っ向から対立しています。

    主語があるのかないのかは自我があるのかないのかと直結する問題であり、脳を解剖する最も基本中の基本です。

    そこで、もう少し、主語について吟味しておきましょう。

    「新ゴボウのかき揚げ」の作り方の文章を見ると、料理する「人」という主語が隠れており、代わりに「ごぼう」が主語となっていることを見てきました。

    一方、工学的な説明、例えば、建築施工、実験、研究などの文章にも人が関係しないので、人という主語がないのですが、これらも三上文法なのでしょうか。

    どうも文系の文章と理系の文章とは区別して考える必要がありそうです。

    客観的な物理現象を説明するのに、人という主語が出てこないのは当たり前です。せいぜい、それを研究した人が論文やレポーポの片隅に、これは私が研究したものであることを証明するために報告者としてサインします。これは主語の代理とでも言えるでしょう。

    この考えを延長すれば、科学に限らず、数学や音楽の楽譜にも主語などないことになります。あるのは、述語、つまり、命令する記号(数学では演算子)と変数があるだけです。

    これが主語なしを主張する三上文法とどう関係するのでしょうか。

    主語のない文章の例をパソコンのヘルプから引用してみましょう。これはもともと英語表現だったのを日本語に訳したものでしょう。以下、引用しました。

    インターネット接続ウィザードと Internet Explorer を使用すると、Web 上の豊富な情報を検索したり、表示したりすることができます。

    次に示す各トピックをクリックして開始します。ヘルプを使うと、インターネットのブラウズに関するより多くの便利な情報を入手できます。

    インターネットに接続していなかったり、新しい接続を作成する場合は、次のリンクをクリックしてください。
    ―――
    ここのどこに主語があるのでしょう。

    これを英訳に翻訳することを考えると、突然、主語が必要になってきます。これを、英語表現するつもりで表現すると、こうなります。

    「あなた」がインターネット接続ウィザードと Internet Exploreを使用すると、「あなた」はWeb 上の豊富な情報を検索したり、表示したりすることができます。「あなた」は次に示す各トピックをクリックして開始します。「あなた」がヘルプを使うと、「あなた」はインターネットのブラウズに関するより多くの便利な情報を入手できます。
    ―――
    要するに、「あなた」という主語が省かれているのです。確かに、頻繁に「あなた」が出てくるので、日本語に訳とすうっとうしくなります。

    更に、「Webの情報は、さまざまな方法で検索できます。」という文章がありました。
    ここでは「Webの情報は」という主語がしっかりと出ています。これは英語では、なんと表現するのでしょうか。「あなたはWebの情報を、さまざまな方法で検索できます。」となるのでしょうか。

    こうなってくると、主語というのが何なのかがよく分からなくなってきました。主語=人ということに限定すれば分かりやすいのですが、人ではない「Webの情報は」や「ごぼうは」が形式的に主語でも意味が通じてしまうので困ってしまうのです。

    こういうように困窮したときは、違った観点で探求することです。

    無生物主語を使うのは適切かというQ&Aがありましたので、
    http://oshiete1.nifty.com/qa5839038.htmlを編集して引用しました。

    《無生物主語+can》英文製品資料中、製品の特徴や用途を明記する場合。

    仕事で製品の英文PR資料を作ることがあるのですが、製品の特徴や用途を明記するのに下記例文のような表現《無生物主語+can》《無生物主語+can be》などを多用しています。

    (1)This waste cloth can remove tough stains on your products.
    (このウエスは製品の頑固な汚れを落とすことができます)

    この表現だと「ウエスが一人で動いて勝手に頑固な汚れを落とす」という意味になます。

    頑固な汚れを落とすのはあくまでも作業を行う「人」であるので、この場合《無生物主語+can》はおかしいでしょうか?("enables you to remove"などの方が適切?)

    答え

    誰が見ても、やっても同じ結果を得られるのであれば客観的な事実として、人を主語にしない場合があります。

    しかし、PRの場合であれば、人それぞれ感じ方も違うでしょうし、「あなたに試してもらいたい」ということですから、商品名を大文字にして(例えばWASTE CLOTH)

    With WASTE CLOTH you can easily remove tough stains on any products and materials.

