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from: Infophysさん
2011年11月27日 20時46分27秒
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大きくて伸縮自在なキメの細いネット
人の心がどうあるべきか。それに対する答えがこれ。器の大きい有能な人の心はきっとこう。シンボリック・システムもこうあらねば。
人の心がどうあるべきか。それに対する答えがこれ。
器の大きい有能な人の心はきっとこう。
シンボリック・システムもこうあらねば。-
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from: Infophysさん
2011年11月27日 15時52分11秒
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男女の間を紡ぐもの
努力だけでどうにかなる問題ではない。それは明らかですね。おもうに、互いのカオスが互いの接し方のなかで、多くの解決をみるとき、男女はその性差を乗り越えて
努力だけでどうにかなる問題ではない。
それは明らかですね。
おもうに、互いのカオスが互いの接し方のなかで、多くの解決をみるとき、
男女はその性差を乗り越えて仲良くいられるようになるのかもしれない、
と思いました。
そのカオスとは多くの場合、劣等感コンプレックスなのだと思います。
たぶん、一方的に相手のコンプレックスを解決できたとしても、
自分のコンプレックスなどの問題が解決されないとき、本当に自分を相手に任せることはできないでしょう。
相手のコスモスと自分のカオス、相手のカオスと自分のコスモスが上手くかみあうとき、
相思相愛になれるのだと思います。
友達になれるかどうかも似たような感じがしますね。
性差を乗り越えるほど、その要素は必要としないでしょうけど。-
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from: Infophysさん
2011年11月27日 09時05分06秒
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仏教+情報理論
「自分にとって、情報的に偏りがなくなるように心掛けることが事が、自己実現・自己認知への道」今日見いだした法則のようなものです。本を読んだり、テレビを観
「自分にとって、情報的に偏りがなくなるように
心掛けることが事が、自己実現・自己認知への道」
今日見いだした法則のようなものです。
本を読んだり、テレビを観たり、何か書いたり、先生の話を聞いたり、姿勢を正したり。
とにかく、世の中のすべての存在は情報を持ち、多くの場合、情報を発したり、受け取ったりしてます。
仏教的な、こだわらない、かたよらない、とらわれない、
中庸的で徳のある生き方を、現代において実践するためには、
情報に対する姿勢・接し方が重要になると思います。
自分の感覚的な問題なのですが、
心や体の持つ情報が偏った状態から、
偏っていない状態に移るとき、
気分が良くなるはずです。
気の流れが是正されるためでしょう。
ですから、健康とか成功とか悟りなどを志向する人は
心身の(情報的な)偏りがなくなるような「情報」を得る事や発すること、処理すること、是正することが大事になりそうです。特に感覚的にですが。
したがって、本来のその人らしさが自分でわかったりすることや、ものごとにどう対処すべきかについては、自分の持つ情報の本来のあり方からのズレを感覚的に気にすることが、重要な手段となるはずです。
要はバランス感覚が大事だということですね。-
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from: Infophysさん
2011年11月19日 17時06分19秒
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スマートな生き方
自分の「かん」=【感・観・勘】を信じられるようにするための情報、具体例、経験、知識、などの十分条件なのだろうか。スマートな生き方の追求にはこれらが不可
自分の
「かん」=【感・観・勘】
を信じられるようにするための
情報、具体例、経験、知識、などの十分条件
なのだろうか。
スマートな生き方の追求にはこれらが不可欠のようだ。
ようは自分自身なんですね。-
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from: Infophysさん
