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  • from: 物理屋さん

    2009年02月04日 23時15分01秒

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    映画「禅 ZEN」を鑑賞する

    「禅 ZEN」はもうご覧になりましたか?
    テレビやラジオでも宣伝されているので、ご存じの方も多いと思います。
    曹洞宗を開いた道元禅師の生涯を描いた映画です。仏教一色に染まっているというわけでなく、道元禅師の力強い生き様に胸を打たれることでしょう。今回は「禅 ZEN」がもっと面白くなるように、
    道元について見ていくことにしました。


    映画に登場する、道元からの至高のメッセージ、
    人生を幸せに生きる「8つの人生学」

    八大人覚(はちだいにんがく)

    少欲(しょうよく)
    一、あまり高い目標を追い求めすぎると、破滅する。


    知足(ちそく)
    二、欲をいい張ったらキリがない。限度を知る。


    楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
    三、のどかで美しい景色眺めると、心が澄む。


    勤精進(ごんしょうじん)
    四、やりたいことを一つにしぼり、無駄を省く。


    不忘念(ふもうねん)
    五、心が修まっていれば、人目は気にならない。


    修禅定(しゅぜんじょう)
    六、うまく事が運ばなかったら、一歩退いて見る。


    修智恵(しゅちえ)
    七、前向きの話を聞いていれば、混乱しない。


    不戯論(ふけろん)
    八、無益な口論ほど、社会を乱すものはない。


    道元禅師の言葉

    1、この一日の身命はとうとぶべき身命なり、とうとぶべき形骸なり。『正法眼蔵』 行事
    「解釈」
    今日この1日、このように生きているこの生命は、かけがえの無い尊く厳かな命であり、またとない尊く貴重な体なのである。

    2 、証の得否は、修せむもの、おのづからしむること、用水の人の冷暖をみづからわきまふる。『正法眼蔵』弁道話
    【現代語訳】
    悟りということがありえるかどうかということは、修行していく人が、自然に知ることである。それは喩えてみれば、水を用いる人がその冷たさ、暖かさを肌で感じるようなものです。

    3 、この法は、人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。 『正法眼蔵』弁道話
    【現代語訳】
    本来人間が持っている仏の心というものは、そのままでは現れない。修行して現れるものであり、悟りを開いて得ることが出来る。

    4 、人が真実の眼を見開くのは、ちょうど水に月が写って一体ななるようなものです。それによって月が濡れるのでもなく、また写した水がそのために破れるということはない。あまねく照らす広大な月の光(真理)であるために、多少の水にもあまねくその影を宿し、草の葉末の一滴の露にすらも、月の全体、天空の全体を映し宿して一体になるのです。
    同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり、たとえば人間の如来は人間に同ぜるが如し、侘をして自に同ぜしめて後に自をして侘に同ぜしむ道理あるべし、自侘は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり。この故によく水集まりて海となるなり。おおよそ菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒じにすることなかれ、済度摂受に一切衆生皆化お被ぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。
    【現代語訳】
    自分と他人の区別をしないことというのは、ひとくちでいえば、違わないということで
    ある。つまり、自分にも違わない、相手にも違わない、自他の区別をしないということな
    のである。たとえば、人間界にあって、釈尊が人間と同じ形をしておられるようなもので
    ある。相手を自分と同じようにさせて、その後、自分を相手と同じようにするという場合
    がある。自分と相手の関わりは、時と場合によって、限りなく様々な形がある。海があら
    ゆる河の水を全て拒まないで受け入れるのは、自分と他人を区別しないということである。
    だから、よく水が集まって、海になるのである。
    およそ、仏道お求める心とそれによる行いと願いは、このような道理があることを、静
    かに考えてみなければならない。軽はずみにしてはいけない。生きとし生けるものを残ら
    ず救う、この功徳を礼拝し、うやまい敬わなければならない。


    基本知識 Wikipedia参考(一部変更・補足)

    道元
    道元は、鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称を
    用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元
    禅師と呼ばれる。
    徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるとい
    う修証一等、只管打坐の禅を伝えた。主著正法眼蔵はハイデッガーなど西欧の現代哲学者
    からも注目を集めた。

    生い立ち
    ・道元の出生には不明の点が多いが、内大臣土御門通親(源通親あるいは久我通親)の嫡流に生まれたとする点では諸説が一致している。定説では京都木幡の松殿山荘で通親と太政大臣松殿基房(藤原基房)の娘伊子の子として生まれたとされているが、近年の研究では定説では養父とされている堀川通具の実子とする説が有力になりつつある。また、通親の子、通宗または通光を父親とする説もある。伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じていた道元が断ったとも言われている。
    ・浄土真宗の開祖親鸞とは、互いに母方の縁戚にあたり面識があったとする説があるが確証はない。著作『正法眼蔵』の「生死」の巻は、親鸞に向けて書かれたものであるとする説がある。

    思想
    ・成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。
    ・鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、正法眼蔵随聞記には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎない、と末法を否定した。
    また、道元は密教の先駆者であるとも言われている。

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