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from: Ryonukisさん
2010年10月22日 02時33分31秒
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無とはなにか①
これは中道を意味する。
プラスでもマイナスでもない、
0、絶対値がゼロの精神。
それが無だ。
大乗仏教は非有非無の中道をゆくのだが、ここで言う有と無は実際にはプラスとマイナスを意味し、この中道こそが真の無というべきだろう。つまりどちらを求めるのでもない、それが本当の意味での真理への道なのだろう。
僕らはプラスばかりを求めてしまう。言わば粒子と反粒子でいえば粒子ばかり求めるのだ。しかし、反粒子を求めることも結局は有を、つまりマイナスを求めることも有を求めることと変わらない。なぜなら反粒子だって質量を持つのだから。比喩にすぎないが質量がないものを求めること、すなわち、本当になにも求めないこと、これが中道を意味する。
勝負ごとにおいて、真に強い相手は勝ち負けにこだわらず、とらわれず、精神が勝ちにも負けにも偏らぬ相手だろう。つまり戦いを楽しむ者だ。こんな相手は動きがよめない。こちらは勝とうとあれこれ考えるから策に偏り、傾向がでる。仮に他のスペックが同じだとしても相手からこちらの動きはわかりやすい。相手の動きはわかりにくい。相手のほうがレベルが高い、とは、主にこの偏りのなさを意味する。リアルファイトなら、生死を問わず戦いを挑む相手がもっとも恐ろしいだろう。
キリストが言った、頬を殴られたら、もう片方の頬も相手に差し向けなさい、といったというが、これは本当は相手に攻撃する気持ちと同じくらい、攻撃されようとする気持ちを持ちなさい、とも取れる。それが真の強さであると。
仏教では執着がどうのこうのというが、これは自分の奥深くにひそむ、ある対象が思い通りになると信じ込んでいる気持ちのあらわれともいえる。
しかし、実際には思い通りになる可能性があるのは、自分に縁ある事物に関することのみだ。思い通りになったというのはあくまで縁があったからだと考えるのが、縁の存在を認めた場合の考え方として自然だ。
逆に我々が全ての欲望から解放された場合、全ての縁から自分は脱出できる。これが解脱なのではないか?
仏教的に縁の理法は生命の原理だ。この、縁の脱出または消滅を知ったとき、自分は既に全ての縁、つまり輪廻からも解放されてしまうのではないか?-
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