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from: Ryonukuさん
2011年08月29日 21時44分46秒
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正しさとは
何かの言明を正しいと言ったとき、そうでない内容の言明は正しくないことになる、という考えは正しいでしょうか。
ぼくがこれから述べる論も正しいと思って述べるわけですが、
結局それに反する考えは正しくないのでしょうか。
この事柄に対する答えは言葉で答えることは可能なのでしょうか。
カントの三批判の著作(純粋理性批判を含む3つ)のどこかにありましたが、相反する命題に対し、それぞれに、「正しい」証明が述べられている部分がありました。
西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一命題、すなわち、
「Aは非Aであり、それによってAである」
によって導かれる結論も似た感じになりそうです。
つまり、何事も、正しいと断定できない。
そして、その事自体も断定できない
(断定できないということも断定できない、ということも...[無限ループ])。
なんだか子供たちの言葉遊びみたいですね(^o^;)
僕がこの事から感じて思ったことは、
考え、というものは、すべてベクトルを持つものである
(もちろん、持たない場合もある。
つまり、反対方向のベクトルであったり、
ゼロベクトルであるかもしれない)。
しかし、ゼロベクトルの言葉というのはたぶん無いんじゃないかと思うんです。つまり、無、とか絶対無、とかいうけど、その言葉に自分が付随させているイメージや考えなどの体系がぼんやりと思い浮かんでしまう。これがベクトルになってしまう。無の概念に対する正確な把握があればベクトルを持たなくなる可能性はあります。しかし、原点さえないのが無かもしれないのです。実際僕はそうだと思います。原点がないというより、それが定まらないのが無であるのか。それはわかりませんが。
ぼくは、この考えの持つベクトルの方向性に対して自由になることが(その方向性にとらわれないでいることが)悟りであるのだろうとおもいました。
ここで、自由でなければ悟りでないと言うのか、といえばこれは、
自由でない状態を選択できる自由が必要、という、結論になるかもしれません。つまり、思考を出発させる原点も定まらず、考えの持つベクトルにもとらわれない、またはわざととらわれることもできるような自由、そういう大いなる自由。プラスにもマイナスにも自由、あらゆる方向軸にたいして。
この状態に達することが目標であるなら、やはり、考え、思考というものをやめなければならないでしょう。-
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