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  • from: kieros2005さん

    2013年03月07日 09時28分09秒

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    少年時代の音楽を回顧してみる

    kierosです。


    少年時代は新聞配達などやっておりまして、口笛や鼻歌を歌いながら新聞を配って歩くお兄ちゃんでした。それがタンゴやラテンの名曲だったりするものですから、新聞を受け取るおじさんは「変わった子だなー」と見ておりましたそうな。

    貧しい家庭ですから、レコードなど買う余裕はありません。もっぱらラジオで聴くだけです。田舎のラジオではあまり好きな曲のかかるチャンスが無く、何とかして東京の放送を受信しようとして、ラジオの真空管を電熱器で焼いたり(こういうの知ってるひとは少なくなったな)、アンテナを張ったりして、フェージング(音がおおきくなったり弱くなったりすること)を我慢しながら聴いたものだ。

    そのころのラジオのヒットパレードは、タンゴ、ラテン、シャンソン、カンツォーネそれにアメリカンポップスだったのです。もちろん歌謡曲も全盛でした。三橋美智也や春日八郎、三波春雄や、美空ひばりが流行っておりました。橋幸夫や舟木一夫が出るのはもう少し後です。

    洋楽では、リカルド・サントス(ウェルナー・ミューラー)楽団の真珠取りのタンゴやベルト・ケンプフェルト楽団のトランペット曲の星空のブルースや真夜中のブルースなどがよく流れていました。アルフレッド・ハウゼのコンチネンタルタンゴも良く聴いた。シャンソンではイブ・モンタンやエディット・ピアフが、カンツォーネではミルバやミーナが全盛でした。
    アメリカ系では、ポール・アンカ、ニール・セダカ、コニー・フランシス、エルヴィス・プレスリーらが元気でした。
    こういう音楽が好きでした。というより、日本の歌謡曲を蔑んで、なんとべたべたした嫌な音楽なのだろう、という感覚でした。自分が洋楽が品がよく斬新でかっこよい、とわけも無く誇らしい気持ちであったものです。これが12歳ぐらいまでのことです。
    そして、洋楽は次第にアメリカンポップスだらけになっていきます。ハリウッド映画の影響も大きかったのでしょう。ウェスタンの曲や映画音楽が氾濫するようになりました。1951年まではアメリカの占領下にあったわけですから当然といえば当然です。
    日本映画も元気で、東映は片岡知恵蔵や市川歌右衛門、中村錦之助らが、清水次郎長シリーズなどがヒットしてました。
    日本の人口は9500万人ぐらいで、「9500万人のポピュラーリクエスト」なんて番組もありました。
    実はレコードを放送で流してよいとする民法改正が行われたのは昭和9年でしたから、そこから歌謡曲が爆発的に伸びていきますが、戦争で軍歌オンリーになってしまい、戦後まで音楽は閉塞させられました。戦後に一気に花開くのはこの閉塞感を打破する勢いがあったからです。歌謡曲も全盛となりますが、1956年に民放が放送開始します。こうしてはっきりと音楽がビジネスになるわけです。ヒット曲が出れば、レコードだけでなくラジオが売れる。電蓄が売れる。放送局はスポンサーから金が取れる。こうして橋幸夫や舟木一夫、西郷輝彦らが活躍し始めます。
    私は、相変わらず、パーシー・フェイス楽団やマントヴァーニ楽団、リカルド・サントス楽団、ベルトケンプフェルト楽団などインストゥルメント曲を好んで聴いておりました。歌でもニール・セダカやコニー・フランシスなどでした。プレスリーはちょっと好きではありませんでした。

    その理由も最近になってから少し判る気がしました。コニー・フランシスはイタリア人移民です。ニール・セダカの父はレバノン生まれのようです。ポール・アンカはトルコのイズミールのタクシー運転手のせがれとかで、アメリカに移民した家系です。生粋のアングロサクソンではないのですね。そこへいくとプレスリーは生粋のアメリカ人です。
    どこかゲルマン系のメロディーには馴染めないところがあります。ラテン語をローマ帝国公用語とすればラテン系はシャンソン、カンツォーネ、ファド、中米・南米までを含む音楽的DNAを持つのではないでしょうか。
    そして、中学3年(1964年2月)の卒業間近に大事件が起こります。ビートルズが登場し、ヒットパレードのベストテンすべてを占めるという前代未聞の事件が起こります。それ以来どこのラジオからもビートルズが流れます。それまでの、ほんわかした曲調は無く、やかましいなあ、と思っただけでした。それ以来ポップスを聴くのは止め、ラテン音楽やジャズやクラシックを聴くようになりました。
    日本はビートルズに影響されたか、エレキブームでテケテケサウンドが席巻してました。そしてグループサウンズの登場です。そしてすぐあとにフォークブームだったのではないでしょうか。森山洋子や岡林やマイク真木で、やがて吉田拓郎が出ます。このころ学生仲間で流行っていたフォークギターに手を出しました。洋楽ポップスはサイケデリックとかなんとかわけのわからん様相を呈してきました。
    就職して企業戦士となり、結婚して子育てやら、マイカーブームやら、オイルショックとかドルショックがあり、労働組合運動にのめりこんだり、オーディオ装置に凝ったりして、音楽から遠のいていました。

    やがてカラオケブームが来て、歌謡曲も程度が落ちたなあ、と感じるようになりました。ソニーのウォークマンが出て、みんなヘッドホンでシャカシャカした音を聴いていました。
    この辺から日本の音楽はおかしくなりました。アナログからデジタルへメディアは変わると同時に高音質にもかかわらず、音楽は聴くに堪えないものになって行った。

    音楽家の怠慢か、音楽業界の怠惰か、とも思ったが、よく考えてみれば音楽がビジネスになったのはとっくの昔だから、ビジネス環境が変わっただけなのだった。昔は100万枚売れれば1億人が聴いただろう。それが1万枚売れれば1万人しか聴かなくなったのだ。

    評論家の江藤淳は「平成を歌の無い時代だった、と後世の歴史家は言うだろう」と言ってのけたが、まさにそのとおりになってしまい、NHKの紅白歌合戦は1980年までの視聴率80%を下げ続け、1985年には40%台になってしまった。そしてバブル期を迎え、あっという間にはじけた。
    そして東西ドイツ統一、冷戦終了、ソ連消滅して21世紀、9.11でテロの世紀となり、日本はバブル以降の長い停滞の末、政権交代したものの3.11でとどめを刺された。

    で、私の音楽趣向はどう変わったのかといえば、結局は元にもどり、60年代の頃、もっと細かく言えばビートルズ以前の洋楽と、昭和歌謡になっている。10台半ばに聴いて育った音楽は頭の中なかから消えないのだ。むしろ自分の生まれる以前の音楽へも発掘を続けているといっても良いかもしれない。

    こうしてみると70年代フォークが頭から消えないのは1960年代に生まれた世代の音楽DNAになっているからではないかとひそかに思っている。10才半ばに聴いた音楽が自分を決定づけていると思いませんか?

    長々と駄文を失礼しました。











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