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  • from: 庵主さん

    2024年10月25日 17時42分40秒

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    名言名句 第七十八回 ソクラテス「無知の知」


    無知の知。ソクラテス『ソクラテスの弁明(プラトン著)』等より

    今回ご紹介する名言は、哲学の創始者とされるソクラテスの「無知の知」です。
    ソクラテスのこの思想により、人類の哲学が始まったとされており、人がものに気づき、それが何かを考え、活用し、想像し、創造していく精神活動の源泉となっているのです。

    1.ソクラテス「無知の知」

    現在、多くの辞典・哲学用語集に記載され、ソクラテス哲学の代名詞ともみなされる「無知の知」が、じつは誤解に基づく慣用句が一人歩きして広まってしまったものだ、と考えられています。

    『ソクラテスの弁明』から翻案された「無知の知」は、ソクラテスの言葉に沿うなら「不知の自覚」と訳さねばならない。この思想が形作られた経緯と、解釈を高校生向けに世界史用語を解説するホームページから、以下に引用します。
    (田中美知太郎訳『ソクラテスの弁明ほか』、納富信留訳『ソクラテスの弁明』よりの引用文を含む)

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

    ■「無知の知」の誤解

    ソクラテスに関して必ず語られるフレーズの一つが「無知の知」であるが、それについては誤解があるので注意を要する。プラトン『ソクラテスの弁明』でソクラテス自身の語るところに依れば、あるとき仲間のカイレポンという者がデルフォイのアポロン神殿で「誰よりもソクラテスより知恵のある者はいない」という神託を受けたことを聞いて、その意味を確かめなければならないと一念発起し、知恵があると思われる人を次々と訪ねていった。しかし、彼が訊ねた政治家、芸術家、職人はいずれも、本人たちは自分は知恵があると思っているが、本当は何も知らないのだとソクラテスは気づいた。

    (引用)しかしわたしは、自分一人になったとき、こう考えた。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしの方が知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う。ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。<プラトン/田中美知太郎訳『ソクラテスの弁明ほか』1968 新潮文庫 p.21-22>

    つまり、ソクラテスは「知らないことは知らないと思う」と言っているのであり、「知らないことを知っている」と言っているのではない。したがって「無知の知」という言い方は正しくない。「無知の知」とは日本で誤って流布してしまった誤解である。

    (引用)ここで大切なのは、ソクラテスが「知らないと思っている」という慎重な言い方をしていて、日本で流布する「無知の知」(無知を知っている)といった表現は用いていない点である。ソクラテスはそんな特別な知者として、人類の「教師」などと崇められる人物ではなく――彼は自分が「教師」であることをくりかえし否定している――あくまで人間が知恵という点でどのように謙虚であるあるべきか、を代表して示している。そこで初めて、哲学が始まるからである。<プラトン/納富信留訳『ソクラテスの弁明』2012 光文社古典文庫 解説 p.129-130>

    ・「世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒント」ホームページ
    https://www.y-history.net/appendix/wh0102-136.html

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

    さて、ソクラテス哲学発祥のきっかけとなった、当時のギリシャの時代背景と、「無知の知」(不知の自覚)発見に至る道筋を、先生と生徒の問答として、面白くわかりやすく解説するページもあります。
    こちらも参照してみてください。

    ・「TABI LABO ~なぜソクラテスは無知の知に気づいたのか?」
    https://tabi-labo.com/282605/zombie-3000-2



    2.孔子「知らざるを知らずと為す」

    ソクラテスよりも前に、「無知の知」の思想を提唱した東洋の哲人がいました。中国儒教の祖、孔子です。
    ソクラテスが紀元前470頃~399、孔子が紀元前552~479。孔子の没後9年目にソクラテスが生まれているため、世界最高峰の哲人が相次いで誕生していたことはとても興味深い事実です。
    孔子の思想が著作として成立するのは後世のことですし、遠く国を隔てていることを思えば、ソクラテスが孔子の思想を知り得たとは思えません。
    「無知の知」(不知の自覚)と「不知為不知」が、踵を継ぐがごとく近い時期、国も人種も異なるこの二人から生まれ出たことに驚かされます。

