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  • from: Infophysさん

    2012年05月14日 06時17分49秒

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    価値観の押し付け、という言い方

    僕はどうも解せない。
    自分の価値観を押し付けていると言われることがあった。
    ぼくにとっては実に当たり前の、社会的動物であるはずの人間は挨拶すべきだ、して当然だ、という考え方。


    価値観の押し付けをするのは良くない、という価値観を
    一方的に押し付けられている気がするのは僕だけだろうか。

    かれらは単に古い価値観を受け入れたくない、認めることによって、自分の自由を狭めたくない、だから、否定したい、というだけではないのか。

    謙虚に人類の伝えてきたものの意義を理解しようという気がないことがうかがえる。
    とかく慣習や儀礼的なことは軽視され過ぎな傾向を感じるが、
    本当にいいのだろうか。

    そういう彼らこそ自分の価値観を強く主張していると言える。
    自分の自由を守るために、他者の自由も保証しようとすることは、一見筋は通っているが、その姿勢は結局、自我中心主義から脱してはいない。

    なぜなら、本質は、自分が相手を尊重するから自分が尊重されるという結果論なのであって、それを目的化する姿勢は必ずしも正しいとは言えない。なぜなら、相手が尊重されたいことは、自分と同じであったり、理解できているとは限らないからだ。自由なら押し付けにならないのか。よく考えてみよう。
    自由とはなにか。それ自体あいまいではないか。
    それほど正確に共有していないではないか。
    それにそれは絶対的な価値を持つと言い切れるのか。
    それより大事なものがないと言い切れるのか。

    ぼくは「自由」だって「押し付け」が可能である、つまり
    押し付けでありうると思う。
    自分の望まない自由を与えられて、よかったと思えるかは疑問だ。挨拶をしない自由。それは僕にとって真の意味での自由ではない。
    行きすぎた自由であり、不快ですらある。これが価値観の押し付けといいたくならない方が不思議だ。
    自由からの逃走、そんな言葉があった。
    人間はそんなに自由ばかりがいいとは限らない。
    僕的には、真の自由とは、自由という観念にさえとらわれない東洋的な自由のことだ。
    エゴの限定のない肯定。
    (自己肯定と自我肯定では180°意味が違う)
    それを自由とか解放だとかいっても近代の繰り返しである。
    帝国主義と同根である。
    自由を強く主張する人々が本当の解放を知っているとは、
    ぼくは思わない。

    人間にとっての自然な姿。それは気の観点から言えば、単純で、気の流れに淀みや歪みが無いことだと言えよう。
    しかし、一般的な言葉でそれを言い表そうと試みてもなかなかうまくいかない。

    道徳の徳の字の意味は、異文である悳にはっきり現れている。
    直き心。つまり、気持ちがまっすぐであること。
    気の流れが淀まないことなのだ。

    真に自由で解放された精神は、すなわちそのまま、道徳的精神なのだ。
    余計な考え、よこしまな心にとらわれていなければ気の流れが安定し、それは実現される。

    しかしみんながそうなるには、今の、人口対地球の広さの比、では無理かも知れない。

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