    などの表現は大変一般的だと思います。

    一方、This product can be used for cleaning という感じの表現は、取扱説明書では目にする気もしますが、PRの表現としては「掃除に使っていただくことも可能です」ということは、「もっと主目的があるのでは?」という別の疑問がわいてきます。

    確かに表現は慣れてくるとマンネリ化してしまいますよね。 

    ふとマイクロソフト (www.microsoft.com) のウェブサイトを見ると商品説明に you can.... の表現が無いものがありませんでした。
    ―――
    これで明確になりました。

    つまり、英語でも人が関係しない現象の説明、つまり、客観的な事実の説明では、人間の主語は出てきませんが、取り扱い説明書などは相手が人なので、必ず「あなた」などの主語が出てきます。

    一方、日本語では、取り扱い説明のような場合でも「このウエスは」などのように、あたかもウエスが主語であるかのような表現が出てくるのです。

    もちろん、これを読んだ人は、頑固な汚れを落とすのはあくまでも作業を行う「人」であるということを理解しているのですが、「このウエスは」という無生物を主語とする文章も在り得るということです。

    電子回路ではどのような説明をしているのでしょうか。http://www.piclist.com/images/www/hobby_elec/ckt1.htmから編集して引用しました。
    この回路は矩形波の入力信号からパルス状の信号を作るときに使用します。
    ―――
    「この回路は矩形波の入力信号からパルス状の信号を作るときに使用します。」は、「この回路は矩形波の入力信号からパルス状の信号を作る」ときに「使用します。」と分けることができます。

    「使用します。」の主語は回路設計者であり、省略されています。「この回路は〜パルス状の信号を作る。」では「この回路は」が主語のように見えます。

    主語とは一体何なのでしょうか。

    これを徹底的に研究した人が三上章です。三上章についてはこちらhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%8A%E7%AB%A0
    を参照してください。

    三上文法では、「花は」を題、「花が」を主格としたのですから、「この回路」は主語ではなく、主格ないし題と言うことになります。

    先の文章を英語に翻訳すると「矩形波の入力信号からパルス状の信号を作るときに、あなたはこの回路を使用できます。」と変換して翻訳することになるでしょう。確かに、日本語には主語は「ある」けど「ない」ようです。

    ここまでの探求からどんなことが言えるのでしょうか。

    つまり、三上文法では、日本語には主語が要らないといっていますが、それは人が主役として関与する場という前提があります。

    そのような場では、主観的な表現となるので、当然、それを読む人は、文脈から解釈するので、誰が、何が主語となるかは分かるのです。だから、「主語は必要がない」と言っているのです。必要がないというよりは、「省略する」のだと言っているように思うのですがどうでしょうか。

    「料理の作り方」で示したように料理の作るのは人ですから、人が主語となるのは当然です。

    一般的に主観的な文章、例えば、小説などの場合、人を主役にしているのですから、主語が何であるかは、省略されても文脈で解釈も容易です。

    一方、客観的な現象である物を相手にした場合、例えば、工学的な文章では、人がその現象に関わることがなくなってきますので、人が主語にはなりえません。変わって無生物主語が多くなってくるわけです。この場合、正確さを重んじる文献などでは、読み手の解釈に委ねることは危険なので、日本語であってもしっかりと主語を表現するわけです。


    一方、マニュアルや商品説明などになると、誰が使うかということが重要なので英語圏では、人間が主語として必ず出てきます。日本語ではそれが分かりきっている場合は省略してしまうのです。

    ここまでを纏めると、文学的表現では主観的な文章となり、人(生物)が主人公なので、自ずと英語表現では主語が必ずあり、省略しないのです。

    一方、日本語表現でも主語が必ずあるのですが、文脈で分かる場合は省略することが多いのです。それだけに主語が誰かをめぐっての解釈の違いが起こりがちでしょう。法律とか企業の文書では、それがはっきりしないとトラブル続出するでしょう。

    科学的な現象には人が関与しないので、人は主人公にはなりえないので、自ずと英語表現でも日本語表現でも、客観的となるでしょうから人の主語はないのですが、それに変わって、無生物主語が出てきて、この主語は正確性を重視する意味でも省略しないのです。

    これが物を対象にしたマニュアルや商品説明などでは、日本語と英語では、やや、ニュアンスが違ってきます。主観と客観の中間的な領域ですから、人(生物)が主人公と見れば、英語の文章のように主語が必ずある(省略しない)ことになり、日本語の文章でも、主語は必ずあるのですが、文脈で分かる場合は省略することが多いのです。その場合は無生物主語となることが多いのです。

    ここから何が言えるのかです。

    西洋では主語論理{-1(凸i)}によって自我に傾斜した言語(英語など)=+1(凸i)を主にして使い、日本では述語論理{-1(凹i)}によって無我に傾斜した言語(日本語)=-1(凹i)を主にして使うということです。

