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from: 物理屋さん
2009年01月24日 09時41分47秒
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みなさん、お久しぶりです
すみません。ご無沙汰しておりました。
最近は忙しくて、このサイトにはあまり来られませんでした。
しかし、全く更新されていないのにかかわらず、毎日60人弱の方々が訪問してくださっていることに感激いたしまして、復帰に至りました。
さて、今回は哲学という学問について考えていきたいと思います。
まず、信頼度の低いものから早く述べてしまいましょう。
私は個人的に、自然科学に対して哲学は「より大きなものを相手にする」学問であると思います。第一、森羅万象の真理を求めるわけですから、小さくてはいけませんよね。しかし、その中のプロセスは科学と非常によく似ていると思います。
また、倫理学からしてみると、倫理学のように「道徳的・倫理的によいものが真理」という考えにとどまらず、そのように人間について深く考えることの意義も、哲学には含まれているでしょう。
それと同時に、哲学の歴史を眺めると「弁証法的※1(dialectic [英語]Dialektik [ドイツ語]dialectique [フランス語])」のように人生を考えている、むしろ事実そうなっているということが分かります。
※1 一つの物事を対立した二つの規定の統一としてとらえる方法。たとえば、「愛は充足と欠乏の統一である」。同一物が対立した規定をもつことは、諺(ことわざ)や伝承文学に、どんなものにも一面的な見方をしてはいけないという戒めとして語られている。ここから懐疑主義者は、何事にも一義的な規定を与えることができないと考えて、「なにも語れない」という結論を導く。ある人にとって甘いものも他の人には苦い。しかし一つの行為が、一面で善であり、他面で悪となると、行為する者は悲劇に陥る。(中略)ヘーゲルによれば、精神に限らず、発展・成長・変化するものには、「他となりつつ同一を保つ」という「対立の統一」が含まれている。発展・変化の限界点では違うものが同じものである。この限界の矛盾性が、数学においては微分に表現される極限点に成立する。グラフ上接点で示される極限点では、曲線が直線に等しい。微分の弁証法的な解釈には、「点の本質的な規定として隣接点との関係が含まれる」という原理がある。もの一般にこの原理を拡張すると、「あるものの本性には他のものとの異なり等の関係が内在する」となる。これは、「関係は実体と同様に実在する」といっても同じことである。ここからさらに、「内的な本質とは多様な関係の集約である」という規定を導き出すと、問題は内なるものと外なるものとの関係という構造に射映される。(Yahoo!百科事典)
哲学は人間世界における根本的な真理を見いだすことこそ目的ではありますが、実際には今までいくつもの「イズム※2」が湧き出てきては、新たな「イズム」によって否定されるということが繰り返されています。先ほど述べた「考えること自体に意義がある」もこれで少しはご理解いただけるのではないでしょうか。
※2 「主義」は中国の史記にも出現するほど古いことばであり、「信じている一定の主張」を意味した。明治前期に英語「principle」の訳語として定着し、その後英語「-ism」の訳語としても使われるようになった。「Principle」を「主義」と訳したのは福地源一郎(福地桜痴)だとする説もある。(ウィキペディア)
つまり、哲学の探究対象は常に「そのときそのときの時代背景」に大いに影響される、これは【時代が哲学の問いを生み出している】ともいえると思います。
ここまでお付き合いくださっている方々の中には、「哲学とはなんだかモヤモヤしたものを研究する学問だとは何となく分かったけど、そのモヤモヤがね〜...」と哲学の研究対象の具体例を懸命にイメージされているかもしれません。
しかし、私はその「モヤモヤ」こそが哲学の対象であると思います。自然科学のように実験や計算だけでは求まらない、そんな心の中に眠るモヤモヤを、理性によって言語として用いているとはいえないでしょうか。それは決して哲学に限ったことではありません。情報工学の世界では、「プログラム」を言語のように扱っていますし、数学や物理学は数式を言語として扱っていますよね。
言い換えると、「哲学は、現代の現状(時代)を鋭く見つめ、計算などでは表現のできない世界に学問のメスを入れる科学のひとつ」といえます。
竹田青嗣氏(http://www.phenomenology-japan.com/takeda.htm)はご自分の著書の中でこう述べられています。
「哲学の本来の動機はつぎの点にある。自分が世間から受け取った習慣的な考え方でものごとを考えると、どうしても自分が苦しく、行き詰ってしまうことがある。そういう場合にはじめて、人間はこの習慣的な考え方に逆らい、それに抗ってものごとを根本的に考え直そうとする動機を与えられる。まさしく哲学は、そういう場合にわたしたちにとって"役に立つ"。そういうときにこそ哲学は、その"何のためにあるのか"という意味をはっきり私たちに告げるのである。」
『自分を知るための哲学入門』著:竹田青嗣 ちくま学芸文庫
モヤモヤとした扱いにくいものを科学的な処理を施し言語のように扱えるようにする、そうすることで真に我々の人生に役立つものとなるのでしょう。
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