    孔子の「不知為不知」を出典『論語』の為政第二より、〔白文〕〔訓み下し文〕〔口語訳〕にて、以下ご紹介しましょう。

    〔白文〕
    子曰、由、誨 女知之乎。知之為知之、不知為不知。是知也。

    〔訓み下し文〕
    子曰く、由よ、女(なんじ)に之を知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。

    〔口語訳〕
    師がこういわれた、「由よ、お前に『知る』ということを教えてみよう。知っていることを知っているとし、知らないことは知らないとする。これが知るということだ」と。

    由、すなわち子路は孔子の最初の弟子で、武勇を好む直情径行の人物です。
    この率直な性質を愛され、「道が行われないから、いっそ海に向かおうか。ついてくるのは由であろう」(『論語』公冶長篇)、といわれました。すべての門人の中で『論語』に登場する回数がもっとも多いのが子路です。

    さて、孔子と子路の関係は、師と弟子という以上に、旧友同士のように近しいものでした。後輩弟子たちが師を恐れ、なかなか口を開くことができないような場面でも子路はずけずけと思うことをいい、孔子を諫めることもありました。時には口がすべり、知ったかぶりをすることもあったのでしょうか。師は「お前に教えよう。知っていることは知っていると思い、知らないことは知らないと認めなさい。それが本当の知ることだ」と教えました。ソクラテスの「無知の知(不知の自覚)」です。子路はここから賢人への第一歩をはじめ、その生の最期まで師の教えを忠実に実行していくのです。




    3.世阿弥「上手は下手の手本、下手は上手の手本」

    ソクラテスが神託に基づき、智者・賢者の代表とされる政治家・学者・芸術家を訪ね、問いただしたところ、本人たちは「自分は知恵がある」と思っているが、本当は何もしらないのだ、と気づきます。
    これが、「無知の知」(不知の自覚)発見の契機でした。

    ソクラテスが訪問した識者・賢人たちは、当然当時の各界の第一人者だったろうと思われます。その道については誰よりも豊富な知識と経験をもち、高い見識をもった人々。果たして彼らが本当に「知って」いるのか。ソクラテスの答えは前述通り「否」でした。
    なぜ各分野のベテラン・権威とされる人が、実は「知らない」のか。

    この「不知」から、本当の「知」へと至る心のプロセスを日本の能楽の大成者、世阿弥と父の観阿弥が、上手(年季を積んだベテラン役者)と下手(初心の役者)の二者に分けて解明しました。
    下手はもちろん、名人上手であっても「不知」の暗がりから抜け出せないのは、「慢心」があるからだと看破したのです。

    以下、世阿弥『風姿花伝』第三問答條々から、「上手は下手の手本、下手は上手の手本」の段落を現代語訳でご紹介しましょう。

    第三 問答條々 ~上手は下手の手本、下手は上手の手本。

    (質問者は世阿弥、回答者は観阿弥)

    質問  能においても人それぞれ得手不得手というものがある。ことのほか劣ったシテであってもある方面では上手に勝る芸をもつ者がいる。これを上手が真似しないのはできないからであろうか。また、真似してはならないので、しないのであろうか。

    回答  一切のことに得手といって、生まれながらにして与えられたよい面があるもの。位は格上ながら、その面についてのみ及ばないということはある。しかしこの場合もまた上手とはいえどもほどほどの上手の範囲ではある。まことに能と工夫を極めつくした上手であれば、どのような芸であろうとできないということなどあろうか。つまりは能と工夫を極めつくした上手が万人に一人もいないということになろうか。いない理由は、工夫がなく慢心のみあるからである。そもそも上手にも悪い面があり、下手にもいい面が必ずあるものだ。ただこれを見分けて指摘する者もなく、本人も自覚していないということか。上手は名を頼み技能にかくされ自分の欠点が見えなくなっている。下手はもとより工夫せず欠点も見えないので、たまたまある長所にも気付かない。されば上手も下手も互いに相手に尋ねるべきだ。反面能と工夫を極めた者はこれを悟るものである。

