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  • from: Infophysさん

    2012年07月20日 19時48分31秒

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    統合失調症(若年性痴呆)の智慧による治療の発見。痴には知を。

     患者(自分を含めた)がよく口にするはずである典型的な症状として、考えがまとまらない、とか、わからない、などがあるが、その原因がわかった。どうやら、直観が働くはずの場所、おそらく原始脳、とくに、中脳とか間脳、またその上のあたりなどに、意識がまとまりを得ていないときに、このような状態が発生することが実感される。
     勉強を行っているときも、思考をどんなにか働かせたつもりでも、直観が働かないときは何もわからないという経験は多くの人が自覚あるなしを問わなければ経験しているはずである。ストレス(歪み)が強いとわかるはずのこともわからないというのもこの直観をつかさどるはずの精神がひずんでしまっていてまともに働き得ないことが、原因であると考えられる。やる気が無いときも同様だ。
     個人的には精神の本質的な実体は量子情報であると僕は思っているので、量子たちが集まっていないで分散気味なときはボ〜ッとしてなにもよくわからないのだとか、集まって均整のとれている時は集中力が発揮されていて理解力に優れた状態を具現しうる、とか、分散気味でも放っておくと勝手に自己組織化してひらめきを得たり、それを積極的にまとめようと意識すると総合的な思考が可能になったりする、などと思ったりする。
     この直観の働く場所というものが一体なんであるのか、というとぼくは(量子たちの)動的平衡点(領域)であると思うようになった。
     統合失調症の患者というのは周囲の人々との関係がうまくいかないということが知られている。実はこれは、客観的に患者を見たときに外的な実世界というマクロレベルでの動的平衡点がはっきり見出されていないように見えることと、内的な精神(量子)世界というミクロレベルでの脳内の動的平衡が成立していないこととが見事に整合して見える現象であると思われる。
     すなわち、脳内の精神作用のアンバランスが外的な人間関係のアンバランスと意味的に合致するわけであり、量子のミクロレベルのバランスと人間同士の関係性というマクロレベルのバランスがつながっていることを示すわけである。
     これは仏教的に重要視される縁や利他行為の考え方、内と外を分けない世界観などや、精神分析理論のコンプレックスや自己、内界、布置などの概念ともうまく整合するように思われる。
     したがって、患者のすべき努力とは(薬を飲むことの影響もその動的平衡のバランスの一部とみなした上での)、客観的な分析的な意味でも、主観的な感覚的な意味でも、この動的な平衡というまとまりのあるバランスの安定状態(状況)を見出そうとする努力なのである。
     生命力の基本はバランスやリズムであると常日頃から思ってきた。結局これの意味も、時空間秩序としての我々が時空間的な意味でもそれ以上の意味でも世界と自己相似的になること、フラクタルになること、カオスという縁構造の一部であることの認識(自己認知)なのであるという結論に至るのである。なぜ規則正しい、ワンパターンとも言えるような生活を人間が必要としそのように自我形成を行うのか。それは自分の立場・立ち位置から観た世界に対して自己相似になることで安定を得ようとしているということに由来していると考えたくなるのである。
     いよいよ学問と宗教の接近も本格的という気がしてきた。智慧とはなにか。人間は知ることで安心し、必然性ともいえる知のおかげで、悩みや迷いから解放され、本当の意味で自由になりたいと願ってきた。そういう営みだったのだと思うようになった。

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  • from: Infophysさん

    2012年07月12日 00時29分41秒

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    立場と役割

    最近、悟りとは自分の立場にもとづいてその役割を認識することなのかもしれない、つまり、天命を知ることと同値かもしれないと思うようになった。曼陀羅の中心を眺めながら、中心方向に流れ込むエネルギーのイメージを抱く練習をしていたとき、そこ(中心)には自己(自分の内側に住む神)がいるように感じた。

    そこから大きく逸脱しないことがすなわち、欲にとらわれず、役割を演ずること(cf.物語論)なのではないかと思った。人間はいわゆる自由を手に入れて不幸になった面がある。自分が何のためにいるのかいくら考えてもわからない状況。近現代には「自由からの逃走」劇の側面がありそうだ。

    真の自由が必然性の理解にあるというヘーゲルの主張もこの観点から鮮やかに映し出される。役割を知ることは縛られることではなく、むしろ悩みや迷いから解放されて、人から好かれて充実した日々を送ることになるための絶対的な関門なのであり、そして、太古の昔はそんな状況が当たり前だったかもしれない。失楽園がどう起きたのかが興味深い。

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  • from: Infophysさん

    2012年07月07日 22時29分32秒

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    いろいろ思った。

    なんだか見聞きしている、または体感・体験・経験しているすべてが、イメージである気がしてきた。イマジナリーな「この」世界に分節を設けている機構がカテゴリーなのか。

    続けて、カントの形而上学への前哨的構造(?)としてのカテゴリーの意味ってそういう風なのかもしれないと思った。

    プラトンとアリストテレス。どちらかを正しく観るのも悪くは無いかもしれない。だけど、僕的には不毛に思える...。かといって止揚するのが正しいとも言い切れるのかどうか...。

    形而下と形而上をつなぐものとして情報概念を考えるのもいいかなと思ったけど、それも一つの立場に過ぎないのかも・・・。理論構築の仕方としては魅力を感じるけれど。。。

    こういうこと考えながら日々を暮らすのはこの上なく刺激的で面白い^^。あ、それを観照とか観想的生活とかいうんだっけ。損得勝ち負けから解放されるってのはやっぱり気分がいい。。。スマホや格闘ゲームやめてよかったかも(笑)

