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from: Ryonukuさん
2011年02月23日 01時24分32秒
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今度の27日(日)夜21時より
応用万学会のチャットルーム(in万研アゴラ)で、チャットやります。
興味ある方は、(はじめての方は早めに来て万研アゴラへの登録を)
気軽に参加下さい。-
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from: Ryonukuさん
2011年02月18日 11時59分30秒
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あるがままとは何か(受験勉強の邪魔になりませんように(-_-;))
簡単なのか難しいのか。
ありのままの自分、あるがままの自分
どんな状態を言うのか。
しかし、考えてみると不思議である。
みなさんは、自分が、主観的には、変化した、と感じていても、大局的に見て生き方が本質的な意味で変わったということが、あっただろうか。ぼくなどは病気の前後で、変わった部分と、変わらなかった部分がある。
ところが実際上の変化と言えば、本来の自分に帰ってきたというだけのような気がする。朱子もいっているが入試の受験(科挙)というものはある意味、人を人間・自然の道からはぐれさせかねないものであり、実際、人の身心を少なからず蝕むのである。
しかし、結局、それを単純に社会制度上問題とばかり捉えるのではなく、競争に勝って自身の希望を通したい(色んな意味で自分にふさわしい希望であるかどうかの問題は取り敢えず半ば棚上げしながらも)という人間個人個人の心の問題でもあるわけである。
もし仮にだが、(これ自体物理的に無理なのだが思考実験的に)社会全体としての欲求の合理的充足としての需要と供給という市場経済の基本原理に従って(純粋に籍の数に関しての話だが)大学の門戸が開かれるようになれば、その志望理由がブランド志向であれ、実質志向であれ、需要・供給曲線の交点(言わば平衡状態)に向かって籍数が変化していき、いわゆる「合理性」の高い入試、が実現するとも考えられるわけだが、しかし、これが、勉学を行う場としての学校の意義というか、勉学という行為そのものの本質的役割を考えた場合、全くナンセンスな方法であるとも思うのである。
なぜか。本来勉学は、それ自体、心の上では何も求めない行為だからである。つまり修行のはずだからである。反論異論はあるはずだが、僕の経験や実感からして、なにかをもとめてなにかを行う、特に勉学を行うことは、けっして楽しいものではないのである。なにかをもとめてなにかを行っているときは、必ず「苦」をともなうはずである。勉学が苦しいものであるという常識はけっしてまちがいではないが、たいてい、なにかをもとめて行う勉強しかやらない、または、知らない場合が多いから存在するのであろうと思う。
僕も10年以上前、ある教授がいっていた、目的がなくとも勉強しろというセリフにはさすがに唖然というか、そんな馬鹿な、と思ったが、ようやく最近になって、すこしその意味もわかるような気がしてきている。今から思うと、当時は勉強とはなんなのかということに関して大きな誤解をしていたように思う。
勉強とは?その本質とはなにか、という問いに、明快に答られる人は、どれだけいるのだろうか。人によって異なる、という返答が多く返ってきそうだ。それに対して反論というほどの反論はない。それこそ自由といっていい話だ。ただ、多少なりとも哲学的に議論を進めるならば、ある程度の普遍性を有した回答を導きだしたい。
僕が大枠で考えるとき、物事の本質や原理的なものが存在するのは、やはり、伝統的な哲学にしたがって、形而上学的領域または宗教的次元であると考えたりする。しかし、その時点で、本質や「原理」(「真理」でもある)を知りたければ、欲を、思い通りにしようとする気持ちを、なるべく排除することが必要だと言える(中道的な思考を要する。つまり、主体的に考えるというより、およそ頭のはたらきに「お任せする」こと)。研究者が思いがけないときに、重要なことに気づくことわりと多くあるのは、まさにこれである。
「知(智)」という「現象」は、自らを救うこと、救われること、思い込みや妄想から自分を解放し、救うのだと思う。学問で使う「愛智」とは、別に知識を愛するの意味ではなく(個別の知識への執着は、結局とらわれだ)、そのような、自分たちを本質的な意味で無知妄迷から脱出させ得る知的営み自体を愛する、という意味であるはずなのだ。事実、西洋の学問の発祥は神話的世界からの脱却が動機であった(今となっては神話も学問的に大変重要なのだが)。
勉学が本来それ(無知蒙昧からの脱却)を目指すものであることを念頭においてみれば、現代人の多くがそうなのかもしれないが、主として、定期試験・入学試験・資格試験のための勉強、成功のための勉強、得するための勉強、を「勉強」であると思い込んでいることは、逆説的であると感じられるし、さらには、そういう真実と異なる考えに染まる(そういう勉強も適度にやっておけばよいのだが(中庸))ことで、結局は自分や社会に良くない結果をもたらすという、振り返ってみれば当たり前のことには、実に納得いくわけである(かくいう僕自身がそうなのである)。
問題は、いつだって私達の煩悩すなわち妄迷にあるのだが、それは現実的にはほぼ回避不能な問題とみなされ、欲望を前提として、社会的なシステムの変更を思案することになるのだが、おそらくは私達が私達の妄迷を前提として(本当はこの「無知の知」すら僕自身を含めてまともに達成されている気はしないのだが)できることは、やはり、知(智)恵を時代の地平を追い越すほどに前進させ、その来るべき時代にふさわしいシステムを築く以外にないのだと思う。
時代の要請にこたえるためには、前時代的なものに、いつまでも拘泥してはいられない。これらのような答の出にくい類いの問題に悩まされることがあっても、自分を、自分の道を見失わない。それが、ずいぶんと困難であることは、僕を含めた多くの人が身をもって味あわされているのであろうけど(笑)(結局答は、他者からヒントを得ることはあっても、個々がオリジナルなものを見いだすしかない。それしか真に役立つことはないし、実際それは可能だ。そのための「自己=無意識的で本来的な自分」の存在であろう)。
毎年この時期になると受験を思い出して妙に心が騒がしくなる
。春の訪れの影響もあいまってのことだと思うのだが…。-
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