    このようなことが果して言えるのかどうかです。

    今日、教育の現場では学校文法=西洋文法が主のようですから述語論理{-1(凹i)}によって無我に傾斜した三上文法は影が薄くなっているのかもしれませんが、そのあたりを探ってみたいと思います。次回をお楽しみに。

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    from: 生成門さん

    2010年10月11日 16時32分46秒

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    「Re:Re:Re:第4象限問題」海舌さんへありがとうございました。凹凸符号パーツを読みましたが、直ぐには理解できませんので、じっくり読ませていただき

    from: kaisetsuさん

    2010年10月11日 09時48分05秒

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    「Re:Re:第4象限問題」生成門さんへ素晴らしい発想です。今、起きましたが、同じようなことを考えていましたが、生成門さんの方がより具体的になっていま

  • from: 生成門さん

    2010年10月09日 06時28分49秒

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    日本語は西洋文法に染まっている

    日本語は西洋文法に染まっている<PSとの共振>主語の要らない日本語が生まれる背景は京都に限らず国全体が小さな島国ということもあるでしょう。それは特別な

    日本語は西洋文法に染まっている
    <PSとの共振>

    主語の要らない日本語が生まれる背景は京都に限らず国全体が小さな島国ということもあるでしょう。それは特別な状況=場かもしれません。いづれにしても、場に限定されて生きるのが生き物なのです。

    ですから、場所こそが思考の原点なのです。日本語はどのような言語なのかを知ることは、私達の出目を知ることなのです。その出目を「日本語には主語はあるのか」
    http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-665.htmlを参照して、調べてみましょう。

    以下、編集して引用しました。

    日本語には学校文法と三上文法があります。ここでいう学校文法とは、私たちが学校で学ぶ文科省お墨付きの国文法をさし、三上文法は、『象は鼻が長い』や『日本語の論理、ハとガ』の著作で有名な三上章(みかみ あきら)の提唱する日本語文法をさします。

    学校文法は当然のことながら日本で広く普及しているのに対して、三上文法は海外では有名だが国内ではあまり知られていません。

    恐ろしいことに、主語の有無について両者の見解は水と油のように真っ向から対立しています。

    「花は美しい。」や「花が咲く。」は文です。

    学校文法では、「花は」や「花が」を主語だと教えます。(日本語に主語はある)
    三上文法では、「花は」を題、「花が」を主格とします。(日本語に主語はない)

    学校では、体言(名詞)に助詞の「は、が、も」がつくと主語になると教えます。誰でも、日本語に主語はあると信じて疑うことはしません。

    三上文法によると、英語などインド・ヨーロッパ語では主語は述語動詞の形を決定する重要な成分で必要不可欠なものですが、日本語には初めから主語などというものは存在していないと主張しているのです。

    助詞の「は」と「が」はまったく性質の異なるものであり、これに「主語」という同じレッテルを貼っているのはおかしいというのです。

    確かに、「象は、鼻が長い。」という文の主語は何か、と尋ねられたら返答に窮するでしょう。学校文法に従えば「象は」も「鼻が」も両方とも「主語」ということになります。

    しかし、単文に2つの主語があるのは変です。三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だといいます。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれているからです。

    しかし、日本語では主格(何が、誰が)がなくても文は成立します。たとえば、料理文がそうです。料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこないのです。言う必要がないからです。

    山崎紀美子著 『日本語基礎講座』三上文法入門から、料理文の一例を引用します。

    「新ゴボウのかき揚げ」
    <主な材料>
    新ゴボウ2本(200グラム)、桜エビ(素干し)15グラム、牛乳100cc、大根200グラム
    <作り方>
    ゴボウは汚れを落とし、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。ボウルに薄力粉100グラム、牛乳、桜エビ、ゴボウを入れまぜます。8等分し170度の揚げ油で、カリッと揚げます。大根おろしとしょうゆを添えます。

    作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とし」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。

    ゴボウについて言えば、その汚れを料理人が落とす、という意味です。「ゴボウは」は、主語などではなく、題なのです。

    ですから、その後に続く「斜め薄切りにして」「水にくぐらせ」もゴボウについて言っているのです。「水気を切り」もゴボウの水気を切り、という意味ですし、「薄口しょうゆ大さじ1をからめます」もゴボウにからめる、ということです。つまり、題は、点(コンマ)を越えるのです。

    ここで、もし冒頭を「ゴボウの汚れを落とし」というようにすると、「斜め薄切りにして」や「水にくぐらせる」のが、何を対象としているのかわからなくなってしまいます。
    ―――
    うーん、なるほどと思います。