    健全な魂は健全な身体にやどる。。。まあ、そうだけど、健全な魂でなきゃ健全な肉体ではいられないという実感もあるしなあ。。。アリストテレスに偏った観方しててもいいことないと思う・・・。

    その点中国の気という概念は優れていると思うんだけどなあ。。。呪術的な雰囲気さえなければこの言葉もっとふんだんに使いたいところだけれど。。呪術全否定も結局人間精神の安定性には決していいとばかりはいえない、とある有名な世界史の本読んでたら、載っていた。

    現代のオカルトブームってあまりにも科学というコスモスが強力すぎるために、カオスとしての呪術的世界観が反動的に強くなっているのかもしれないと捉えることは可能かもしれないと思った。

    今日はこれで満足としよう^^(笑)

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  • from: Infophysさん

    2012年07月07日 22時01分29秒

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    自分の中にある自然に気付きたい

    文明の只中にいて、文明に毒されない。それがすべてにおいてのうまくいく秘訣である。自然は人間をいつも見守っている。その視点を借りさえすればいい。思考からの逸脱は文明からの逸脱かもしれない。哲学や宗教が直観を重視する理由はそこにありそうだ。自然に帰ろう。

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  • from: Infophysさん

    2012年07月03日 07時19分52秒

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    見たい現実から救われたい!?(ちょっとお久しぶりになっただけでした)

    皆、見たい現実しか見ない。

    これはカエサル流の
    エゴの存在によって真実を観る事ができないという人間の大欠陥に対する、さまざまな感情のこもった表現であると僕は観る。

    エゴの存在は自分の世界に対する観方に偏りや歪みをもたらすものであるという認識が仏教的に(普通に)ありうるわけだが、

    これを示す顕著な例として"逆説"を挙げたい。

    (「老子」などによく見られる)逆説的表現が真理・真実として語られ、いちいちはっとさせられるわけだが、ではなぜ逆説からは真実の香りが強く感じられるのか、時々考えることがあった。

    逆説の特徴は、普通こうだと思うのに、現実はそれと逆である、ということを言わんとしているところにある、というか逆説とはそういうものであると捉えられるだろう。

    すなわち、普通こうだと思う、という「思う」とは「我思う、ゆえに我あり」の「思う」である。したがって、エゴ(自我)とはそもそも自分の都合に対する態勢を意味するのであるから、文字通り「思う」にはそのようなバイアスがかかる。

    そもそも思考は世界の一部しか観ることができないのであるからある意味原理的に偏るとも言えるが、問題なことにその観ている内容の解釈自体にまでバイアスがかかってしまうことがほとんどであるということのようだ。

    [デカルトは当時最高の頭脳とみなされていたようだが、もし彼の成果がこの言明または命題に集約されるというなら、下手したら最高の知性どころか最高の痴性とさえ、みなすことが可能になるといえかねない。
    近代がいかに危険な思想に基づいて進行してきたか、この考察から明るみに出される気もする]

    したがって、その結果として逆説的表現についていえることは、エゴのもたらしたバイアスの分だけさかのぼる思考を付け足して行うことで、いわゆる無の境地の次元に立ち返り、トータルとして偏りのない中正な表現に落ち着くことができる、ということだと思われる。
    いわば思考の発生する以前の中立的な状態(中庸といってもよいだろう)に、思考を行いながらも立ち返るテクニックこそ、「逆説」なのだと言ってみたくなるのだ。

    なぜ、真実は逆説的であるかということの僕なりの解釈は、こんな感じである。


    画龍点睛になるが。。。(んなわけはない)
    [カエサル名言集]

    「見た。来た。勝った。」
    戦争勝利の元老院への手紙報告。これだけ。実は語頭はすべて"V"であるそうだ。つまり、韻を踏んでいる。かっこよすぎて失神しそうである。

    「賽は振られた」
    ルビコン河(川といいたくなるくらいわりと幅の狭い河だったようだ)を軍を率いてローマに向かうことは文字通りクーデターを意味し、はっきり言ってそれ以上の罪もないだろう。このとき、彼はかっこつけたことばかり言う代わりに、むしろ自分も命が惜しいという本音を余裕をかまして言ってのけたそうだ。この辺りが女性にもてる所以でもある。結局、逆に執着の少なさを物語っていると思われる。そう、かっこよさとは執着の無さなのだ。最近よくそう思う。まあこの言葉はどこかかっこいいけどね。(すごろくの駒かあんたは。賽は神のものってわけか)

    「仲間内でしか使わないような言葉は船が暗礁に乗り上げるのと同じで避けなければならない」
    文学的名著とされる彼の著作、ガリア戦記などはこの信念の下で書かれたのではないかと思う。一切の気取りが排除され、淡々と、そして、冷徹に事実が述べられている。これも先ほどの考察からわかるように、エゴの排除が徹底された結果であるともみなせる。

    「みな見たい現実しか見ない」
    先ほど述べた内容。

    「ブルータス、お前もか」
    暗殺されたとき、暗殺一味に自分の後継的立場のひとりと考えていた人物が含まれていたことに対する落胆を吐露したものと目されている。
    それにしてもパルティア遠征なんてやめときゃよかったのになと思う。これに対してもうちょっと慎重になって、内政に力を入れようとしていたならば、彼も注意力のバランスを崩さずに済んだし、反逆者をうまく丸め込む余裕もできたかもしれなかったのに・・。しかし、彼の直弟子とも思えるオクタビアヌスは、彼が死んだからこそ、本領を発揮できたのかもしれない、と思ったりもする。やはり歴史というものにイフを言うのはどんな場合においても野暮なのだろうとおもう。

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