    いかに下手なシテであっても良いところがあると気付けば、上手もこれを学ぶべきだ。これが一番の方法である。もし良いところに気付いても、自分があんな下手から何を学ぶのだと思い上がる。この心にしばられて自身の悪いところをも無視するようになってしまう。これがすなわち極め得ぬ心となる。また下手にも上手の悪いところが見えた場合。あんなに上手なのに欠点があるものだ、ということは初心の自分にはさぞかし欠点も多いはずと悟り、これを恐れ人にも尋ね工夫をする。これが良い勉強良い稽古となって能は早く上達するだろう。かたや自分はあのように悪い芸などするはずがないと慢心を持てば、自分の長所をも全くわきまえないシテとなってしまう。長所を知らねば短所もよしとしてしまうもの。こうなるといくら年季を積んでも、能は上がらない。これすなわち下手の心というものである。さればたとえ上手であっても、思い上がりは能を下げる。いわんや根拠のない思い上がりはなおさらのこと。よくよく公案し考えることだ。上手は下手の手本、下手は上手の手本とわきまえ工夫すべし。下手の良いところを、上手が自分に欠けている芸域に取り入れることはこれ以上ない理想的な方法ではないか。人の悪いところに気付くだけでも自分の勉強になるというのに、ましてや良いところについては、言うまでもない。「稽古は強くあれ、しかし慢心はもつな」とは、まさにこのことである。

    (『現代語訳 風姿花伝』水野聡訳 PHP研究所 2005/1/21)

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  • from: 庵主さん

    2024年08月13日 17時46分11秒

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    【日本文化のキーワード】第十一回 読み人知らず



    今回のキーワードは、「読み人知らず」。昔も今も、多く見られる無名の人々の名歌や名言・格言をご案内していきましょう。

    名言・名句のホームページ【言の葉庵】では、これまで偉人の言葉や文章を紹介してきました。これらは著名人の名言です。かたや、歴史に名を遺さぬ庶民・一般人にも多くの名歌や名言があり、記録・伝承されてきたのも事実。むしろ無名人の飾らぬ直接的な言葉や言い回しには、はっと胸をつかれるものが多いのではないでしょうか。

    「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」

    知識や教養が充実した立派な人ほど、他人に対して謙虚になる、というたとえです。『俳諧・毛吹草』に、「ほさつみがいればうつふく にんげんみがいればあをのく」とあります。
    「ほさつ」とは菩薩で、米のこと。稲穂は実れば、重くなって垂れてくることに対して、人間は実(金・地位)が入れば、頭が高くなり、人を上から見下すとの意味です。

    『俳諧・毛吹草』の言い回しが、人から人へと言い伝えられ、やがて同句の形をとるようになったと考えられています。作者不詳句です。

    以下、【古典篇】と【現代篇】の二部にて、〔無名人の名歌・名言〕をご案内していきましょう。

    【古典篇】

    1.万葉集

    日本最古にして、世界最大規模とされる詩歌集である万葉集。
    全4500首のうち、2100首以上が作者未詳歌(詠み人知らずの歌)です。名もなき人が詠んだ極めつけの名歌を〔挽歌〕の中から一首見てみましょう。

    「さきわい(福)のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹がこえ(音)を聞く」
    (万葉集 1411番 詠み人知らず)

    伴侶に先立たれた夫が詠んだものと思われます。
    ああ。なんと幸せな人々なのだろう。黒い髪が白くなるまで妻の声が聞けるなどとは......。
    歌の修辞ではなく、直接的で切実な言葉が、しみじみと人の心に伝わってきます。もう二度と妻の声を聞くことができないのだ。今目の前を行く、あの老夫婦のようには。
    失くしてしまった人が、いかに自分にとって大切なものか、と気づく瞬間の思いは千年以上の時を経ても、変わらずぼくたちの胸を打ちます。

