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  • from: Infophysさん

    2011年11月23日 11時01分49秒

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    シンボル、明るさ、カオス、脳、中庸、智慧、徳、聖人

    もし、人間の能力が、カッシーラーの言うようなシンボリック・システムを起源とするようなものであると考えた場合、様々な人間の精神活動はそれらの組み合わせによって生じているということになろう。

    脳で行われるような精神活動のすべてはある種の問題解決的情報処理であると見てよいだろう。

    常に人間の脳は外界や内界からの情報をキャッチしており、その情報処理に常に追われているような状況の様に思う。

    この情報処理において最も活躍するツールとも言えるものが、言語であると言えそうだ。
    意識的にせよ、無意識的にせよである。

    問題が生じているとき(いつもなのだが)、脳ではある種のカオスが生じているであろう。
    では解決とは何を意味するか。単純にそのカオスを消去しうるコスモス(秩序)を見つけることなのである。
    その、脳に起きているカオスの範囲がうまく、違和感の無いコスモスに転換されればその問題は解決されるのである。それは実際には言語的な思考によるものだけでなく、直接的な行動を取る際に起きる脳における変化がカオスをコスモスに転換しうるなら、それが解決なのである。

    問題はなぜ、脳内のカオスが解消されることが外界において生じている問題の解決となるのか。実は感覚器の異常や入力された情報の解釈に誤りがあると、その結果として問題の生起としての脳内のカオスが解消されても、外界の解決には至っていないということが起きるので、物事の現実を直視する力や正しい解釈を可能とする経験と知識、他の能力一般が欠けていれば、その外界に生じた問題の解決にはそれぞれの個体が限界を持つことになる。それがライプニッツの言う「明るさ」という概念の典型的な意味であると(特に人間について言えばだが)、つまり、本来的に知というものは、このような類いのものである。そして、シンボリック・システムの豊かさ(シンボルの種類の豊富さ)
    を明るさのより詳細で原理的な、分析的、elementary な表現と捉えることも可能であると思われる。

    つまり、中庸的に(時と場合に応じた適切・適度な、つまり、節制の効いた行動や判断を行うこと)物事を行うためには、今のべたような、プロセスを取る必要がある。問題が生じたときの外的刺激によって脳に生じるカオスの形状や範囲その他の性質に対して合致した(それをコスモスに転換させるための)脳の活動がなされることが望まれており、それができたときは、その人の能力に応じた程度における中庸的な解決がなされるし、合致した脳活動が不十分だったり、過剰がある場合、問題は中途な解決に終わったり、行き過ぎたことをやったりすることになるのではないかと思うのである。
    逆に、この常に生ずる問題の解決がその時その時解決可能であるような人間がいたとしたら、それは、脳にカオスがほとんど存在し得ていないような、滞り(カオス)がほとんどないか少ない存在、すなわち、神に近い人間、聖人であると考えられる。中庸が常に守れる知、それを智慧と呼ぶのであり、そのような智慧を持っている状態にある人を「徳」のある人物と言ったりするわけである。

    もっとも、正確には、身体全体の気の流れが正常でなければいけないが、人間においてもっとも気が滞りやすいのが、頭脳なのであろうと思う。それだけ、人間はアホ(頭がよくないの意味で)だというより、ただでさえ内部情報が不安定になりそうな大きさにまで発達した脳が不必要に複雑なことを考えられてしまう結果、解決できない問題を自ら生産し、自重(自分で産み出した悩みの多さのため)に耐えきれなくなると言う、むしろ、賢くない生き方、をしてしまっているというのが現状であろうと思う。悩み(カオス)をつつきすぎて自ら病んでしまうと言うドンクサさも人間特有である。

    つまり、情報の統御が正常で余裕のある範囲で生活するならばなにも厄介なことは起きないはずが、外界にある様々なものを含めた情報への好奇心や欲望、野心、のようなものに、自らの脳が振り回されるような生き方をしてしまっているのである。だから、人間のかかえる本質的な問題は、そもそも情報的な問題なのである。

    人間が情報処理が得意だ、つまり、頭がいいなどという認識(ほとんど妄念だと思うが)はなるべく早くやめた方がいいのである。
    そもそも、その変な驕りこそが様々な欲を自分に対して許してしまい、問題を複雑化させる根本的な問題なのかもしれないのだ。

    人間は情報処理の負担を負わなくて済むように。そしてなるべく情報処理を行わなくて済む方向に歩みをすすめることが、日常的にでさえ、重要なことであり、賢い生き方のはずなのである。
    だからこそ、スマートな生き方はその語の意味通り賢いのであり、単純化された、否、洗練された生き方をするものはかっこよく、美しく、そして、生命力に満ちているのである。
    人間の英知といった場合は、まさにその事を指し示すのである。

    人間は弱いといわれる。それは体力的な面はいうに及ばず、精神力はさらに弱いかもしれない。気も大概に弱い。
    要するに情報処理に余裕がないのである。シンプルな生き方をすればまだしもそれに余裕はできる。

    しかし厄介なことに、人間はやたらに「有」を求めてしまう。「無」や「虚」、「負」は求めたりしない。
    実は等価値を持つかもしれないはずなのに。
    冷静に考えればわかるように、なにか、「有」を求める(欲する)ということは、それだけ、必要な情報処理が増えるのである。他の事象についての情報統御がろくに済み終わらないうちに、他を欲するなどということが続けば、どこからか、何らかの負担をきたすことは明らかである。
    人間はある意味呪われている。
    大きすぎる脳は何らかの原理的な欠陥を含んでいるはずである。

    さきほど、情報処理に余裕がないと言ったが、この意味では誤りである。
    つまり、本当は他の動物に比べ余裕があるのだ。
    ただ、この余裕というか、過剰というか、その能力をめいいっぱい用いて、
    余計な事象(モノやコト)を欲することに、うつつを抜かしてしまうと、
    あとから、様々な災厄に見舞われる羽目になりかねないのである。

    自分の脳が正常な情報処理範囲に落ち着いているかどうかは
    心のバランス、もしくは脳の状態の全体的な秩序のなかのカオスの割合で
    判断がつくのではないかと思っている。

    全くカオスを消去することにはたとえお釈迦様であっても成功していなかったはずである(実際彼でさえも逃げていらした点があったと聞き及んでいる)。
    つまり、欲を完全に排除することは誰もできない。
    なぜなら、そのカオス的な脳の現象を完全に止めてしまえば、カオスとコスモス、つまり、異なる秩序間で生まれるはずの創造(creation)という、生命体(creature)にとってその本質上、必然的に要する現象が生じなくなるからである。

    少欲知足(欲を少なくし、足るを知れ)と言われるのはそのためと言えよう。
    欲は完全に消してはならない。というよりまず無理。死にてーか、あんた、原理的にヨー!である。食欲無くなって死ぬとか言う以前の問題である。生産的な活動が一切停止すれば、即死であろう(笑)
    つまり、欲を完全に消そうと言うこと自体、欲、つまり行きすぎであり、煩悩すなわち妄念、実現し得ぬことなのである。

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