    日本語では主格(〜が)がなくても文は成立するということを理解できたでしょうか。

    本来の日本語には主語がなくて、それが学校では、「主語がある」と教えられてきたということになり、私達は西洋的な文法に影響を受けた学校文法に染まっているということなのです。

    では、狭い空で波風を立てない工夫としての本来の日本語、情緒のある表現としての本来の日本語ですが、どこに行ってしまったのでしょうか。


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  • from: 生成門さん

    2010年10月07日 20時03分25秒

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    心的エネルギーの流れ

    心的エネルギーの流れ<PSとの共振>「日本語に主語はいらない」http://www.c-player.com/ad00178/thread/11000

    心的エネルギーの流れ
    <PSとの共振>

    「日本語に主語はいらない」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097861556で示した心的エネルギーの流れを修正してガウス平面に表現しました。

    PS理論ではMPの作用の結果である精神現象と物質現象を厳密に区別しています。しかも、それらは表裏一体であり、すべてはエネルギーの流れとして捉える必要があります。

    現象が現れるためにはエネルギーが必要なのです。そのエネルギー源はイデアです。イデアからMPを介して+1に現れるのです。

    エネルギー変換はMP1共役(凸i*凹i⇒{+1(凸i)・+1・+1凹i)}、MP共立(凸i♯凹i)⇒{-1(凸i)・-1・-1凹i)}の6つですが、これに没入、出没、擬装、気、直観のルートを加え、+1に集約させると以下の通り11のルートとなります。

    MP2中立のルート①
    MP2自我優位のルート②
    MP2無我優位のルート③
    MP1中性ルート④
    MP1自我優位のルート⑤
    MP1無我優位ルート⑥
    没入ルート⑦
    復活ルート⑧
    自我優位の偽装ルート⑨
    直観ルート⑩
    気ルート⑪

    これを冒頭の図で示しました。


    MP1とMP2はガウス平面の原点ですが、分かりやすくするために大きくしてあります。実際にはMPはブラックホールのように伸縮します。

    MP1は虚軸から-1に出るルートを担います。その後、-1から+1へ出るルートはMP2が担います。

    MP2は凸iと凹iが共役(共振)して、虚軸から実軸に繋がるルートも担っています。

    更に、MP1ダイレクトという特別なルートもあります。これは虚軸から-1やMP2も経由しないで、実軸へ直接に繋がるルートです。

    以下、順に説明します。

    ***<MP2中立のルート①:MP2→+1>

    これはMP2共役{凸i*凹i}の心的エネルギーの鬩ぎ合いがバランスしている状態であり、MP1の即非状態と同じように見えます。

    実際の即非はMP1なので、心の中では揺れ動いているでしょう。これがMP2共役として外に出てきますのでチークダンスのように抱合い縺れあうように見えます。共立と共役のイメージを伝えるためにダンスに喩えましたので参照異してください。
    https://c-player.com/ad00178/thread/1100097236792
    以下、引用しました。

    凸iと凹iの共振(共役)はMP2から+1へ現れる前のエネルギー的なダイナミックス(抱き合いのダンス)を表わしています。

    一方、凸iと凹iの共立はMP1から-1へ現れる前のエネルギー的なダイナミックス(絡み合いのダンス)を表わしています。

    同じダンスでも、「抱き合い」と「縺れ合い」では大きな違いがあります。イメージ的に言えば、共振のダンスはブルースやタンゴやワルツであり、共立のダンスはルンバやマンボやジルバといったところでしょう。

    ただ、抱き合いの共振ダンスは凸iと凹iの対称性が破れて一人ダンスに変わることがあるようです。

    縺れ合いの共立ダンスは凸iと凹iの対称性が破れることはなく、一人ダンスに変わることがないようです。どんなに遠く離れていても、互いに時空を超えて、互いを意識して踊っているということがあるのです。
    ―――
    抱き合いの共振ダンスは、タンゴやワルツのように、外部からは活発で振動的な運動として観察されることもありますが、一方、ブルースのように離れないので、どっちがどっちか分からないのでしょう。このような状態は曖昧・優柔不断な態度として観察もされるでしょう。

    PS理論では、このように心の多様性をガウス平面で簡潔に表現することができるのです。

    ***<MP2自我優位のルート②:MP2→+1(凸i)>

    これはMP2共役{凸i*凹i}の心的エネルギーの鬩ぎ合いが凸iに傾斜している状態であり、対称性が破れています。つまり、一人ダンスの状態です。

    心の中では意思が固まっており、外部からは明確な態度、自信ある態度、場合によっては狂気・狂喜として観察されます。

    ***<MP2無我優位のルート③:MP2→+1(凹i)>

    これはMP2共役{凸i*凹i}の心的エネルギーの鬩ぎ合いが凹iに傾斜している状態であり、対称性が破れています。これも一人ダンスです。

    心の中では内省が進み、場と一体しており、自己を主張しないので、外部からは物分りが良く何でも許容する包括的な態度に映ります。天上天下唯我独尊といった状態でしょうか。

