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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月01日 19時59分11秒

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    学知の移行期

     僕は「正しさ」へのとらわれから解放されつつあるのではないかという感覚がある。


    もちろん何も僕は人倫の道を安易に踏み外していいなどとは思っていない。

    むしろ逆に老子的な概念、道(タオ)に生きることができればいいのではないかと思っている。簡単じゃないけど。

    道はあるがまま、自然のままであること(自ずから然かること)、自然の原理などの意味があるけが、本当は、その意味ははっきりとは限定しえないものだ。

     しかし、大まかな意味は上に述べたことでいい。そして道は中庸、中正、中道と言い換えることができるらしい。これは結局仏教と似ている。大乗仏教徒の大理論家ナーガールジュナは「非有非無の中道」を唱えていた。これは物質的な見える世界でもなく心の世界つまり無の世界でもない、その中庸的な世界こそニルヴァーナ、つまり悟りの境地であると言った。これは結局、道教でいう気の世界を言うのではないかと思う。なぜなら気は物質的でもあり、精神的でもある、中庸的な存在だからだ。

     気は自ずから秩序を形成し生命を成り立たせる存在。言わば我々生命にとって本質的であり、互いをつなぐ存在だ。
    (気功は自ずから然かるための訓練のようなものだ)
    仏陀の話によると、どうもこれを体感・実感することは「悟り」にとって必要不可欠なことだったようだ。彼が気を知っていたかどうかはわからないが、苦行をやめたあと、王子時代に儀式時にやったことのある行で心の底から喜びが沸いて来るものがあったことを思い出し、それをやり始めてから悟りへと大きく近づいたそうだ。

    東洋では真理は自我、つまり思考を超えたところにあるとされるわけだから、実際にこの域に達するのは難しいだろう。

    そうだとしても…僕たちはデカルト的な近代的自我中心主義を抜け出さなければ次の時代を生きることはできないらしい。環境問題、異文化間問題など近代的な問題の根元でもあるこの主義から抜け出す思想。それが求められている。

    そこで、以前、京大で会ったおもしろい先生が言うには、これからは東洋の世紀になる、のだそうだ。実際、今までの議論から自我中心主義のまともな否定型は端的に言って東洋思想だと思える。

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