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  • from: Infophysさん

    2012年08月03日 01時56分54秒

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    徳・中庸。生命としての存在・世界。部分と全体。

    全体をバランスよく部分に反映させることが、中庸という「ほどよさ」の実現にとって不可欠なのではないだろうか。たとえば、昔習っていた楽器を人生に生かしていないこと。これは中庸(ほどよさ、健全性)の実現を阻んでいる可能性がある。

    生命たるもの。いや存在たるもの。程度の差こそあれ、世界全体の性質を反映している。僕らの精神にはあの世さえも反映されているではないか(!?笑)ある領域と他の領域が無関係であることはおよそありえない。

    その意味で、ある自分の行動に自分のもつすべてを生かそうとすることは、むしろ文字通り自然なのではないか?他に自分というものがまとまりを得る方法なんて考えづらいではないか。脳と心の仕組みはそうできている(カオス・フラクタル構造)。

    そして、人類のすべてが少なからず自分に生かされており、自分は人類のすべてにたとえわずかでも貢献可能になっている。それが自我・自己・コンプレックスという精神構造のおかげであり、縁あっての自分の能力となる。「おかげさまで」。日本の生活文化の宗教との一体性を強く感じさせる言葉である。

    日本人ほど、人類の歴史文化の多くを反映している民族も珍しいのではないだろうか。
    サブカルチャーなどはまさしくそれによる産物であり、かわいい、という普遍的に愛される存在形式が
    浮き彫りにされ、世界を席巻するようになったというのもそれを象徴する事件だと思ったりする。

    日本は新しい人類の生き方を先鋭的に表現していると思う。
    そもそも各々の国や民族が人類のそれまでの全文化(旧石器時代なども含め)をどのようにであるかはともかく反映していることに気付くことが、その組み合わせ的融合による創造性を絶えず発揮することで、多様で安定な世界を創造するうえで重要な認識になると思ったりする。

    ライプニッツのモナドロジーは工学的なシステムとしての応用よりも、認識論的な観点において強力に人類をバックアップしてくれるという気がしている。

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