    2.古今和歌集

    古今和歌集も全1100首のうち、約4割が読み人知らずの歌であるとされています。
    もっとも有名なのが、日本の国家「君が代」ではないでしょうか。この歌も読み人知らずで、明治時代にメロディーがつけられました。

    それでは、古今和歌集の中から次の一首を。

    「春ごとに花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」
    (古今和歌集 巻第二 春歌下 詠み人知らず)

    毎年春になると花は今を盛りと咲くのだけれど、このように花(あなた)とまた会えたのはお互い命あってこそなのですね。
    歌意はこのようなものですが、一時に満開になり、あっという間もなく散ってしまう桜に、日本人は命のはかなさを歌にたくしてきたのです。
    芭蕉の次の句も旧友との再会を喜び、かつ互いの命のはかなさを嘆じたものでした。

    「いのちふたつの中にいきたる桜かな」
    (野ざらし紀行 松尾芭蕉)

    3.千載和歌集

    勅撰集に入れられた歌のうち、「読み人知らず」の作者には次の3つの分類があります。

    (1) 作者不明の歌
    (2) 一般人・庶人など身分の低い、無名人物の歌
    (3) 世上に記載が憚られる、勅勘の人物の歌

    千載和歌集には上の(3)にあたる〔記載が憚られる〕作者の有名な歌があります。

    「さざなみや志賀のみやこはあれにしを 昔ながらの山桜かな」
    (千載和歌集 巻第一 春歌上 66 詠み人知らず)

    実は、この歌の作者は当時世上に名高い平家の一門、平忠度その人でした。
    撰者である藤原俊成と忠度は和歌の師弟関係。平家が都落ちするに際し、忠度が師に託した自歌の巻物の中から俊成が千載和歌集に入れた一首です。
    しかし世は源氏。滅ぼされた平家一門の名を勅撰集に入れることを憚って、「読み人知らず」として扱われたのでした。

    能<忠度>は、読み人知らずがテーマの名作です。自らの歌が「読み人知らず」とされたことを怨んだ忠度の亡霊が、俊成門の僧の前に姿を現し、自分の名を和歌集に入れてほしい、と嘆願する物語です。「読み人知らず」というより、「読み人いえず」でしょうか。忠度の兄、経盛の歌も同様に「読み人知らず」として入選していました。

    世阿作の多くの名作能は、歴史の闇に葬り去られた〔救われぬ者〕にスポットライトを再び当て、無念の魂を救済しようとしたものなのです。

    4.庶民の辞世の歌

    江戸期の無名の人々の秀歌を〔辞世の歌〕から選んで、以下にご紹介しましょう。

    ●商人の娘(年代不明 享年二十八)
    辞世の句、三句
    (題:湯灌いや)「おのづから心の水の清ければ いづれの水に身をや清めん」
    (題:経かたびらいや)「生まれ来て身には一重も着ざりけり 浮世の垢をぬぎて帰れば」
    (題:引導いや)「死ぬる身の教えなきとも迷うまじ 元来し道をすぐに帰れば」

    「黒甜瑣語」にのっていた話。丹波の国の商人の娘、二十八歳で死亡したが、上の辞世の句三首を残していました。

    ●乞食女(一六七二没 享年不明)
    辞世の句
    「ながらえばありつる程の浮世ぞと 思えば残る言の葉もなし」

    寛文12年4月、京都三条橋の下で二十歳あまりの乞食女の遺体が発見されました。自害とみられ、かたわらには上の辞世の句が残されていたのです。これが都で評判となり、ある貴族もこれに対して返歌を詠みました。

    「言の葉は長し短し身のほどを 思えば濡るる袖の白妙」(新著聞集)

    彼女の意図に反し、三百年以上も「言の葉」は残り、今も聞くものの心を打ちます。

    【現代篇】

    5.現代の名言

    普段、よい言葉、うまい言い回しを耳にし、目にした時、メモをしたりポストイットを貼ったりすることはありませんか。それが何の役に立つのかわからないまま、しかしどこか心の琴線に触れる文章は記録したくなるものです。

