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  • from: Ryonukisさん

    2010年10月22日 02時35分24秒

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    無とはなにか②


     事実上ままならない現実からの逃避を仏教は意味するだろうか。いや、そうではなく、その「現実」にたいして逃避もしないし、戦いもしない、そのなかに何かを求めるのでもなく意図して求めないのでもなく、それを捨て去ろうとするのでもない。本当になにもしようとしないのだ。なぜならなにも思い通りにならないことを知っているからだ。特にトータルの意味で…。
     たしかに諸科学を見ればわかるように「部分」は「分かり」、相当に思い通りになる。しかし、極小の世界や「全体」は「分からない」し思い通りならない(言葉の意味からも判る話だが…)。
     ハイゼンベルグの不確定性原理(量子論)しかり、ゲーデルの不完全性定理(数学)しかり、複雑系科学しかりだ。

     ウロボヌスの輪だったかな、知ってる?蛇が自分の尾をかんでる図だ。物理学では素粒子の世界(ミクロ)と大宇宙の世界(マクロ)が理論的に密接な関係にあることを示すときに使われる。つまり、極小と極大はつながりがある可能性が高い。
     宇宙の始まりは不確定性原理が適用されるレベルよりもさらにミクロなオーダー(大きさの桁数)の話になるんだ。このあたりのことについて、はっきりしたことを言うのは難しい。物理なのか数学なのか、そして科学なのかわからないような研究が進められているようだ。しかし僕はこういう研究にちっとも否定的ではない。こんなのはやってみなければ、やり続けなければわからない話だからだ。言わば壮大な「実験」だ。精神が限界を乗り越えるかどうかの。言葉(=ロゴス)がその能力を超えるためには非論理的な「思考」(思考と言えるかどうかわからないような思考。無意識レベルといってもいい)さえも用いる必要がある。いや、非論理的言明さえもある意味「論理的」と見なさなければならない。 そう、いわゆる論理にこだわってはならない時代がやってくるはずだ。

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