2011年11月20日 13時33分47秒
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「Re:Re:Re:スマートな生き方」不器用や器用の問題について言えば、僕ほど不器用な生き方しかできない人間も珍しく思います。この器用な生き方とか不器
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from: Infophysさん
2011年11月23日 11時01分49秒
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シンボル、明るさ、カオス、脳、中庸、智慧、徳、聖人
もし、人間の能力が、カッシーラーの言うようなシンボリック・システムを起源とするようなものであると考えた場合、様々な人間の精神活動はそれらの組み合わせに
もし、人間の能力が、カッシーラーの言うようなシンボリック・システムを起源とするようなものであると考えた場合、様々な人間の精神活動はそれらの組み合わせによって生じているということになろう。
脳で行われるような精神活動のすべてはある種の問題解決的情報処理であると見てよいだろう。
常に人間の脳は外界や内界からの情報をキャッチしており、その情報処理に常に追われているような状況の様に思う。
この情報処理において最も活躍するツールとも言えるものが、言語であると言えそうだ。
意識的にせよ、無意識的にせよである。
問題が生じているとき(いつもなのだが)、脳ではある種のカオスが生じているであろう。
では解決とは何を意味するか。単純にそのカオスを消去しうるコスモス(秩序)を見つけることなのである。
その、脳に起きているカオスの範囲がうまく、違和感の無いコスモスに転換されればその問題は解決されるのである。それは実際には言語的な思考によるものだけでなく、直接的な行動を取る際に起きる脳における変化がカオスをコスモスに転換しうるなら、それが解決なのである。
問題はなぜ、脳内のカオスが解消されることが外界において生じている問題の解決となるのか。実は感覚器の異常や入力された情報の解釈に誤りがあると、その結果として問題の生起としての脳内のカオスが解消されても、外界の解決には至っていないということが起きるので、物事の現実を直視する力や正しい解釈を可能とする経験と知識、他の能力一般が欠けていれば、その外界に生じた問題の解決にはそれぞれの個体が限界を持つことになる。それがライプニッツの言う「明るさ」という概念の典型的な意味であると(特に人間について言えばだが)、つまり、本来的に知というものは、このような類いのものである。そして、シンボリック・システムの豊かさ(シンボルの種類の豊富さ)
を明るさのより詳細で原理的な、分析的、elementary な表現と捉えることも可能であると思われる。
つまり、中庸的に(時と場合に応じた適切・適度な、つまり、節制の効いた行動や判断を行うこと)物事を行うためには、今のべたような、プロセスを取る必要がある。問題が生じたときの外的刺激によって脳に生じるカオスの形状や範囲その他の性質に対して合致した(それをコスモスに転換させるための)脳の活動がなされることが望まれており、それができたときは、その人の能力に応じた程度における中庸的な解決がなされるし、合致した脳活動が不十分だったり、過剰がある場合、問題は中途な解決に終わったり、行き過ぎたことをやったりすることになるのではないかと思うのである。
逆に、この常に生ずる問題の解決がその時その時解決可能であるような人間がいたとしたら、それは、脳にカオスがほとんど存在し得ていないような、滞り(カオス)がほとんどないか少ない存在、すなわち、神に近い人間、聖人であると考えられる。中庸が常に守れる知、それを智慧と呼ぶのであり、そのような智慧を持っている状態にある人を「徳」のある人物と言ったりするわけである。
もっとも、正確には、身体全体の気の流れが正常でなければいけないが、人間においてもっとも気が滞りやすいのが、頭脳なのであろうと思う。それだけ、人間はアホ(頭がよくないの意味で)だというより、ただでさえ内部情報が不安定になりそうな大きさにまで発達した脳が不必要に複雑なことを考えられてしまう結果、解決できない問題を自ら生産し、自重(自分で産み出した悩みの多さのため)に耐えきれなくなると言う、むしろ、賢くない生き方、をしてしまっているというのが現状であろうと思う。悩み(カオス)をつつきすぎて自ら病んでしまうと言うドンクサさも人間特有である。