    言い換えれば、スポーツなどで見られる無我夢中の状態であり、人馬一体であり、宗教で見られる献身的な犠牲的な精神状態であり、仏教的な無我として観察されるでしょう。

    しかし、社会的な場所では、閉じこもりであり、自閉であり、対人的には人に無関心となりますので、外部からは自己中心的と映ります。

    ***<MP1中性ルート④:MP1→-1→+1>

    これはMP1共立{凸i♯凹i}経由で+1に出てくるルートであり、心的エネルギーの鬩ぎ合いがバランスしている状態です。

    MP2中立のルート①:MP2→+1と重なると共振するので、即非性、つまり、葛藤・振動・曖昧・優柔不断な態度が増幅されて観察されるでしょう。

    MP2自我優位のルート②:MP2→+1(凸i)と重なるとエネルギー強度によって、どちらかに吸収されるでしょう。

    MP2無我優位のルート③:MP2→+1(凹i)と重なると互いに打ち消しあうので中性の+1となるでしょう。

    ***<MP1自我優位のルート⑤:MP1→-1(凸i)→+1(凸i)>

    これはMP1共立{凸i♯凹i}経由で+1に出てくるルートであり、心的エネルギーの鬩ぎ合いが凸iに傾斜している状態であり、対称性が破れています。

    MP2中立のルート①:MP2→+1と重なると共振するのでエネルギー強度によって、どちらかに吸収されるでしょう。

    MP2自我優位のルート②:MP2→+1と共振すれば増幅して現れるでしょう。

    MP2無我優位のルート③:MP2→+1(凹i)と重なると互いに打ち消しあうので中性の+1となるでしょう。

    ***<MP1無我優位ルート⑥:MP1→-1(凹i)→+1(凹i)>

    これはMP1共立{凸i♯凹i}経由で+1に出てくるルートであり、心的エネルギーの鬩ぎ合いが凹iに傾斜している状態であり、対称性が破れています。

    MP2中立のルート①:MP2→+1と重なるとエネルギー強度によって、どちらかに吸収されるでしょう。

    MP2自我優位のルート②:MP2→+1と重なると打ち消しあって、中性の+1となるでしょう。

    MP2無我優位のルート③:MP2→+1(凹i)と重なると共振するので増幅して現れるでしょう。

    ***<没入ルート⑦:+1(凸i)→+1(凹i)>

    これは一旦+1(凸i)出た自我が勝負に負けたり、ビジネス面で失敗して後悔したりし、とにかく自我が形勢不利となって、自我を引っ込めざるを得なくなったときの敗北状態です。

    つまり、自己を否定して他と同化する現象です。

    ***<復活ルート⑧:+1(凹i) →+1(凸i)>

    これは敗北して自我を引っ込めざるを得なくなった後、自我が再度復活する場合です。社会復帰のケースはこれに当てはまるでしょう。

    ***<自我優位の偽装ルート⑨:MP1→-1(凹i)→+1(凹i)→+1(凸i)>

    これは没入ルート⑦と復活ルート⑧がセットになっている場合です。

    戦いに敗けて賞嘆して屈辱を受けて、自我を引っ込め、あたかも、+1(凹i)=無我的人間となったかのように装い、再度、リベンジする機会を伺う場合です。

    ***<直観ルート⑩:MP1→+1(凹i)>

    これは自我の発達していない単細胞生物の条件反射から知的な生物の芸術的直観の作用であり、これから解明しなければならないルートです。

    ***<気ルート⑪:MP1→+1(凹i)>

    気については海舌氏が既に解明していますので、こちらを参照してください。
    http://ps-theory.kaisetsu.org/?eid=243
    以下、編集して引用しました。

    陰陽とは、陰と陽とは互いに対立する属性をもった二つの気であり、万物の生成消滅といった変化はこの二気によって起こるとされますが、これがオイラーの公式coswt or e^-iwt=気ということになります。
    ―――

