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from: caminoさん
2011年01月08日 15時35分14秒
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(私の意見では)
人間はそもそも矛盾した存在ですし、君子豹変すなんて言ったりもします。だから、誠実さなんて論じても無意味かもしれない。
しかし、例えば言葉に対する誠実さというのは、一つの目安になると思う。ある種の言葉は、それを発した人物の相手や社会に対する、あるいはその人自身に対する姿勢を、くっきり浮かびあがらせるように思う。誠実な人は面白い。そうでない人は退屈。
モームの「サミング・アップ」、やっと読み終わったんですけど、こんなようなことを書いている箇所がある。
「書き直すにあたって、『私の意見では』という表現を多くの箇所で削除した。自然にそのように書いたのだが、うるさいと感じたからだ。けれども、本書における私の全ての見解に、『私の意見では』が付くものと理解していただきたい。」
まず本の冒頭で同じ趣旨が述べられ、上の引用は、終盤で結論に向かうにあたり再度強調されたものです。エッセイだから「私の意見では」というのは自明。だから当然省略できるんだけど、結果すごく断定的な表現になっていて、これにはすごく勇気が要る。読み手の便宜のために省くというのがいいじゃないですか。誠実に責任を引き受けていると感じる。
美とは?芸術とは?善とは?神とは?
ぼくは断定的な表現では恐くて書けない。
人と話していて、なんか異様に断定を避ける人だなと感じることってありません?使う言葉が空虚で、そういう言葉を使う人は、そういう言葉ばかり使う。そういう印象ばかりが強く残る。
例えば「私の意見では」もそうだし、「個人的には…思う」とか「あくまで推測にすぎませんが」とか「その可能性は否定できない」とか「あくまで一般論ですが」とか。
「個人的な見解」と前置きしたうえで、当たりさわりのない一般論を述べる人に行き当たると、もうちょっとした絶望感を味わう。
言葉に誠実なら、そういう表現は多用しない。空虚な言葉なんだから省略すべきである。原理的には正確なんでしょうけど。
でもそれは誠実な回答ではない。回答に責任がないからです。責任を引受けてこそ、相手や社会に対する誠実さが生まれる。そう考えると、ああこの人は自分に向かってしかお話していないんだな、と思う。だから退屈に感じる。
普段の他愛ない会話なら気にならないんですけど(いや、ホントは気になるがそれはぼくの個人的な病)。
とにかくなんていうか、モームの姿勢には刺激されました。読み手に、社会に、自分に対して、徹底的に誠実な姿勢が読めた気がします。言葉のプロならかくあるべき。誠実でありたいと望むなら。
世の中確信を持てることというのは、ほとんどないじゃないですか。その中で、自前の回答をでっち上げて提出できる人はやっぱり面白い。魅力的。それは多分35点くらいの答案で良いんだよ。だって平均点は低いし、提出率はさらに惨憺たるものだろうから。
だからなるべく自前の回答で責任を引き受けたい。月並みですけど、確かに自分はそう考えるのです。-
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