    故永六輔さんは、長年にわたって無名の人々の〔名語録〕を集めてきました。
    以下、永六輔さんの『聞いちゃった! 決定版「無名人語録」』(新潮社 2003.1)より、ちょっと笑えて、ほろりと泣けて、パンと膝を打つ、無名の人たちの言葉をいくつかご紹介してみましょう。
    同書は雑誌『話の特集』と『週刊金曜日』に20年間にわたり、連載を続けてきた〈無名人語録〉の編集版です。永さんが自ら〔歩く盗聴器〕となって、全国津々浦々を旅して集めたものです。

    ◆永六輔の無名人語録 抜粋

    「人間が生きていられるのは、地球が生きているからです。
    地球が死んだら人間も死にます。
    地震も台風も洪水も、あらゆる自然災害は地球が生きている証拠です」

    「神さま、どうぞ、娘の生命をお助けください。
    私の生命とひきかえにしてくださって結構です。
    なんでしたら家にもう一人年寄りがいますので、この二人の生命で、娘の生命とひきかえにしてください」

    「鉛筆のような人になりなさい。
    芯がチャンとあって、まわりに気(木)をつかいなさい。
    ......うまいでしょ......?」

    「無理させておいてよ、
    無理するなよっていう奴、
    いるよ」

    「世の中、何を知っているかじゃありません。
    ......誰を知っているかです」

    「二番目に好きなものを生業におしよ、
    一番目は遊びで楽しむもんだ」

    「もっと寝てたらどうなの。
    今日から会社に行かなくていいのよ。
    もっと、寝てなさいよ」

    「お金は淋しがりやなんですよ。
    だから、お金はお金のあるところに行くんですね」

    「運命っていうけどさ、
    運と命は違うものです。
    命は決められたものです。
    運は自分で決めることができます」

    「愛することの反対は、憎みあうことではありません。
    無関心になることです」

    「日本は子供の国だ!
    そう思うと納得のいくことが沢山ありますね」

    「天才といわれる人は病気なんですよ。
    でも、それを治すと、普通の人になっちゃいますからね」

    「死んで貰いたい人は......死なんなァ」

    「死ぬ前になりますと、人間は炭酸ガスが増えるんです。
    この炭酸ガスに麻酔性がありますから、最後はそれほど苦しまずに終わるように出来ているんです」

    「人間、息を引きとっても、暫くは耳が聞こえているんです。
    だから通夜で偲んであげるんです。
    ちゃんと聞いているそうですよ」

    「読経でなくても、故人の好きな音楽でも音響でもいいんです。
    故人を偲ぶのに手助けになればいいんです」

    ■言の葉庵HP【日本文化のキーワード】バックナンバーリンク

    第十回 鬼
    https://blog.goo.ne.jp/kotonoha-anshu/e/56b63fb1822682dcb79c04bc6c67803c
    2023-11-05

    第九回 歌 ~古今和歌集 仮名序にみる和歌の世界
    http://nobunsha.jp/blog/post_233.html

    第八回 仕舞い
    http://nobunsha.jp/blog/post_224.html

    第七回 間
    http://nobunsha.jp/blog/post_206.html
    2017年02月25日

    第六回 切腹
    http://nobunsha.jp/blog/post_135.html
    2013年01月21日 16:00

    第五回 位
    http://nobunsha.jp/blog/post_122.html

    第四回 さび
    http://nobunsha.jp/blog/post_92.html

    第三回 幽玄
    http://nobunsha.jp/blog/post_50.html

    第二回 風狂
    http://nobunsha.jp/blog/post_46.html

    第一回 もののあはれ
    http://nobunsha.jp/blog/post_42.html

    ※「侘び」については以下別稿参照

    [目利きと目利かず 第三回]
    http://nobunsha.jp/blog/post_25.html

    [目利きと目利かず 第四回]
    http://nobunsha.jp/blog/post_28.html

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