    この気エネルギーがどのように+1(凹i)として現象するのかを解明しなければならないでしょう。これは今後の課題とします。

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  • from: 生成門さん

    2010年10月05日 16時03分30秒

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    日本語に主語はいらない

    日本語に主語はいらない<PSとの共振>上の「赤とんぼ」の図はhttp://www.icydog.com/micmt/htdocs/mt/archive

    日本語に主語はいらない
    <PSとの共振>

    上の「赤とんぼ」の図はhttp://www.icydog.com/micmt/htdocs/mt/archives/000572.htmlから引用しました。

    PS理論では、MPの作用の結果である精神現象と物質現象を厳密に区別しています。しかも、それらは表裏一体であり、すべてはエネルギーの流れとして捉える必要があります。

    現象が現れるためにはエネルギーが必要なのです。そのエネルギー源はイデアです。イデアからMPを介して+1に現れるのです。

    エネルギー変換はMP1共役(凸i*凹i⇒{+1(凸i)・+1・+1凹i)}、MP共立(凸i♯凹i)⇒{-1(凸i)・-1・-1凹i)}の六つですが、これに擬装ルートを加え、+1に集約させると以下のとおり7つのルートとなります。

    (1)自我優位のルート:MP2→+1(凸i)

    (2)無我優位のルート:MP2→+1(凹i)

    (3)中立のルート:MP2→+1

    (4)自我優位のルート:MP1→-1(凸i)→+1(凸i)

    (5)自我優位の偽装ルート:MP1→-1(凹i)→+1(凹i)→+1(凸i)

    (6)無我優位ルート:MP1→-1(凹i)→+1(凹i)

    (7)中性ルート:MP1→-1→+1

    普段はMP2からのエネルギー供給ですが、自己否定しなければならなくなったときにはMP2の自我優位のルートは遮断されてしまいます。

    中性のルートは使えますが、自我にとっては、余りありがたいルートではないでしょう。

    無我のルートは、自我にとっては全く論外です。

    従って、自我がプライドを捨てない限りは、自我を隠蔽してでも自我の再生を図りたいのです。

    所謂、自己革新というケースですが、この場合は、MP1もルートを使います。ただし、ルート(4・6・7)はMP2の場合と同じ理由で使えません。

    残るのはルート(5)の擬装ルートだけです。これが呉越同舟であり、復讐・リベンジ・再チャレンジのケースです。

    自己再生・自己革新・リストラ・リエンジニアリング・人間革命・明治維新・革命・ルネッサンス・洗脳などと言われるものはすべてこのケースに相当します。

    このケースでは過去との断絶、自己否定が求められるのですが、少なくとも、再生するエネルギーだけは確保できるのです。

    (5)自我優位の偽装ルート:MP1→-1(凹i)→+1(凹i)→+1(凸i)のケースでは、-1から+1と+1(凹i)→+1(凸i)への二重の反転があります。

    既に、-1(凸i)と-1(凹i)の分岐にはMP1の精神作用としてイデア由来の主語論理の思考と述語論理の思考が関係していることを言ってきましたし、また、言語としての+1(凸i)と+1(凹i)にも、主語論理の言語と述語論理の言語があるといってきました。

    そしてこの思考が科学や宗教の分岐にも並行的な関係があることを示してきました。

    凸i*凹i⇒+1(自我と無我)
    凸i♯凹i⇒-1(自我意識と無我意識)
    凸i*凹i⇒+1(主語言語と述語言語)
    凸i♯凹i⇒-1(主語論理と述語論理)

    凸i♯凹i⇒-1の-1の非在(思うこと)には、主語論理の思考(凸i優位)と述語論理の思考(凹i)に分岐するのですが、それが+1に反転して凸iないし凹i優位の+1の文化や宗教やその他現象となるのです。

    そうなると主語論理と述語論理、主語言語と述語言語とは何かを示す必要があるでしょう。

    特に、私達の日本においては主語論理を基盤とする英語圏ではないので、西田幾多郎の場所の論理を理解するには日本語を理解する必要があると思うのです。

    私達の日本では敗戦によって、言語においても和洋折衷化しているのです。つまり、主語論理を基盤とする英語の影響を受けた凸i優位の日本語と述語論理基盤とする凹i優位の日本語が存在しているということです。

    これらが鬩ぎ合っている状況を浮き彫りにすれば、思考の本質を発見できるのではないでしょう。日本語に於ける主語とは、述語とは一体何なのでしょうか。「日本語には主語はいらない」という説がありますので、http://www.yoshimura-s.jp/blog/?date=20080924ここから探ってみましょう。以下、編集して引用しました。

