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from: Ryonukisさん
2010年07月04日 05時42分32秒
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教育と謙虚さ、そして来るべき思想
結局、人・本・PCなどからの情報は自分が思考する(形而上の世界を知る)ための補助と考えるのが良策であるとつい思ってしまう。特にものごころついてしまった
結局、人・本・PCなどからの情報は自分が思考する(形而上の世界を知る)ための補助と考えるのが良策であるとつい思ってしまう。特にものごころついてしまった後については。
教育とは、人をより良い生き方へと向かわせるために、考え方の改善を促す行為と言えるかもしれない。
最終的には自立的(自律的)に考え、行動できなければならないことから、常識的には思考の穏便な改善が教育の良い在り方なのではないかと思う。(たいてい人を変えようとすると反発が返ってくる。自発的にはある程度変わり得るのに。もっとも、人と人とは接するだけでも影響を受けるのだが…。「改善」という「人為」にも検討が要る)
最終的に、社会との関わり方を含め、自分に相応しい生き方を構築していくことができるようになることが個々人の目標だと思う。
ただし、自己実現を絶対視するようになると、これも事実上、自己中になってしまいよくない。
先程かかげた教育の定義を思い出すと教育とはある程度自分に対しても行えるようだ。自分の思考を辿ることができれば改善の余地はあるのだから。
しかし、人からの意見を受け入れなくなるという危惧はある。それは、謙虚さがなければ成長もなく、滅びさえまっているかもしれないことをよく認識することで防ぐ以外に本人には方法がないかもしれない。
以上はどちらかというと西欧的な考え方かもしれない。どこか自我中心的。
なぜ平家物語に諸行無常と平家の没落は同時に語られるのか。時々刻々と変化する世の中に対応するには様々なものに謙虚な姿勢が必要であるということを無名の作者は言いたかったのかもしれない。
惻隠(あわれみ)の心と同時に謙虚さを失いかけている現代人は存続の危機にあると言えるかもしれない(情緒は人にとって本質的であるという説がある)。結局、思考よりも情緒を育てることで人に「道」を踏み外させないようにすれば、世の中がもっと落ち着くのではないか?(昔の中国思想に戻るようだが)
しかしそのように正反対に方向転換するには、自我中心主義に起因する痛みや恐怖という経験を単なる客体としての「環境」からの逆襲とは捉えずに、人類の在り方を根本的に省み、「『環境』との『一体感』ある調和」を基調とした思想を具体化する必要があるのかもしれない(完全を目指すなら皆が仏になるしかなくなってしまうかもだが)。-
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