つまり、情報の統御が正常で余裕のある範囲で生活するならばなにも厄介なことは起きないはずが、外界にある様々なものを含めた情報への好奇心や欲望、野心、のようなものに、自らの脳が振り回されるような生き方をしてしまっているのである。だから、人間のかかえる本質的な問題は、そもそも情報的な問題なのである。
人間が情報処理が得意だ、つまり、頭がいいなどという認識(ほとんど妄念だと思うが)はなるべく早くやめた方がいいのである。
そもそも、その変な驕りこそが様々な欲を自分に対して許してしまい、問題を複雑化させる根本的な問題なのかもしれないのだ。
人間は情報処理の負担を負わなくて済むように。そしてなるべく情報処理を行わなくて済む方向に歩みをすすめることが、日常的にでさえ、重要なことであり、賢い生き方のはずなのである。
だからこそ、スマートな生き方はその語の意味通り賢いのであり、単純化された、否、洗練された生き方をするものはかっこよく、美しく、そして、生命力に満ちているのである。
人間の英知といった場合は、まさにその事を指し示すのである。
人間は弱いといわれる。それは体力的な面はいうに及ばず、精神力はさらに弱いかもしれない。気も大概に弱い。
要するに情報処理に余裕がないのである。シンプルな生き方をすればまだしもそれに余裕はできる。
しかし厄介なことに、人間はやたらに「有」を求めてしまう。「無」や「虚」、「負」は求めたりしない。
実は等価値を持つかもしれないはずなのに。
冷静に考えればわかるように、なにか、「有」を求める(欲する)ということは、それだけ、必要な情報処理が増えるのである。他の事象についての情報統御がろくに済み終わらないうちに、他を欲するなどということが続けば、どこからか、何らかの負担をきたすことは明らかである。
人間はある意味呪われている。
大きすぎる脳は何らかの原理的な欠陥を含んでいるはずである。
さきほど、情報処理に余裕がないと言ったが、この意味では誤りである。
つまり、本当は他の動物に比べ余裕があるのだ。
ただ、この余裕というか、過剰というか、その能力をめいいっぱい用いて、
余計な事象(モノやコト)を欲することに、うつつを抜かしてしまうと、
あとから、様々な災厄に見舞われる羽目になりかねないのである。
自分の脳が正常な情報処理範囲に落ち着いているかどうかは
心のバランス、もしくは脳の状態の全体的な秩序のなかのカオスの割合で
判断がつくのではないかと思っている。
全くカオスを消去することにはたとえお釈迦様であっても成功していなかったはずである(実際彼でさえも逃げていらした点があったと聞き及んでいる)。
つまり、欲を完全に排除することは誰もできない。
なぜなら、そのカオス的な脳の現象を完全に止めてしまえば、カオスとコスモス、つまり、異なる秩序間で生まれるはずの創造(creation)という、生命体(creature)にとってその本質上、必然的に要する現象が生じなくなるからである。
少欲知足(欲を少なくし、足るを知れ)と言われるのはそのためと言えよう。
欲は完全に消してはならない。というよりまず無理。死にてーか、あんた、原理的にヨー!である。食欲無くなって死ぬとか言う以前の問題である。生産的な活動が一切停止すれば、即死であろう(笑)
つまり、欲を完全に消そうと言うこと自体、欲、つまり行きすぎであり、煩悩すなわち妄念、実現し得ぬことなのである。-
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from: Infophysさん
2011年11月20日 13時22分37秒
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他者の存在とは自分を自己(中庸)に近づけてくれるもの。
結局、周囲人が自分にとやかく言ってくれることというのは、なにか、過ぎたるは及ばざるが如し、的な指摘であることが多いのかもしれません。要するに、自分より
結局、
周囲人が自分にとやかく言ってくれることというのは、
なにか、過ぎたるは及ばざるが如し、的な指摘であることが多いのかもしれません。
要するに、自分よりも、他者(自分以外の存在という言い方の方がいいかもしれませんが)の方が、自分の本来の状態からの偏りに気づいてくれやすいのかもしれませんね。
何でも受け入れていいわけでもないでしょう。
しかし、本質的に正しく解釈をすべきではあるでしょう。
そうすることで、受け入れるべきことを受け入れれば
着実にぼくらは中庸すなわち自己認知へとみちびかれていくことは明白です。
いわば自分の、自己および中庸からの逸脱に対し、微妙な感覚を持っているのが周囲の存在であり、言ってみればそれに対する作用反作用的な反応を環境が行っていると考えられそうです!