    ・ぼくは学生です。
    ・ぼくはコーラです。
    という表現があるとします。

    前者は「ぼくは」はこの文の主語であり、英語の「アイ・アム・〜」に相当します。

    一方、後者の文は実は省略された形で、「ぼく(が欲しいの)はコーラです」、もしくは「ぼくはコーラ(が欲しい)です」が本来の意味です。

    本来の意味がどうであるにしても、日本語では「主語」がなくても意味が十分通じてしまう「場」=社会・風土があるのです。

    そもそも主語というのは、明治維新以後、学校で国語を教えるために文法を整備する過程で、手本にした英文法から導入されたのです。

    ですから、もともと日本語には主語などなかったのです。日本語には「愛らしい」「赤ん坊だ」「泣いた」の3つの表現で会話が成り立つのです。
    ―――
    ここで、言いたいことは、日本語は文脈依存であるから主語が要らないということでしょう。文脈依存というのは場所依存ということです。「空気が読め」「場所を考えろ」なんて言いますが、それも同じことを言っているのでしょう。

    確かに、よく考えると私達の会話には、主語がない表現が多いことに気がつきます。「誰が」とか「何が」とかわざわざ言わなくても暗黙に分かっているのからです。

    かつての日本人の生活はウナギの寝床、ウサギ小屋、長屋とかに象徴されるように、それだけ接触している密度が濃かったということでしょう。そこから、波風を立てないようにするために、必然的に「誰が」とか「何が」を省略する術を見につけたのかもしれません。

    何か責任を追及するときにあからさまに「誰が」と言うと壁に耳あり障子に目ありの長屋という場所ですから、直ぐにうわさが立ってしまったことでしょう。

    ですから曖昧な表現を得意とする風土が醸成されたことは容易に想像できます。狭い生活空間は癒しを演出する場でもあるのです。京都は気使いの文化といえるのですが、このような狭い空間から生まれた日本語には主語が徹底して省かれる方向に向ったのです。

    京都は、かつては政治や文化の中心でしたから、そこから派生した「気づかい」の文化こそが場の文化だと言えるのではないでしょうか。日本のあらゆるところに気づかいがパックされていると考えるべきでしょう。

    又、京都は、本音と建前を徹底して分ける文化でもあります。言っていることと思っていることには、相当の違いがあるのです。歓迎すると言いながら、玄関には箒を立てるといったことが現れるのです。

    京都は(5)自我優位の偽装ルート:MP1→-1(凹i)→+1(凹i)→+1(凸i)が現れる場所でもあるのです。

    偽装のことはしばらく置いて、主語が隠れる良い例を挙げておきましょう。誰もが知っている山田 耕筰作曲、三木 露風作詞の「赤とんぼ」http://momo-mid.com/mu_title/i_akatonbo.htmという歌には「主語」がないのです。

    夕焼け小焼けの赤とんぼ
    おわれて見たのはいつの日か

    この2行目の主語は何でしょうか。多くの人は「赤とんぼ」だと思うのではないでしょうか。

    「赤とんぼが、子供たちに追われて夕焼け小焼けをみたのはいつだったろうか」と作詞家が謳ったのだと思うでしょう。しかし、ここには深い意味が隠されているのです。

    何が隠されているのでしょうか。

    ピンポーンです。一応わらべ歌ですから、隠された主語は子供だと想像することは簡単でしょう。自分が子供のころを思い出すと何となくわかるような気がするのです。従って、先ずは、主語は「私」ということになるでしょう。

    しかし、もう少し、場というものを考えて見ましょう。おわれて見たのは「いつの日か」とありますから、何時、どこでと想像して見ましょう。そこはどんな「場」なのでしょうか。

    子供時代のことを思い出します。そこには、故郷の川や山があります。のどかな風景(場所)を思い出すのではないでしょうか。

    しかし、その場所は遠い過去のことです。過去の場所というのは、もはや仮想の場、ノスタルジアな場所なのです。

    そのような場所を想像できるなら、赤とんぼを追っかけていた「私」は、もしかしたら、前世の前世の前世ぐらいは、赤とんぼだったかもしれないと想像することも出来るでしょう。

    トンボを追いかけていた自分から、トンボが自分であると反転しまいました。

    場所にはそういう力がありそうです。

    そうすると、やはり、主語は赤とんぼです。山田 耕筰と三木 露風は、そんなことを考えて謳を作ったのかもしれません。

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    from: 生成門さん

    2010年10月06日 18時43分53秒

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    「Re:Re:日本語に主語はいらない」海舌さんへコメントありがとうございます。PS理論の応用の仕方を間違えていないでしょうか。どんどん指摘をお願い致し

    from: kaisetsuさん

    2010年10月06日 10時40分37秒

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    「Re:日本語に主語はいらない」生成門さんへ楽しく、四連作、拝見しました。PS理論の楽しさを満喫されて、書いておられるように感じました。爽快な気分で一

  • from: 生成門さん

    2010年10月05日 14時19分54秒

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    量子力学に於ける擬装

    量子力学に於ける擬装<PSとの共振>上の図は擬装空洞http://t-walker.jp/eb/entry/から引用しました。以下も引用しました。ここ

    量子力学に於ける擬装
    <PSとの共振>
    上の図は擬装空洞http://t-walker.jp/eb/entry/から引用しました。

    以下も引用しました。
    ここは旅人の酒場。都市国家間を行き交う……そう、俺らみたいな旅人達が訪れる場所だ。

    酒場に来たってことは、お前も気になる『エンディング』を探しに来たってトコか?

