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  • from: Ryonukisさん

    2010年09月01日 20時00分05秒

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    学知の移行期2

     しかし、自我は心理学的に見て自然からの人間の自立に必要なものだった。(母親からの男子の自立、とも比較されることがある)
    脳の機能でいえば大脳とくに前頭葉だ(自己顕示欲や思考、情操、推理、計画、…)。
    つまり文明を生み出したのは、この自我…大脳(前頭葉)だといってもいい。これを完全否定することは人類文明の自滅を意味しかねない。

    だから単純な否定もできない。
    ところが本当は東洋思想(老子や仏教、そして気の思想など。孔子はやや文明よりかもしれない)は自我を完全否定しているのではなく、やはり偏りのない中道を目指している(例えば仏教は小欲知足)。だから、思想は再びこちらにやや重心移動すればいいはずだ(西洋文明にたいして中庸的に)。

    問題は、どう重心移動するかだが…。自我が自我自身を強く否定するのは、結局、自我的な行為であるから元もこもない。つまり自身が強く否定しようとする分、自身の働きが強くなる。自身で自身の勢いをそごうとするなら「自身が主体的にゆるやかに鎮まる」方法しかない。しかしこの自我に対する条件を、自我自身を主体に置いて論理的思考を用いて表現すると(=自我中心的に表現すると)、「自我(私)は明在系において自身の考え・意見を否定したり肯定したりしない」ということによって鎮まる。つまり「近代的な自我がその内部において自分を間違ってると判断したり正しいと判断したりしない」という解釈になると僕は思った(自明ではないが)。それによってこそ自我中心主義から巧妙に抜け出し得ると。ただしこれは、「自分の内部で自分の意見の正誤は判断できない」という、ゲーデルの不完全性定理における論理パラドックスと似た『事態』に「はまる」と言いたいわけではないことに少し注意が要る(あくまで「判断しない」という考えであって「判断できない」という主張ではない)。ゲーデルのアイディアを詳説するのは僕には手に余るが、例えば単
    純な例で、「私は嘘つきです」という命題が論理構造上、解釈不能におちいるというものだ(この命題自身が先程の『事態』における「自分の意見」に対応する)。ゲーデルのその帰結は厳密に論理構造的に無矛盾な閉じた(数学)理論系は実際には存在しえない、ということだった。

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