自分の気持ちや感情のゆらぎや中道から大きく逸れた行為に対する環境的な「気」の反応の仕方には充分な配慮をすることが望ましいのかもしれません。
人類の自己なるものを想定した場合、そこからの自我の逸脱が環境からはねかえって、自分達を苦しめている、という近代的自我中心主義による環境問題の構図とおなじといえるでしょう。
人類がうまく自己認知に至る方法論の確立が急がれる現代という時代において、その期待を背負えそうな文化的要素としては、存在のすべてを扱い可能とも言える、情報という概念を基軸とした情報学や、古代には当たり前だったという神話や伝説、民俗を題材とする物語的思考、そして、古来から人類文明の中心として存続してきた代表的な宗教たちの存在が挙げられると思います。それらすべてにかかわる概念こそ、「気」であると言えます。中国の思想では、気は当たり前ですが、実際にはそれは古来からマンダラ等とと多くの人々に知られた存在だったのです。世界のどの文化を見てもこのマンダラと気の存在しなかった文化はなかったと言えそうなくらい、プライマリーな概念なのです。
これほどの普遍性をもちながら、多様性をも持ち合わせた不思議な概念は他にあるのでしょうか。
気が現代社会に公式に認められる必要性を感じるのはこのような理由からです。しかし、科学がその存在を大っぴらに認めない以上それは難しいでしょう。
それくらいに、現代という時代は科学に依存しています。
しかし、ぼくは情報学というか情報科学、情報の理論という立場からはこの気という概念にダイレクトに迫れる可能性を感じるのです。
僕の最近の関心のまとはまさにそこです。
その「理論」の完成こそ、人類の未来を切り開くであろう礎になるはずだと信じて止みません。-
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from: Infophysさん
2011年11月20日 05時14分18秒
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どんな考えも
結局、どんな考えも偏りを生んでしまう。従ってもう考えまい、自ずから然るべし...。とそれがうまくいけばいいのですが、とらわれのない心は難しすぎて、結局
結局、どんな考えも偏りを生んでしまう。
従ってもう考えまい、自ずから然るべし...。
とそれがうまくいけばいいのですが、
とらわれのない心は難しすぎて、
結局、人生を通して可能な限り、下で述べたような幅広く多量で密な経験的データ収集を
試みることでしか、自らの安心(あんじん)をはかることはできないぼくなのでした(^_^;)
自分のやってるすべての事は、たいがいは自分が認めてあげるしかない、
自分で自分のすべてを包み込む、抱擁・許容する、みたいなわけのわからないことを宗教的行為は目指しているのでしょうか。
それ自体が自ずから然る、ことによってしか可能ではないのでしょうから、というふうに、色々堂々巡りを繰り返しながらも、さいごは
そのような、あるがまま、に収束していくのかもしれませんね...-
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from: junoさん
2011年11月20日 00時55分25秒
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破滅や失敗・・。
たくさんの失敗や、あやまちの中に、真実が見えることもあると思います。なんとかしなくては〜。ぜひ、追求してほしいです。
たくさんの失敗や、あやまちの中に、真実が見えることもあると思います。
なんとかしなくては〜。
ぜひ、追求してほしいです。-
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from: Infophysさん
2011年11月20日 04時58分07秒
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「Re:破滅や失敗・・。」>たくさんの失敗や、あやまちの中に、真実が見えることもあると思います。>なんとかしなくては〜。>ぜひ、追求してほしいです。や
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from: Infophysさん
2011年11月19日 16時40分52秒
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結局はデータなのか
どんな「領域」に対しても、十分条件が一定の密度を超えて入手されると、自動的に理解や把握というものが起きるようだ。もっとも、領域にはある程度の広さが要る
どんな「領域」に対しても、十分条件が一定の密度を超えて入手されると、自動的に理解や把握というものが起きるようだ。
もっとも、領域にはある程度の広さが要る。十分条件といって悪ければ、経験だね。経験や十分条件の量と密度がともに、あるスレッショールドを(閾値)を超えて得られたとき、その間の関係性やそのとある領域それ自体の存在に気付きだし、また大きな ひとかたまりの経験、知となる。
そういうスケール的な自己相似的構造の把握の繰り返しとその相似構造間の関係性の把握が、世界全体の把握にわれわれを近づけていく。メタフィズィカルな次元の直観的把握が充実するためには、このことが不可欠なはずだ。
具体例≒経験≒十分条件。 必要条件がわかることだって、より広い立場から見れば十分条件ではないだろうか。とある要素に過ぎないわけだから。
感覚的経験はもっとも基礎に位置するだろうが、その軽視が、つまり、科学理論全盛 というある種の歪み、偏りが、思考そのものを痩せ細らせ、危うくしていたという気がする。僕自身の最大の反省点でもある。 それにしても、とくに音楽はいい(笑) リズムというのは感覚のなかで最高の存在かもしれない。-
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from: Infophysさん
2011年11月19日 06時12分45秒
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うーん
宗教や倫理・道徳ってまるで、それを信じたり守ることが、自身の生命力に直結するかのような言い方なんだけど、憎まれっ子世にはばかる、というのはどう説明した
宗教や倫理・道徳ってまるで、
それを信じたり守ることが、
自身の生命力に直結するかのような言い方なんだけど、
憎まれっ子世にはばかる、
というのはどう説明したらいいんだろ(苦笑)
解せんなぁ...(笑)-
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from: Infophysさん
2011年11月24日 03時18分53秒
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「Re:Re:スマートな生き方」愛に対して不器用にしか生きれなかったその事実の中に不滅の真実が...。僕の人生もモロにそんな感じなんですが、その中の不