    ここでなら、俺達の敵「マスカレイド」に関連するものはもちろん、人探しにお祭り、力仕事にお使いなどなど、いろんな情報が得られるからな。

    気に入った情報が見つかったのなら、さあ、冒険に出発だ!
    ―――
    場所とは、本来こういう場なのでしょう。
    それが擬装に使われるとなると問題が発生するということです。擬装事件の発生を知らせる警戒警報が鳴っています。

    どうやらそれは先端の科学、量子力学の領域らしいのです。では、冒険にいってみましょう。

    偽装の戦略とは自我が形勢不利となっても+1(凹i)を取り込んで再生するやり方です。

    質点(粒子)重視の量子力学は自我優位の科学であり、実体=実存を基礎とする西洋の哲学の結果であると言えるですが、それが敵=場の論理を飲み込んでしまい、自我を再生させるという意味での偽装同化の戦略なのです。

    ですから、傍目には質点(粒子)の量子力学{+1(凸i)}が、あたかも、場の量子力学{+1(凹i)}のように見えてしまうのです。

    自我優位の科学{+1(凸i)}は主語論理{-1(凸i)}由来であり、必然的に実体=粒子性{+1(凸i)}を重視することになります。一方、場優位の科学{+1(凹i)}とは波動性を重視するのであり、必然的に述語論理{-1(凹i)}由来なのです。

    ですから、自我優位の科学が場優位を偽装して取り込んでも、自己の内部のどこかに矛盾が生じてしまい、それを一時的に繰り越しても、いずれ、どこかで、ぼろが出てくるのです。

    擬装の戦略

    場の科学:-1(凹i)⇒+1(凸i):質点の科学

    質点の量子力学が破綻していることを端的に示すのが不確定性原理を巡る解釈です。不確定性原理の解釈については「唯物的自然科学観の否定」
    http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page011.htmlから編集して引用しました。

    不確定性原理とは、粒子の位置と速度を同時に正確に測定することは出来ない、というものであり、粒子の位置を正確に測ろうとすると、速度があいまいになり、逆に粒子の速度を正確に測定しようとするとどこにあるのか分からなくなるというものです。

    質点優位を科学者は、粒子性にこだわっていますので、波が突然に収縮して粒子になるという説明をしますが、何故、そうなるのかについては説明が出来ないのです。

    波が本質であるとする場の量子力学では不確定性原理は、何も不思議なことでもなんでもなく当たり前の現象なのです。

    波が本質であるとする場の論理では、「位置」は、「波が局在している場所」であり、「速度」は、「単位長さあたりの波の数(波数という)」に対応するのです。

    ですから、いろいろな波数の波を混ぜると、非常にシャープな局在した波になり、混ぜ方を減らしてゆくと波は裾野を広げてゆきます。

    下の図は「SF読者のための量子力学入門」
    http://www.sf-fantasy.com/magazine/column/quantum/200406.shtmlから引用しました。





    そして、ある波数の波だけにすると、一面に拡がった波になります。いろいろ波数の波を混ぜるという事は、速度が定まらないことを意味し、ある波数の波とは速度が一つに決まっていることを意味します。

    局在した波とは位置がしっかり定まっている事を意味し、拡がった波とは位置がはっきりしない事を意味します。自然の実態が波だからこそ、不確定性原理が成り立つのです。

    質点重視の科学者は、どうしてここまで粒子性にこだわるのでしょうか。どうして、宇宙の実態は「実は波である」と思考を転換することが出来ないのでしょうか。
    ―――
    質点の量子力学を場の論理で擬装して、延命させることが可能であるのは、そこの同じ位置=+1に自我があるからです。これが資本主義の擬装と同じであることを「自我はゾンビのように」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097859167で示しました。
    そこ+1では、実体、粒子、量子などと名前を変えますが、すべて自我の反映だということです。そして、その本質は虚軸由来の凸i優位の主語論理が基盤となっているのです。

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